捨てられた地味な王宮修復師(実は有能)、強面辺境伯の栄養管理で溺愛され、辺境を改革する ~王都の貴重な物が失われても知りませんよ?~

水上

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第29話:契約書の嘘

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 辺境伯邸の玄関ホールが、不快な怒声で満たされていた。

「娘を出せ! 親の顔を見に来ないとはどういう了見だ!」

「育ててやった恩を忘れたか! この恩知らずめ!」

 喚いているのは、中年の男女だ。
 身なりはそれなりに良いが、品のなさが滲み出ている。

 リディアの実の両親、クロワ男爵夫妻だった。
 そしてその背後には、ねっとりとした笑みを浮かべた恰幅の良い男――王都で悪名高い高利貸しの商人が控えている。

 リディアは階段の上で足を止めた。
 胸の奥が冷たく重くなる。

 王宮で「お前は恥だ」「地味で役に立たない」と罵られ続けた記憶が蘇る。
 彼らはリディアを娘として愛したことなど一度もなかった。
 ただの王家と縁を結ぶための道具としてしか見ていなかったのだ。

「……何の用だ」

 氷点下の声と共に、ジェラルドが現れた。
 彼はリディアを背に隠すように立ち、男爵夫妻を睨みつけた。

「我が領地は害虫駆除を強化している最中だ。用がないなら即刻立ち去れ」

「し、失礼な! 我々は娘を迎えに来たのだ!」

 父親である男爵が、脂ぎった顔で叫んだ。

「王太子殿下との婚約が破棄され、お前のせいで我が家は笑い者だ! その上、王都での生活費やら何やらで、うちは莫大な借金を背負わされた! 責任を取って、この商人の元へ奉公に出ろ!」

「奉公、だと?」

 ジェラルドの眉がピクリと動く。
 奉公とは名ばかりの、借金のカタとしての身売りだろう。
 リディアの鑑定眼や修復技術という才能を商人の元で酷使させ、金を搾り取るつもりだ。

「そうだとも! リディア、お前には親孝行をする義務がある!」

「……証拠は、あるのですか?」

 リディアがジェラルドの背中から進み出た。
 その声は震えていなかった。

「お父様、お母様。私が王都にいた頃、給金のほとんどは実家への仕送りに消えていました。私が贅沢をしたことなど一度もありません。……何の借金ですか?」

「う、うるさい! とにかくあるんだ! ほら、これを見ろ!」

 商人が進み出て、一枚の古びた羊皮紙を突きつけた。
 そこには『金貨五千枚を借り受ける。担保として娘リディアを差し出す』という文言と、数年前の日付、そして男爵の署名があった。

「これは五年前、男爵様が事業に失敗された際に結んだ契約書ですわ。利子が膨らんで、今や返すには娘さんをいただくしかありませんなぁ」

 商人が下卑た笑い声を上げる。
 ジェラルドが剣の柄に手をかけたが、リディアはそれを手で制した。

「拝見します」

 リディアは契約書を受け取った。
 紙は茶色く変色し、端はボロボロで、いかにも古いものに見える。
 だが、リディアは紙の質感ではなく、文字のインクに注目した。

 彼女はルーペを取り出し、署名の部分を拡大して観察した。

「……商人のインクは、歴史的に鉄没食子インクが使われますね。消えにくく、公文書にも適していますから」

「そ、そうだ! 当然、最高級のインクを使った正式な書類だ!」

「鉄没食子インクは、没食子酸と鉄イオンの化学反応で黒色になります。ですが、強烈な酸性を持つため、経年劣化で紙を腐食させる性質があります」

 リディアは顔を上げ、静かに解説した。

「五年も経てば、インクに含まれる硫酸が紙の繊維を分解し、文字の周囲が茶色く焼けたようになったり、最悪の場合、紙を突き抜けて裏側までインクが滲み出る裏抜けという現象が起きます」

 リディアは契約書を裏返し、光に透かしてみせた。

「ですが見てください。この契約書の裏面は真っ白です。インクの染み一つありません」

 さらに、表面の文字を指差した。

「そして文字の周囲も綺麗すぎます。紙自体は古い羊皮紙を調達したのでしょうが、書かれている文字は……、つい昨日、今日書かれたように瑞々しいですね」

 リディアはルーペを商人に突きつけた。

「これは鉄没食子インクだとしても、書いてから数日も経っていないものです。五年前の契約書というのは、科学的にあり得ない嘘です」

 商人の顔が引きつった。
 男爵夫妻も目を白黒させている。
 彼らは商人に言われるがまま、「昔の借金があることにしよう」と結託して、急遽書類を偽造したのだろう。

「な、な……っ! ば、馬鹿なことを言うな! 保存状態が良かっただけだ!」

「保存状態の問題ではありません。化学変化の問題です。時間は、誰にも偽造できません」

 リディアは契約書を指先で弾いた。

「偽造有印私文書行使、および詐欺未遂。……ジェラルド様、これは犯罪ですよね?」

「ああ。極刑に値するな」

 ジェラルドが一歩踏み出した。
 その殺気に、商人は腰を抜かしてへたり込んだ。

「ひぃっ! わ、私は頼まれただけです! 男爵が『娘を高く売りたいから書類を作れ』と!」

「なっ、貴様! 裏切るのか!」

 醜い責任のなすりつけ合いが始まった。
 リディアは、そんな両親を冷めた目で見つめた。

 悲しみさえ湧いてこない。
 ただ、完全に終わったのだと実感した。

「……お父様、お母様」

 リディアは静かに告げた。

「あなた方が私を娘だと思っていないように、私ももう、あなた方を親だとは思いません。……私の家族は、私を必要としてくれる、この領地の人々です」

 彼女は隣に立つジェラルドを見上げた。

「私を守り、私に食事を与え、私の知識を価値あるものとして認めてくれた。……私にとっての家は、ここだけです」

 ジェラルドは優しく微笑み、リディアの肩を抱き寄せた。

「聞いたな。彼女は私の家族だ。……私の家族を害そうとする者は、地の果てまで追い詰めて破滅させる」

 ジェラルドが指を鳴らすと、衛兵たちが一斉に三人を取り囲んだ。

「全員、地下牢へ。……その後、法の手続きに則り、処罰する」

 連行されていく両親の「リディア、待ってくれ!」「私たちは騙されたんだ!」という叫び声が遠ざかっていった。

 玄関ホールに静寂が戻る。

 リディアは、ふぅ、と長く息を吐いた。
 肩の荷が下りたような、けれど少しだけ心が空っぽになったような感覚。

 すると、温かい手が彼女の頭をポンと撫でた。

「……よく言った」

「ジェラルド様……」

「血の繋がりだけが家族ではない。同じ釜の飯を食い、同じ未来を見る者が家族だ。……お前がここを家と言ってくれて、嬉しかったぞ」

 ジェラルドの不器用な言葉に、リディアの目からポロポロと涙がこぼれた。
 それは悲しみの涙ではなく、古い呪縛から解き放たれ、新しい居場所を確かに得た喜びの涙だった。

「はい……。私、今日のご飯は、一番好きなものをリクエストしてもいいですか?」

「ああ。何でも言え」

「初めて会った時の……、ジェラルド様の、黄金のコンソメスープが飲みたいです」

 リディアが泣き笑いで言うと、ジェラルドは「任せておけ」と力強く頷いた。
 家族の絆は、契約書のインクではなく、温かいスープの記憶と共に紡がれていくのだった……。
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