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第28話:視神経の限界
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当たり屋による彫像破壊の次は、物量作戦だった。
王都から、連日連夜、山のような鑑定依頼品が送りつけられてきたのだ。
「この絵画の真贋を判定せよ」
「この壺の年代を特定せよ」
「至急! 明朝までに報告書を提出せよ!」
辺境伯邸の広間は、木箱と梱包材で埋め尽くされていた。
その数、実に百点以上。
しかも、その大半が素人目にも分かるようなガラクタや模造品だ。
明らかに、リディアの目と精神を摩耗させるための嫌がらせ攻撃だった。
「……うぅ」
リディアは作業台の上で、何度目か分からない瞬きをした。
目が乾く。
奥がズキズキと痛む。
朝からずっと高倍率のルーペを覗き込み、微細なひび割れや筆致を追い続けているせいで、眼球のピント調節機能が悲鳴を上げているのだ。
視界が白く霞み、涙が勝手に滲んでくる。
「まだ……、あと三十点……、やらなきゃ……」
もし一つでも鑑定を間違えれば、それを鬼の首を取ったように騒ぎ立て、「辺境の鑑定士は無能だ」と吹聴するつもりだろう。
リディアは充血した目をこすり、再びルーペを構えようとした。
視界が遮られた。
ジェラルドの大きな手が、リディアの目の前に差し出され、ルーペを優しく没収したのだ。
「……限界だ。目がウサギのように赤くなっているぞ」
「ジェラルド様……。でも、今日中に終わらせないと……」
「中止だ。これ以上酷使すれば、網膜に不可逆的なダメージが残る」
ジェラルドは険しい顔でリディアの顎を持ち上げ、ライトで瞳孔の反応を確認した。
「対光反射が鈍い。視紅の再合成が追いついていない証拠だ。……今の君の目は、性能の落ちたレンズ同然だ」
彼は執事に合図し、ワゴンを運ばせた。
乗っていたのは、洒落たクラッカーと、小さなココットに入ったペースト状の料理。
そして鮮やかなオレンジ色のムースだ。
「これを食え」
「これは……?」
「鶏レバーのパテと、人参のムースだ」
レバーと聞いて、リディアは少し身構えた。
彼女はレバーの独特の臭みが苦手なのだった。
「安心しろ。血抜きと牛乳への漬け込みを徹底し、ブランデーとタイム、ローリエで香りをつけた。臭みは完全に消去してある」
ジェラルドはクラッカーにたっぷりとパテを塗り、リディアの口元へ運んだ。
「レバーには、目の粘膜を正常に保つビタミンAが豚肉の十倍以上含まれている。人参のβカロテンも同様だ。……君の鑑定眼は我が領地の防衛システムそのものだ。メンテナンスを拒否する権利はない」
相変わらずの管理名目での「あーん」だ。
リディアは観念して口を開けた。
「……ん」
驚いた。
臭みなど微塵もない。
まるで上質なバターのように滑らかで、ハーブの香りとレバーのコクが口いっぱいに広がる。
ブランデーの風味が鼻に抜ける、大人の味わいだ。
人参のムースも、砂糖を使っていないのに野菜本来の甘みが凝縮されており、疲れた脳に染み渡るようだった。
「美味しい……。目が、覚めるようです」
「だろうな。吸収率を高めるために、良質な油脂と共に調理した。……これで三十分もすれば、視界の霞みは消えるはずだ」
ジェラルドは満足げに頷き、次々とクラッカーを口に運んでくれた。
食後、少しの休息を経て、リディアの視力は劇的に回復していた。
そこへ、玄関ホールから怒声が響いてきた。
「おい! まだ終わらんのか! 日が暮れるぞ!」
王都から来た使者の男だ。
彼は今回の大量の依頼品を持ち込んだ張本人で、鑑定が終わるのを今か今かと待ち構えていたのだ。
ジェラルドが眉をひそめて立ち上がろうとしたが、リディアがそれを制した。
「……私が行きます」
リディアは鑑定書と仕分けリストを手に、毅然とした足取りでホールへ向かった。
ホールでは、使者の男が執事に向かって喚き散らしていた。
「辺境の鑑定士なんて大したことないな! こんなガラクタの山に手こずるとは! 無能の証明だ! さっさと王太子殿下に報告してやる!」
唾を飛ばして叫ぶ男の背後から、リディアが静かに声をかけた。
「……お待たせいたしました」
「おお、やっと来たか! 遅いぞ! で、どれが本物だ!?」
男は威圧するようにリディアに詰め寄った。
リディアは動じることなく、分厚い書類の束を男に手渡した。
「百十二点、すべて鑑定終了しました。……結論から申し上げますと、本物は一つもありません。すべて贋作、あるいはただの民芸品です」
「はぁ!? 全部偽物だと!? ふざけるな! ちゃんと見たのか!?」
男の顔が赤くなる。
彼はリディアを威嚇するように、さらに大声を張り上げた。
「貴様、目が悪いんじゃないか!? これだけの数を短時間で全部偽物と断じるなんて、怠慢だ! 王家を愚弄する気か! ええ!? なんか言ってみろ!!」
鼓膜が破れそうなほどの大音声。
だが、リディアは表情一つ変えなかった。
彼女は眼鏡の位置を人差し指で直し、冷ややかな瞳で男を見上げた。
「……あの、使者様」
リディアの声は、囁くように静かだった。
しかし、その静けさが、男の怒鳴り声を際立たせていた。
「声のボリュームを上げても、主張の信憑性は上がりませんよ」
「なっ……」
「キャンバスの裏にいくら大きな字でサインを書いても、表の絵が駄作なら無価値なのと同じです」
リディアは淡々と続けた。
「騒げば真実が変わると思っていらっしゃるなら、それは大きな間違いです。……私の目は、ジェラルド様の栄養管理のおかげで、顕微鏡のようにクリアです。これら全ての嘘を見逃すはずがありません」
ぐうの音も出ない正論と、底知れない迫力。
男は口をパクパクさせ、後ずさった。
静かな声で淡々と事実を突きつけるリディアの姿は、後ろに控えているジェラルドよりも、ある意味で恐ろしく見えたのかもしれない。
「……も、持ち帰って精査する! 覚えていろ!」
男は逃げるように荷物をまとめ、去っていった。
その背中には、明らかな敗北感が漂っていた。
「……よく言った」
いつの間にか背後に来ていたジェラルドが、ポンとリディアの頭を撫でた。
「声のボリュームを上げても、主張の信憑性は上がらない、か。……外交の場でも使えそうな名言だ」
「ふふ。疲れていた目が、ジェラルド様の美味しいパテで冴えていたおかげです」
リディアは微笑んだ。
視界は良好。
心も晴れやかだ。
どんなに物量で攻められても、どんなに大声で威嚇されても、二人の絆と真実を見る目は、決して曇らせることはできない。
こうして、王太子一派の嫌がらせは、またしてもリディアの健康と精神を鍛えるだけの結果に終わったのだった。
王都から、連日連夜、山のような鑑定依頼品が送りつけられてきたのだ。
「この絵画の真贋を判定せよ」
「この壺の年代を特定せよ」
「至急! 明朝までに報告書を提出せよ!」
辺境伯邸の広間は、木箱と梱包材で埋め尽くされていた。
その数、実に百点以上。
しかも、その大半が素人目にも分かるようなガラクタや模造品だ。
明らかに、リディアの目と精神を摩耗させるための嫌がらせ攻撃だった。
「……うぅ」
リディアは作業台の上で、何度目か分からない瞬きをした。
目が乾く。
奥がズキズキと痛む。
朝からずっと高倍率のルーペを覗き込み、微細なひび割れや筆致を追い続けているせいで、眼球のピント調節機能が悲鳴を上げているのだ。
視界が白く霞み、涙が勝手に滲んでくる。
「まだ……、あと三十点……、やらなきゃ……」
もし一つでも鑑定を間違えれば、それを鬼の首を取ったように騒ぎ立て、「辺境の鑑定士は無能だ」と吹聴するつもりだろう。
リディアは充血した目をこすり、再びルーペを構えようとした。
視界が遮られた。
ジェラルドの大きな手が、リディアの目の前に差し出され、ルーペを優しく没収したのだ。
「……限界だ。目がウサギのように赤くなっているぞ」
「ジェラルド様……。でも、今日中に終わらせないと……」
「中止だ。これ以上酷使すれば、網膜に不可逆的なダメージが残る」
ジェラルドは険しい顔でリディアの顎を持ち上げ、ライトで瞳孔の反応を確認した。
「対光反射が鈍い。視紅の再合成が追いついていない証拠だ。……今の君の目は、性能の落ちたレンズ同然だ」
彼は執事に合図し、ワゴンを運ばせた。
乗っていたのは、洒落たクラッカーと、小さなココットに入ったペースト状の料理。
そして鮮やかなオレンジ色のムースだ。
「これを食え」
「これは……?」
「鶏レバーのパテと、人参のムースだ」
レバーと聞いて、リディアは少し身構えた。
彼女はレバーの独特の臭みが苦手なのだった。
「安心しろ。血抜きと牛乳への漬け込みを徹底し、ブランデーとタイム、ローリエで香りをつけた。臭みは完全に消去してある」
ジェラルドはクラッカーにたっぷりとパテを塗り、リディアの口元へ運んだ。
「レバーには、目の粘膜を正常に保つビタミンAが豚肉の十倍以上含まれている。人参のβカロテンも同様だ。……君の鑑定眼は我が領地の防衛システムそのものだ。メンテナンスを拒否する権利はない」
相変わらずの管理名目での「あーん」だ。
リディアは観念して口を開けた。
「……ん」
驚いた。
臭みなど微塵もない。
まるで上質なバターのように滑らかで、ハーブの香りとレバーのコクが口いっぱいに広がる。
ブランデーの風味が鼻に抜ける、大人の味わいだ。
人参のムースも、砂糖を使っていないのに野菜本来の甘みが凝縮されており、疲れた脳に染み渡るようだった。
「美味しい……。目が、覚めるようです」
「だろうな。吸収率を高めるために、良質な油脂と共に調理した。……これで三十分もすれば、視界の霞みは消えるはずだ」
ジェラルドは満足げに頷き、次々とクラッカーを口に運んでくれた。
食後、少しの休息を経て、リディアの視力は劇的に回復していた。
そこへ、玄関ホールから怒声が響いてきた。
「おい! まだ終わらんのか! 日が暮れるぞ!」
王都から来た使者の男だ。
彼は今回の大量の依頼品を持ち込んだ張本人で、鑑定が終わるのを今か今かと待ち構えていたのだ。
ジェラルドが眉をひそめて立ち上がろうとしたが、リディアがそれを制した。
「……私が行きます」
リディアは鑑定書と仕分けリストを手に、毅然とした足取りでホールへ向かった。
ホールでは、使者の男が執事に向かって喚き散らしていた。
「辺境の鑑定士なんて大したことないな! こんなガラクタの山に手こずるとは! 無能の証明だ! さっさと王太子殿下に報告してやる!」
唾を飛ばして叫ぶ男の背後から、リディアが静かに声をかけた。
「……お待たせいたしました」
「おお、やっと来たか! 遅いぞ! で、どれが本物だ!?」
男は威圧するようにリディアに詰め寄った。
リディアは動じることなく、分厚い書類の束を男に手渡した。
「百十二点、すべて鑑定終了しました。……結論から申し上げますと、本物は一つもありません。すべて贋作、あるいはただの民芸品です」
「はぁ!? 全部偽物だと!? ふざけるな! ちゃんと見たのか!?」
男の顔が赤くなる。
彼はリディアを威嚇するように、さらに大声を張り上げた。
「貴様、目が悪いんじゃないか!? これだけの数を短時間で全部偽物と断じるなんて、怠慢だ! 王家を愚弄する気か! ええ!? なんか言ってみろ!!」
鼓膜が破れそうなほどの大音声。
だが、リディアは表情一つ変えなかった。
彼女は眼鏡の位置を人差し指で直し、冷ややかな瞳で男を見上げた。
「……あの、使者様」
リディアの声は、囁くように静かだった。
しかし、その静けさが、男の怒鳴り声を際立たせていた。
「声のボリュームを上げても、主張の信憑性は上がりませんよ」
「なっ……」
「キャンバスの裏にいくら大きな字でサインを書いても、表の絵が駄作なら無価値なのと同じです」
リディアは淡々と続けた。
「騒げば真実が変わると思っていらっしゃるなら、それは大きな間違いです。……私の目は、ジェラルド様の栄養管理のおかげで、顕微鏡のようにクリアです。これら全ての嘘を見逃すはずがありません」
ぐうの音も出ない正論と、底知れない迫力。
男は口をパクパクさせ、後ずさった。
静かな声で淡々と事実を突きつけるリディアの姿は、後ろに控えているジェラルドよりも、ある意味で恐ろしく見えたのかもしれない。
「……も、持ち帰って精査する! 覚えていろ!」
男は逃げるように荷物をまとめ、去っていった。
その背中には、明らかな敗北感が漂っていた。
「……よく言った」
いつの間にか背後に来ていたジェラルドが、ポンとリディアの頭を撫でた。
「声のボリュームを上げても、主張の信憑性は上がらない、か。……外交の場でも使えそうな名言だ」
「ふふ。疲れていた目が、ジェラルド様の美味しいパテで冴えていたおかげです」
リディアは微笑んだ。
視界は良好。
心も晴れやかだ。
どんなに物量で攻められても、どんなに大声で威嚇されても、二人の絆と真実を見る目は、決して曇らせることはできない。
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