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第1話:偽りの毒杯とノシーボ効果
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王宮の広間は、むせ返るような香水の匂いと、洗練された弦楽の調べに満たされていた。
豪奢なシャンデリアの下、着飾った貴族たちが談笑している。
その中心に、今日の主役である第二王子ジェラルドと、その婚約者であるリリア・アシュベリーがいた。
いや、正確には、いたと言うべきだろうか。
リリアは今、華やかな輪の中心から一歩下がった場所で、給仕のようにティーポットを握りしめていたからだ。
「リリア、遅いぞ。イザベラが喉が渇いたと言っているだろう」
「は、はい。申し訳ありません、ジェラルド様」
リリアは震える手でお茶を注いだ。
美しいドレスに身を包んでいるものの、その顔色は悪い。
彼女の横には、扇子を優雅に揺らす侯爵令嬢、イザベラ・ローズが立っていた。
イザベラはジェラルドの腕にまとわりつきながら、リリアを見下すような視線を投げる。
「ごめんなさいね、リリア様。わたくし、喉が弱くて。あなたが淹れてくださる特別なハーブティーなら安心だと思って所望したのですけれど……」
イザベラがカップを覗き込み、大げさに眉をひそめた。
「あら? 何かしらこの色。まるで毒沼のようね」
カップの中身は、鮮やかすぎるほどの青紫色だった。
周囲の貴族たちがざわめく。
リリアは小さく首を横に振った。
「いえ、これはマロウブルーというハーブで……、喉の痛みに効くと聞いたので、少し濃いめに煮出しただけで……」
「へえ、あなたがわたくしの体を気遣って? ……まあいいわ。いただきます」
イザベラは疑わしげな目を向けつつ、一気に紅茶を煽った。
その直後だった。
「――がっ!?」
カップが床に落ち、けたたましい破砕音を立てた。
イザベラが自身の喉を掻きむしりながら、その場に崩れ落ちる。
「痛い! お腹が、喉が焼けるわ! 毒よ、毒を盛られたの!」
「イザベラ!」
ジェラルドが血相を変えて彼女を抱き留める。
イザベラの白い首筋には、見る見るうちに赤い発疹が浮かび上がっていた。
広間は悲鳴と怒号に包まれた。ジェラルドは憎悪に満ちた目でリリアを睨みつける。
「リリア、貴様……! 自分の立場が危ういからといって、イザベラを毒殺しようとするとは!」
「ち、違います! 私はただお茶を……!」
「黙れ! 現にイザベラの肌を見ろ! この異常な発疹が何よりの証拠だ!」
リリアは青ざめた。
確かにイザベラの肌は赤く腫れ上がっている。
(どうして? ハーブは新鮮なものだったはず。毒なんて入れているわけがないのに)
弁明しようにも、喉が引きつって声が出ない。
周囲からの「なんて恐ろしい女だ」「魔女め」という視線が、物理的な圧力となってリリアを押し潰そうとしていた。
ジェラルドが声高に叫ぶ。
「衛兵! この女を捕らえろ! 罪なき女性を害そうとした大罪人だ!」
屈強な衛兵たちがリリアの細い腕を掴もうとした、その時だ。
「――騒がしいな。サルの求愛行動かと思ったよ」
氷のように冷たく、しかしよく通る声が広間に響き渡った。
群衆が波が引くように割れる。
現れたのは、場違いな男だった。
夜会服の上に白衣のようなロングコートを羽織り、鼻には銀縁の眼鏡。
黒髪の男は、手にした分厚い書物を閉じると、倒れているイザベラとリリアを無感情に見下ろした。
「ア、アルヴィス辺境伯……?」
誰かが呟いた。
アルヴィス・グレンデル。
若くして数々の博士号を持つ天才であり、同時に論理の怪物と恐れられる変人。
アルヴィスは衛兵の手を払いのけると、床にこぼれた青い液体を指先で拭い、躊躇なく舐めた。
「なっ、辺境伯! それは毒だぞ!」
「毒? ……ふん、馬鹿馬鹿しい」
アルヴィスはハンカチで指を拭きながら、冷ややかな視線をイザベラに向けた。
「そのお茶はウスベニアオイ、通称マロウブルーだ。粘液質を多く含み、呼吸器系に有用なハーブに過ぎない」
「で、でも現にイザベラは苦しんでいる! その毒々しい色を見ろ!」
ジェラルドの反論に、アルヴィスは呆れ果てたようにため息をついた。
「殿下、あなたはアポセマティズム(警告色)という生物学用語をご存じないようだ」
「アポ……、なんだと?」
「自然界において、毒を持つ生物は捕食者に狙われないよう派手な色を持つことが多い。だが、逆に、毒はないが、派手な色をすることで毒があるように見せかける生物も存在する。このハーブの色素は、まさにそれだ」
アルヴィスはイザベラに歩み寄ると、彼女の赤くなった腕を無遠慮に掴み上げた。
「では、なぜ彼女が苦しんでいるか。それはノシーボ効果だ」
「の、のしーぼ?」
リリアが思わず聞き返すと、アルヴィスは初めて彼女を見た。
怯える小動物を見るような目だったが、先ほどまでの冷徹さは少し鳴りを潜めている。
「プラセボ効果の逆だ。これは毒だと思い込んだ脳が、体に偽の指令を送り、実際に痛みや嘔吐感を引き起こしている。彼女の虚栄心と被害妄想が、自らの体を蝕んでいるに過ぎない」
イザベラが涙目で叫ぶ。
「う、嘘よ! だって肌が赤くなっているわ! お茶を飲んだ瞬間にこうなったのよ!?」
「それは前後即因果の誤謬だ」
アルヴィスは早口でまくし立てた。
「お茶を飲んだ(前後関係)からといって、お茶が原因(因果関係)である証明にはならない。君のその発疹、蕁麻疹特有の膨隆疹が見られるな。……君、昨晩の夜会で甲殻類のパテを大量に食べていただろう」
「なっ……!?」
「微かに口臭から甲殻類特有のアミン臭がする。それに加えてストレスと、毒を飲まされたという思い込みがアレルギー反応を加速させた。これが結論だ」
アルヴィスは懐から試験管のようなものを取り出し、床の液体を採取すると、リトマス紙のようなものを浸した。
しかし、紙の色が変わることはない。
「簡易検査だが、アルカロイド系の毒性反応はゼロだ。これでもまだ、彼女の腹痛を毒のせいにするつもりか? 科学より感情を優先するというのなら、ここは王宮ではなく動物園に改名すべきだな」
シン、と広間が静まり返った。
苦しむ演技を続けていたイザベラは、気まずそうに呻き声を止める。
ジェラルドは口をパクパクと開閉させ、顔を赤くしたり青くしたりしていた。
誰も何も言い返せない。
圧倒的な知識と論理の前では、感情論など無力だった。
アルヴィスはリリアに向き直ると、興味深そうに目を細めた。
「君、名前は?」
「リ、リリア……、リリア・アシュベリーです」
「そうか。君はこの状況下で、反論もせずただ震えていたな。非常に非論理的だ」
怒られるのかと思いリリアが身を縮めると、彼は意外な言葉を続けた。
「だが、淹れた茶の成分抽出は見事だった。温度管理が完璧だ。……私の屋敷に来い」
「は、はい。……え?」
唐突な展開にリリアが目を白黒させていると、アルヴィスは白衣の裾を翻した。
「冤罪は晴らした。だが、ここの空気は知性が欠乏していて息苦しい。行くぞ、リリア。君のような希少な検体を、こんな場所に放置しておくわけにはいかない」
その手は、ジェラルドが一度も握ってくれなかったほど力強く、リリアの手首を引いた。
これが、論理の怪物と恐れられる辺境伯と、無実の令嬢の出会いだった。
豪奢なシャンデリアの下、着飾った貴族たちが談笑している。
その中心に、今日の主役である第二王子ジェラルドと、その婚約者であるリリア・アシュベリーがいた。
いや、正確には、いたと言うべきだろうか。
リリアは今、華やかな輪の中心から一歩下がった場所で、給仕のようにティーポットを握りしめていたからだ。
「リリア、遅いぞ。イザベラが喉が渇いたと言っているだろう」
「は、はい。申し訳ありません、ジェラルド様」
リリアは震える手でお茶を注いだ。
美しいドレスに身を包んでいるものの、その顔色は悪い。
彼女の横には、扇子を優雅に揺らす侯爵令嬢、イザベラ・ローズが立っていた。
イザベラはジェラルドの腕にまとわりつきながら、リリアを見下すような視線を投げる。
「ごめんなさいね、リリア様。わたくし、喉が弱くて。あなたが淹れてくださる特別なハーブティーなら安心だと思って所望したのですけれど……」
イザベラがカップを覗き込み、大げさに眉をひそめた。
「あら? 何かしらこの色。まるで毒沼のようね」
カップの中身は、鮮やかすぎるほどの青紫色だった。
周囲の貴族たちがざわめく。
リリアは小さく首を横に振った。
「いえ、これはマロウブルーというハーブで……、喉の痛みに効くと聞いたので、少し濃いめに煮出しただけで……」
「へえ、あなたがわたくしの体を気遣って? ……まあいいわ。いただきます」
イザベラは疑わしげな目を向けつつ、一気に紅茶を煽った。
その直後だった。
「――がっ!?」
カップが床に落ち、けたたましい破砕音を立てた。
イザベラが自身の喉を掻きむしりながら、その場に崩れ落ちる。
「痛い! お腹が、喉が焼けるわ! 毒よ、毒を盛られたの!」
「イザベラ!」
ジェラルドが血相を変えて彼女を抱き留める。
イザベラの白い首筋には、見る見るうちに赤い発疹が浮かび上がっていた。
広間は悲鳴と怒号に包まれた。ジェラルドは憎悪に満ちた目でリリアを睨みつける。
「リリア、貴様……! 自分の立場が危ういからといって、イザベラを毒殺しようとするとは!」
「ち、違います! 私はただお茶を……!」
「黙れ! 現にイザベラの肌を見ろ! この異常な発疹が何よりの証拠だ!」
リリアは青ざめた。
確かにイザベラの肌は赤く腫れ上がっている。
(どうして? ハーブは新鮮なものだったはず。毒なんて入れているわけがないのに)
弁明しようにも、喉が引きつって声が出ない。
周囲からの「なんて恐ろしい女だ」「魔女め」という視線が、物理的な圧力となってリリアを押し潰そうとしていた。
ジェラルドが声高に叫ぶ。
「衛兵! この女を捕らえろ! 罪なき女性を害そうとした大罪人だ!」
屈強な衛兵たちがリリアの細い腕を掴もうとした、その時だ。
「――騒がしいな。サルの求愛行動かと思ったよ」
氷のように冷たく、しかしよく通る声が広間に響き渡った。
群衆が波が引くように割れる。
現れたのは、場違いな男だった。
夜会服の上に白衣のようなロングコートを羽織り、鼻には銀縁の眼鏡。
黒髪の男は、手にした分厚い書物を閉じると、倒れているイザベラとリリアを無感情に見下ろした。
「ア、アルヴィス辺境伯……?」
誰かが呟いた。
アルヴィス・グレンデル。
若くして数々の博士号を持つ天才であり、同時に論理の怪物と恐れられる変人。
アルヴィスは衛兵の手を払いのけると、床にこぼれた青い液体を指先で拭い、躊躇なく舐めた。
「なっ、辺境伯! それは毒だぞ!」
「毒? ……ふん、馬鹿馬鹿しい」
アルヴィスはハンカチで指を拭きながら、冷ややかな視線をイザベラに向けた。
「そのお茶はウスベニアオイ、通称マロウブルーだ。粘液質を多く含み、呼吸器系に有用なハーブに過ぎない」
「で、でも現にイザベラは苦しんでいる! その毒々しい色を見ろ!」
ジェラルドの反論に、アルヴィスは呆れ果てたようにため息をついた。
「殿下、あなたはアポセマティズム(警告色)という生物学用語をご存じないようだ」
「アポ……、なんだと?」
「自然界において、毒を持つ生物は捕食者に狙われないよう派手な色を持つことが多い。だが、逆に、毒はないが、派手な色をすることで毒があるように見せかける生物も存在する。このハーブの色素は、まさにそれだ」
アルヴィスはイザベラに歩み寄ると、彼女の赤くなった腕を無遠慮に掴み上げた。
「では、なぜ彼女が苦しんでいるか。それはノシーボ効果だ」
「の、のしーぼ?」
リリアが思わず聞き返すと、アルヴィスは初めて彼女を見た。
怯える小動物を見るような目だったが、先ほどまでの冷徹さは少し鳴りを潜めている。
「プラセボ効果の逆だ。これは毒だと思い込んだ脳が、体に偽の指令を送り、実際に痛みや嘔吐感を引き起こしている。彼女の虚栄心と被害妄想が、自らの体を蝕んでいるに過ぎない」
イザベラが涙目で叫ぶ。
「う、嘘よ! だって肌が赤くなっているわ! お茶を飲んだ瞬間にこうなったのよ!?」
「それは前後即因果の誤謬だ」
アルヴィスは早口でまくし立てた。
「お茶を飲んだ(前後関係)からといって、お茶が原因(因果関係)である証明にはならない。君のその発疹、蕁麻疹特有の膨隆疹が見られるな。……君、昨晩の夜会で甲殻類のパテを大量に食べていただろう」
「なっ……!?」
「微かに口臭から甲殻類特有のアミン臭がする。それに加えてストレスと、毒を飲まされたという思い込みがアレルギー反応を加速させた。これが結論だ」
アルヴィスは懐から試験管のようなものを取り出し、床の液体を採取すると、リトマス紙のようなものを浸した。
しかし、紙の色が変わることはない。
「簡易検査だが、アルカロイド系の毒性反応はゼロだ。これでもまだ、彼女の腹痛を毒のせいにするつもりか? 科学より感情を優先するというのなら、ここは王宮ではなく動物園に改名すべきだな」
シン、と広間が静まり返った。
苦しむ演技を続けていたイザベラは、気まずそうに呻き声を止める。
ジェラルドは口をパクパクと開閉させ、顔を赤くしたり青くしたりしていた。
誰も何も言い返せない。
圧倒的な知識と論理の前では、感情論など無力だった。
アルヴィスはリリアに向き直ると、興味深そうに目を細めた。
「君、名前は?」
「リ、リリア……、リリア・アシュベリーです」
「そうか。君はこの状況下で、反論もせずただ震えていたな。非常に非論理的だ」
怒られるのかと思いリリアが身を縮めると、彼は意外な言葉を続けた。
「だが、淹れた茶の成分抽出は見事だった。温度管理が完璧だ。……私の屋敷に来い」
「は、はい。……え?」
唐突な展開にリリアが目を白黒させていると、アルヴィスは白衣の裾を翻した。
「冤罪は晴らした。だが、ここの空気は知性が欠乏していて息苦しい。行くぞ、リリア。君のような希少な検体を、こんな場所に放置しておくわけにはいかない」
その手は、ジェラルドが一度も握ってくれなかったほど力強く、リリアの手首を引いた。
これが、論理の怪物と恐れられる辺境伯と、無実の令嬢の出会いだった。
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