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第2話:婚約破棄騒動と吊り橋効果の否定
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「待て! 誰が勝手に行っていいと言った!」
広間を出ようとしたアルヴィスとリリアの背に、ジェラルド第二王子の怒声が突き刺さった。
アルヴィスは面倒くさそうに足を止め、ゆっくりと振り返る。
「まだ何か? 医学的な緊急性はすでに排除したはずだが」
「貴様……! 私の婚約者を勝手に連れ出すとは何事だ。それに、医学的に毒でないとしても、リリアがイザベラを害そうとした事実に変わりはない!」
ジェラルドは顔を真っ赤にして叫んだ。
その腕の中では、蕁麻疹が引いたばかりのイザベラが、大げさに震えてみせている。
「そうですわ、ジェラルド様……。たとえ毒でなくとも、彼女は私に恥をかかせようとしたのです。さっきだって、私が苦しんでいるのを見て、冷ややかな目で笑っていましたもの!」
イザベラの言葉に、リリアは目を見開いた。
「そ、そんな……! 私は心配して……」
「黙れ!」
ジェラルドがリリアの言葉を遮る。
「イザベラがそう感じたのなら、それが真実だ! お前はいつもそうだ。学のないイザベラを見下し、『勉強した方がいいですよ』などと、遠回しに彼女を『無知な豚』だと罵ってきただろう!」
「えっ? 私はただ、おすすめの本を聞かれたので……」
リリアの弁解は、王子の怒りの前には無力だった。
周囲の貴族たちも、「なんて性格の悪い女だ」「純朴そうな顔をして」とひそひそ噂し始める。
その時、乾いた拍手の音が響いた。
アルヴィスだった。
彼は無表情で手を叩いていた。
「素晴らしい。教科書通りのわら人形論法(ストローマン)だ」
「……何だと?」
「彼女は本を勧めただけだ。それを君たちは、無知な豚だと罵ったという、攻撃しやすい架空の主張(わら人形)に捻じ曲げて叩いている」
アルヴィスは眼鏡の位置を直しながら、冷徹に告げた。
「相手の主張を正しく引用せず、歪曲して攻撃するのは、知性の敗北宣言に等しい。議論をする気がないなら、壁に向かって独り言を言っていればいい」
「き、貴様……っ! 屁理屈を!」
ジェラルドは激昂し、イザベラをさらに強く抱き寄せた。
「理屈などどうでもいい! 俺はイザベラを守りたいんだ! この騒動で怯える彼女を見た瞬間、俺の心臓は高鳴り、胸が熱くなった! この激しい動悸こそが、彼女への真実の愛の証だ!」
王子は広間に響き渡る声で宣言した。
ドラマチックな展開に、周囲の令嬢たちが「まあ、素敵……」とうっとりとした溜息を漏らす。
ジェラルドは勝利を確信したような顔で、リリアを指差した。
「リリア・アシュベリー! 俺は真実の愛に目覚めた。貴様のような冷血な女との婚約は、今ここで破棄する! そして俺は、イザベラ・ローズを新たな婚約者とする!」
婚約破棄宣言。
リリアの足元が崩れ落ちそうになった。
冤罪は晴らせても、王子の心は戻らない。
公衆の面前で捨てられる恥辱に、目の前が真っ暗になる。
「……ふっ」
その静寂を破ったのは、またしてもアルヴィスの失笑だった。
彼は肩を震わせ、耐えきれないといった様子で吹き出したのだ。
「真実の愛? くくっ……、傑作だ。殿下、あなたは今、ご自身の脳のエラーを愛だと勘違いして世界に公表してしまったぞ」
「なに……?」
「その動悸は愛ではない。吊り橋効果の誤帰属だ」
アルヴィスは、抱き合う二人を哀れむように見下ろした。
「先ほどの『毒だ』という騒ぎで、君たちは生命の危機や緊張を感じ、交感神経が活発化した。心拍数が上がり、呼吸が荒くなる。これは生物としての防衛反応だ。だが、人間の脳は愚かなものでね。その生理的な興奮を、隣にいる異性への恋愛感情だと勘違いして結びつけてしまうことがある」
アルヴィスは一歩踏み出し、王子の目前で言い放つ。
「つまり、君が感じているその胸の高鳴りは、恋のときめきではなく、ただの恐怖と緊張による自律神経の異常興奮だ。吊り橋の上で恐怖を感じている時に出会った相手を好きになるのと同じ現象だよ。それを運命の愛などと呼ぶのは、あまりに詩的すぎて笑えるな」
「う……、うるさい! 黙れ、黙れ!」
図星を突かれたのか、あるいは意味がわからず混乱したのか、ジェラルドは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「とにかく婚約は破棄だ! リリア、お前はもう用済みだ。どこへなりとも消え失せろ!」
「……っ」
リリアは唇を噛み締めた。
反論したかった。
けれど、もう意味がないことはわかっていた。
王子が求めているのは真実ではなく、自分を肯定してくれる都合のいい現実だけなのだ。
「……承知いたしました」
リリアは深く頭を下げた。
震える声で、精一杯の矜持を保って。
「今まで、お世話になりました」
顔を上げると、周囲は冷ややかな目ばかり。
実家のアシュベリー家も、王家に逆らった娘など受け入れないだろう。
私にはもう、帰る場所も、行く場所もない――。
絶望に俯きかけた時、大きな手がリリアの肩に乗せられた。
「交渉成立だな」
アルヴィスだった。
彼はリリアを見捨てず、むしろ満足げな笑みを浮かべていた。
「婚約破棄、結構。これで彼女の所有権はフリーになったわけだ」
「な、何を言っている……?」
「ジェラルド殿下。あなたが捨てたその石ころだが、私の研究には不可欠な要素を含んでいるようでね」
アルヴィスはリリアの肩を抱き寄せ、宣言した。
「リリア・アシュベリーは、私がもらい受ける。彼女の観察眼、ハーブの調合技術、そして何より、私の論理的思考に対する希少なリアクションは、私の知的好奇心を大いに刺激する」
「は、はあ……?」
リリアが間の抜けた声を上げると、アルヴィスは耳元で囁いた。
「安心しろ。君の衣食住、および将来の安全は私が保証する。君には私の屋敷で、被験体兼助手として働いてもらう」
そして、呆気にとられる王子たちを一瞥もせず、アルヴィスは踵を返した。
「行くぞ、リリア。ここは酸素濃度が低すぎて脳に悪い」
手を引かれ、歩き出す。
背後からは王子の怒鳴り声と、イザベラの勝ち誇ったような哄笑が聞こえた。
だが、アルヴィスの大きな背中を見ていると、不思議と恐怖は消えていた。
(被験体……って、何をされるんだろう)
不安はある。
けれど、彼の手の温かさだけは、嘘ではないような気がした。
こうして、リリアは彼の棲む辺境伯邸へと連れ去られることになったのであった。
広間を出ようとしたアルヴィスとリリアの背に、ジェラルド第二王子の怒声が突き刺さった。
アルヴィスは面倒くさそうに足を止め、ゆっくりと振り返る。
「まだ何か? 医学的な緊急性はすでに排除したはずだが」
「貴様……! 私の婚約者を勝手に連れ出すとは何事だ。それに、医学的に毒でないとしても、リリアがイザベラを害そうとした事実に変わりはない!」
ジェラルドは顔を真っ赤にして叫んだ。
その腕の中では、蕁麻疹が引いたばかりのイザベラが、大げさに震えてみせている。
「そうですわ、ジェラルド様……。たとえ毒でなくとも、彼女は私に恥をかかせようとしたのです。さっきだって、私が苦しんでいるのを見て、冷ややかな目で笑っていましたもの!」
イザベラの言葉に、リリアは目を見開いた。
「そ、そんな……! 私は心配して……」
「黙れ!」
ジェラルドがリリアの言葉を遮る。
「イザベラがそう感じたのなら、それが真実だ! お前はいつもそうだ。学のないイザベラを見下し、『勉強した方がいいですよ』などと、遠回しに彼女を『無知な豚』だと罵ってきただろう!」
「えっ? 私はただ、おすすめの本を聞かれたので……」
リリアの弁解は、王子の怒りの前には無力だった。
周囲の貴族たちも、「なんて性格の悪い女だ」「純朴そうな顔をして」とひそひそ噂し始める。
その時、乾いた拍手の音が響いた。
アルヴィスだった。
彼は無表情で手を叩いていた。
「素晴らしい。教科書通りのわら人形論法(ストローマン)だ」
「……何だと?」
「彼女は本を勧めただけだ。それを君たちは、無知な豚だと罵ったという、攻撃しやすい架空の主張(わら人形)に捻じ曲げて叩いている」
アルヴィスは眼鏡の位置を直しながら、冷徹に告げた。
「相手の主張を正しく引用せず、歪曲して攻撃するのは、知性の敗北宣言に等しい。議論をする気がないなら、壁に向かって独り言を言っていればいい」
「き、貴様……っ! 屁理屈を!」
ジェラルドは激昂し、イザベラをさらに強く抱き寄せた。
「理屈などどうでもいい! 俺はイザベラを守りたいんだ! この騒動で怯える彼女を見た瞬間、俺の心臓は高鳴り、胸が熱くなった! この激しい動悸こそが、彼女への真実の愛の証だ!」
王子は広間に響き渡る声で宣言した。
ドラマチックな展開に、周囲の令嬢たちが「まあ、素敵……」とうっとりとした溜息を漏らす。
ジェラルドは勝利を確信したような顔で、リリアを指差した。
「リリア・アシュベリー! 俺は真実の愛に目覚めた。貴様のような冷血な女との婚約は、今ここで破棄する! そして俺は、イザベラ・ローズを新たな婚約者とする!」
婚約破棄宣言。
リリアの足元が崩れ落ちそうになった。
冤罪は晴らせても、王子の心は戻らない。
公衆の面前で捨てられる恥辱に、目の前が真っ暗になる。
「……ふっ」
その静寂を破ったのは、またしてもアルヴィスの失笑だった。
彼は肩を震わせ、耐えきれないといった様子で吹き出したのだ。
「真実の愛? くくっ……、傑作だ。殿下、あなたは今、ご自身の脳のエラーを愛だと勘違いして世界に公表してしまったぞ」
「なに……?」
「その動悸は愛ではない。吊り橋効果の誤帰属だ」
アルヴィスは、抱き合う二人を哀れむように見下ろした。
「先ほどの『毒だ』という騒ぎで、君たちは生命の危機や緊張を感じ、交感神経が活発化した。心拍数が上がり、呼吸が荒くなる。これは生物としての防衛反応だ。だが、人間の脳は愚かなものでね。その生理的な興奮を、隣にいる異性への恋愛感情だと勘違いして結びつけてしまうことがある」
アルヴィスは一歩踏み出し、王子の目前で言い放つ。
「つまり、君が感じているその胸の高鳴りは、恋のときめきではなく、ただの恐怖と緊張による自律神経の異常興奮だ。吊り橋の上で恐怖を感じている時に出会った相手を好きになるのと同じ現象だよ。それを運命の愛などと呼ぶのは、あまりに詩的すぎて笑えるな」
「う……、うるさい! 黙れ、黙れ!」
図星を突かれたのか、あるいは意味がわからず混乱したのか、ジェラルドは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「とにかく婚約は破棄だ! リリア、お前はもう用済みだ。どこへなりとも消え失せろ!」
「……っ」
リリアは唇を噛み締めた。
反論したかった。
けれど、もう意味がないことはわかっていた。
王子が求めているのは真実ではなく、自分を肯定してくれる都合のいい現実だけなのだ。
「……承知いたしました」
リリアは深く頭を下げた。
震える声で、精一杯の矜持を保って。
「今まで、お世話になりました」
顔を上げると、周囲は冷ややかな目ばかり。
実家のアシュベリー家も、王家に逆らった娘など受け入れないだろう。
私にはもう、帰る場所も、行く場所もない――。
絶望に俯きかけた時、大きな手がリリアの肩に乗せられた。
「交渉成立だな」
アルヴィスだった。
彼はリリアを見捨てず、むしろ満足げな笑みを浮かべていた。
「婚約破棄、結構。これで彼女の所有権はフリーになったわけだ」
「な、何を言っている……?」
「ジェラルド殿下。あなたが捨てたその石ころだが、私の研究には不可欠な要素を含んでいるようでね」
アルヴィスはリリアの肩を抱き寄せ、宣言した。
「リリア・アシュベリーは、私がもらい受ける。彼女の観察眼、ハーブの調合技術、そして何より、私の論理的思考に対する希少なリアクションは、私の知的好奇心を大いに刺激する」
「は、はあ……?」
リリアが間の抜けた声を上げると、アルヴィスは耳元で囁いた。
「安心しろ。君の衣食住、および将来の安全は私が保証する。君には私の屋敷で、被験体兼助手として働いてもらう」
そして、呆気にとられる王子たちを一瞥もせず、アルヴィスは踵を返した。
「行くぞ、リリア。ここは酸素濃度が低すぎて脳に悪い」
手を引かれ、歩き出す。
背後からは王子の怒鳴り声と、イザベラの勝ち誇ったような哄笑が聞こえた。
だが、アルヴィスの大きな背中を見ていると、不思議と恐怖は消えていた。
(被験体……って、何をされるんだろう)
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