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第4話:研究室という名の新居
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数日の旅を経て、馬車はついに目的地へと到着した。
グレンデル辺境伯領。
国境付近に位置するこの土地は、豊かな森と険しい山々に囲まれている。
その小高い丘の上に、アルヴィスの屋敷は鎮座していた。
「……これが、お屋敷ですか?」
馬車を降りたリリアは、目の前の光景に絶句した。
それは貴族の邸宅というよりは要塞、あるいは魔窟と呼ぶにふさわしい威容を誇っていた。外壁には蔦が絡まり放題で、窓のいくつかは怪しげな紫色の光を放っている。
「どうした? 入るぞ」
アルヴィスは気にする様子もなく、重厚な扉を押し開けた。
「お邪魔します……」
恐る恐る足を踏み入れたリリアを待っていたのは、埃とインク、そして微かな薬品の匂いだった。
エントランスホールに足の踏み場はない。
床には積み上げられた本の塔が林立し、壁には解読不能な数式が書かれた黒板が掲げられ、得体の知れない骨格標本がシャンデリアからぶら下がっていた。
「ひっ!」
「ああ、気にしなくていい。それはワイバーンの幼体の骨格だ。空気抵抗を減らすための進化の過程が美しかったので飾っている」
アルヴィスは本の山を器用に避けながら進んでいく。
「さて、リリア。ここが君の新居だ。君の部屋は2階の空いている部屋を使うといい。ただし、私の書斎と地下の実験室には、防護服なしで入らないこと。致死性のガスが発生している場合がある」
「ち、致死性……!?」
「冗談だ。……たぶんな」
アルヴィスはコートを脱ぎ捨て、ソファとおぼしき物体(本が山積みで座面が見えない)に向かって倒れ込んだ。
「疲れた……。長旅による振動で、三半規管が限界だ。誰か、カフェインと糖分を持ってきてくれ……」
天才の威厳はどこへやら、彼はぐったりと動かなくなった。
リリアは困惑して周囲を見渡した。
使用人の姿が見当たらない。
「あの、アルヴィス様。使用人の方は?」
「ん? ああ、執事とメイドが数名いるが、彼らには、私の研究の邪魔をしないことを最優先させている。基本的に食事と掃除の時以外は姿を見せない。……そういえば、ここ数日食事をしていないな」
「えっ」
リリアは耳を疑った。
「馬車の中では、私が渡したサンドイッチを召し上がっていましたよね?」
「あれは君が差し出したから食べただけだ。普段、私は研究に没頭すると、食事という生命維持活動を忘れる傾向がある」
アルヴィスは面倒くさそうに手を伸ばし、床に転がっていた乾燥した黒い塊を掴んだ。
「その辺に、先週作った栄養バーの試作品があるはずだ。理論上はこれでカロリーは足りる……」
「だ、駄目です!」
リリアは思わず叫び、彼の手からその怪しい物体をひったくった。
「カビが生えています! こんなものを食べたら、毒杯どころじゃありません!」
「む。……菌類の繁殖スピードを見誤ったか」
「分析している場合ですか! もう……、少し待っていてください!」
リリアは腕まくりをした。
王宮では「地味だ」「気が利かない」と虐げられてきたが、生き抜くために身につけたスキルがある。
彼女は厨房へと走った。
幸い、食材庫には最高級の食材が無造作に放り込まれていた(使い方がわからず放置されていたようだ)。
数十分後。
香ばしい匂いが、魔窟のようなホールに漂い始めた。
「……いい匂いだ。これは、メイラード反応による芳香成分か?」
むくりと起き上がったアルヴィスの前に、リリアはお盆を置いた。
温かい野菜スープと、焼きたてのパン。
そして完璧な温度で淹れられた紅茶。
「どうぞ。簡単なものですが」
「……いただきます」
アルヴィスはスプーンでスープを口に運んだ。
一口、二口。
彼の動きが止まる。
「……どう、でしょうか?」
リリアが不安げに尋ねると、アルヴィスは眼鏡の位置を直しながら、真剣な表情で彼女を見た。
「驚いたな。野菜の細胞壁が適切に破壊され、旨味成分であるグルタミン酸がスープに溶け出している。塩分濃度も私の体液浸透圧に最適化されているようだ」
「えっと……、つまり?」
「美味い、と言っている」
アルヴィスは、がつがつと勢いよくスープを平らげた。
食べ終わると、彼は満足げに息をつき、散らかり放題の部屋を見渡した。
「リリア。君の雇用契約の内容を一部修正する」
「修正、ですか?」
「ああ。君の役割は検体兼助手だったが、これに生命維持管理責任者を追加する」
アルヴィスは切実な目でリリアを見た。
「見ての通り、この屋敷はエントロピー増大の法則に支配されている。放っておけば無秩序へ向かうばかりだ。私の生活能力が欠如していることは、科学的に証明されてしまった」
「……はあ」
「君には、私の食生活と屋敷の秩序を管理する権限を与える。頼む、リリア。君がいないと、私は来週には餓死するか、本の山に埋もれて圧死する可能性が高い」
王宮で「役立たず」と言われたリリアの手を、天才科学者が縋るように握りしめている。
その光景がおかしくて、そして少し嬉しくて、リリアは微笑んだ。
「ふふ、わかりました。私がアルヴィス様のお世話をさせていただきます。……でも、まずはお掃除からですね」
「うっ……、本を動かすのは最小限にしてくれ。あれはカオス理論に基づいて配置してあるんだ」
「ただ散らかっているだけにしか見えません!」
こうして、ゴミ屋敷(研究室)での、ちぐはぐな同居生活が幕を開けた。
リリアにとって、ここは王宮よりもずっと居心地の良い、自分の居場所になりそうな予感がしていた……。
グレンデル辺境伯領。
国境付近に位置するこの土地は、豊かな森と険しい山々に囲まれている。
その小高い丘の上に、アルヴィスの屋敷は鎮座していた。
「……これが、お屋敷ですか?」
馬車を降りたリリアは、目の前の光景に絶句した。
それは貴族の邸宅というよりは要塞、あるいは魔窟と呼ぶにふさわしい威容を誇っていた。外壁には蔦が絡まり放題で、窓のいくつかは怪しげな紫色の光を放っている。
「どうした? 入るぞ」
アルヴィスは気にする様子もなく、重厚な扉を押し開けた。
「お邪魔します……」
恐る恐る足を踏み入れたリリアを待っていたのは、埃とインク、そして微かな薬品の匂いだった。
エントランスホールに足の踏み場はない。
床には積み上げられた本の塔が林立し、壁には解読不能な数式が書かれた黒板が掲げられ、得体の知れない骨格標本がシャンデリアからぶら下がっていた。
「ひっ!」
「ああ、気にしなくていい。それはワイバーンの幼体の骨格だ。空気抵抗を減らすための進化の過程が美しかったので飾っている」
アルヴィスは本の山を器用に避けながら進んでいく。
「さて、リリア。ここが君の新居だ。君の部屋は2階の空いている部屋を使うといい。ただし、私の書斎と地下の実験室には、防護服なしで入らないこと。致死性のガスが発生している場合がある」
「ち、致死性……!?」
「冗談だ。……たぶんな」
アルヴィスはコートを脱ぎ捨て、ソファとおぼしき物体(本が山積みで座面が見えない)に向かって倒れ込んだ。
「疲れた……。長旅による振動で、三半規管が限界だ。誰か、カフェインと糖分を持ってきてくれ……」
天才の威厳はどこへやら、彼はぐったりと動かなくなった。
リリアは困惑して周囲を見渡した。
使用人の姿が見当たらない。
「あの、アルヴィス様。使用人の方は?」
「ん? ああ、執事とメイドが数名いるが、彼らには、私の研究の邪魔をしないことを最優先させている。基本的に食事と掃除の時以外は姿を見せない。……そういえば、ここ数日食事をしていないな」
「えっ」
リリアは耳を疑った。
「馬車の中では、私が渡したサンドイッチを召し上がっていましたよね?」
「あれは君が差し出したから食べただけだ。普段、私は研究に没頭すると、食事という生命維持活動を忘れる傾向がある」
アルヴィスは面倒くさそうに手を伸ばし、床に転がっていた乾燥した黒い塊を掴んだ。
「その辺に、先週作った栄養バーの試作品があるはずだ。理論上はこれでカロリーは足りる……」
「だ、駄目です!」
リリアは思わず叫び、彼の手からその怪しい物体をひったくった。
「カビが生えています! こんなものを食べたら、毒杯どころじゃありません!」
「む。……菌類の繁殖スピードを見誤ったか」
「分析している場合ですか! もう……、少し待っていてください!」
リリアは腕まくりをした。
王宮では「地味だ」「気が利かない」と虐げられてきたが、生き抜くために身につけたスキルがある。
彼女は厨房へと走った。
幸い、食材庫には最高級の食材が無造作に放り込まれていた(使い方がわからず放置されていたようだ)。
数十分後。
香ばしい匂いが、魔窟のようなホールに漂い始めた。
「……いい匂いだ。これは、メイラード反応による芳香成分か?」
むくりと起き上がったアルヴィスの前に、リリアはお盆を置いた。
温かい野菜スープと、焼きたてのパン。
そして完璧な温度で淹れられた紅茶。
「どうぞ。簡単なものですが」
「……いただきます」
アルヴィスはスプーンでスープを口に運んだ。
一口、二口。
彼の動きが止まる。
「……どう、でしょうか?」
リリアが不安げに尋ねると、アルヴィスは眼鏡の位置を直しながら、真剣な表情で彼女を見た。
「驚いたな。野菜の細胞壁が適切に破壊され、旨味成分であるグルタミン酸がスープに溶け出している。塩分濃度も私の体液浸透圧に最適化されているようだ」
「えっと……、つまり?」
「美味い、と言っている」
アルヴィスは、がつがつと勢いよくスープを平らげた。
食べ終わると、彼は満足げに息をつき、散らかり放題の部屋を見渡した。
「リリア。君の雇用契約の内容を一部修正する」
「修正、ですか?」
「ああ。君の役割は検体兼助手だったが、これに生命維持管理責任者を追加する」
アルヴィスは切実な目でリリアを見た。
「見ての通り、この屋敷はエントロピー増大の法則に支配されている。放っておけば無秩序へ向かうばかりだ。私の生活能力が欠如していることは、科学的に証明されてしまった」
「……はあ」
「君には、私の食生活と屋敷の秩序を管理する権限を与える。頼む、リリア。君がいないと、私は来週には餓死するか、本の山に埋もれて圧死する可能性が高い」
王宮で「役立たず」と言われたリリアの手を、天才科学者が縋るように握りしめている。
その光景がおかしくて、そして少し嬉しくて、リリアは微笑んだ。
「ふふ、わかりました。私がアルヴィス様のお世話をさせていただきます。……でも、まずはお掃除からですね」
「うっ……、本を動かすのは最小限にしてくれ。あれはカオス理論に基づいて配置してあるんだ」
「ただ散らかっているだけにしか見えません!」
こうして、ゴミ屋敷(研究室)での、ちぐはぐな同居生活が幕を開けた。
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