断罪されていたはずなのですが、成り行きで辺境伯様に連れ去られた結果……。

水上

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第5話:初めての溺愛実験

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 辺境伯邸での生活が始まって一週間。
 リリアは生命維持管理責任者として、戦場のような屋敷を駆け回っていた。

 掃除、洗濯、料理。
 やることは山積みだが、王宮で理不尽ないじめに耐えていた頃に比べれば、ここは天国だった。
 アルヴィスは気難しいが、リリアの淹れた紅茶を飲むと、必ず「成分抽出が完璧だ」と(彼なりの言葉で)感謝を伝えてくれるからだ。

 ――しかし、その平和は唐突に破られた。

 書斎の静寂を、鋭い破砕音が切り裂いた。

 モップをかけていたリリアの手が震える。
 足元には、実験机の端に置かれていたフラスコが落ち、無残に砕け散っていた。
 中の赤い液体が、書きかけの論文らしき書類にじわじわと染み込んでいく。

「あ……、ああっ……!」

 血の気が引いた。

 やってしまった。
 一番気をつけていたのに……。

 アルヴィスにとって命よりも大事な研究データを、私の不注意で。

(怒られる……!)

 脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックする。
 『これだから平民の血は!』『粗忽者が!』『出ていけ!』
 ジェラルド王子やイザベラ、そして実家の父から浴びせられた罵声が蘇る。

 その時、重厚な扉が開いた。

「なんだ、今の音は。共振現象か?」

 アルヴィスが入ってくる。
 彼は床の惨状を見ると、眉をひそめて歩み寄ってきた。

「も、申し訳ありません! 申し訳ありません!」

 リリアはその場に土下座する勢いでうずくまった。

「私、とんでもないことを……、大切な研究を台無しにしてしまって……! 弁償なんてできません、すぐにこの家を出ていきますから、どうかお許しを……!」

 涙がボロボロとこぼれ落ちる。
 せっかく見つけた居場所だったのに……。
 やっぱり自分は役立たずで、誰かに迷惑をかけるだけの存在なのだ。

「……リリア」

「はい、ぶたないで……」

「顔を上げろ」

 怯えながら顔を上げると、アルヴィスはしゃがみ込み、彼女の目線の高さに合わせていた。

 怒声はなかった。
 彼はポケットからハンカチを取り出し、リリアの汚れた手を丁寧に拭き取った。

「怪我はないか? ガラス片で表皮を傷つけていないか?」

「え……? は、はい。私は大丈夫ですが、書類が……」
「ああ、これか」

 アルヴィスは赤く染まった紙を拾い上げ、無造作にゴミ箱へ放り込んだ。

「えっ!?」

「ただの失敗した計算式だ。燃やす手間が省けた。それより、フラスコの中身は試作段階の栄養剤だ。床のワックスと反応して有毒ガスが発生するリスクは低いが、掃除の手間が増えたな」

 彼は淡々と言った。
 怒っていないどころか、全く気にしていなかった。

「で、でも……、私が不注意で……」

「人間だからな、エラー(失敗)はつきものだ。だが問題なのは、君のその状態だ」

 アルヴィスはリリアの手首を取り、脈拍を測るように指を当てた。

「脈拍数120オーバー。過呼吸気味で、コルチゾール(ストレスホルモン)の過剰分泌が推測される。これでは業務効率が著しく低下する」

「す、すみません……。すぐに落ち着きますから……」

「無理だろう。今の君の自律神経は暴走状態だ。……仕方ない」

 アルヴィスはため息をつくと、リリアの隣に座り込み、自分の膝をポンと叩いた。

「ここに来なさい」

「はい?」

「緊急メンテナンスを行う。背中を向けて座れ」

 わけがわからぬまま、リリアは言われた通りに彼の前に座った。
 すると、背後からアルヴィスの手が伸びてきて、リリアの長い栗色の髪に触れた。

「えっ、あ、アルヴィス様!?」

「じっとしていろ」

 彼の指が、櫛のようにリリアの髪を優しく梳き始めた。

 不慣れで、少しぎこちない手つき。
 けれど、その指先は驚くほど温かく、リズムは一定で心地よい。
 頭皮をマッサージされるような感覚に、強張っていた肩の力がふっと抜ける。

「……これは、グルーミング(毛づくろい)だ」

 背後から、少し低くなった声が聞こえた。

「社会的動物である霊長類は、仲間同士で毛づくろいをし合うことで、群れの中での信頼関係を確認し、ストレスを軽減させる習性がある。言葉のいらない、最上位の親愛行動だ」

 アルヴィスの指が、髪の絡まりを丁寧にほどいていく。

「君は先ほど、失敗によって群れ(この家)から追い出されるという原始的な恐怖を感じていたはずだ。だから私は今、君の髪を整えることで、『君はこの群れに必要な個体であり、排除されることはない』という信号を、君の脳に直接送っている」

 なんとも理屈っぽい説明だった。

 けれど、その理屈が今は何よりも優しかった。
 「許す」という言葉よりも、ただ髪を梳かされるという行為が、「ここにいていい」という事実を雄弁に語っていた。

「……追い出さないで、くださるのですか?」

「当たり前だ。たかがガラス一つで、優秀な生命維持管理責任者を解雇するなど、コストパフォーマンスが悪すぎる」

 リリアの目から、恐怖とは違う種類の涙がこぼれた。

「ありがとうございます……」

「礼には及ばん。これは君のためだけではない」

 アルヴィスの手が止まり、ふと、リリアの頭の上にぽんと置かれた。

「……君の髪に触れていると、私の脳内でもオキシトシンが分泌されているようだ」

「オキシトシン……?」

「愛情ホルモン、あるいは抱擁ホルモンとも呼ばれる。不安を鎮め、心拍数を安定させる効果がある。……不思議だな。難解な論文を読むより、君の髪を触っている方が、私の精神は安定するらしい」

 背中越しに伝わるアルヴィスの体温が、少し上がった気がした。

「だから、これは相互利益のある実験だ。……もう少し、このままでいてもいいか?」

 いつもは自信満々の彼が、少し照れくさそうに尋ねてくる。
 リリアは涙を拭い、小さく頷いた。

「はい。……あの、髪がボサボサですみません」

「いや、柔らかくて……、いい手触りだ」

 差し込む陽光の中、散らかった書斎の床で、二人はしばらく寄り添っていた。

 リリアの恐怖心は消え去り、代わりに胸の奥に、ぽかぽかとした暖かい感情が芽生え始めていた。
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