断罪されていたはずなのですが、成り行きで辺境伯様に連れ去られた結果……。

水上

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第39話:論理の演説と滑り坂の誤謬

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 アルヴィスが待っていたものが、ようやく訪れた。

 それは、凍りつくように冷たい突風だった。

「うわぁっ!?」

「寒っ!? なんだ!?」

 熱気に浮かされていた暴徒たちは、突然の寒さに襲われ、悲鳴を上げて足を止めた。
 屋敷のホールが一瞬にして冷凍庫のように冷え込む。

 物理的な寒さは、生物にとって最強のブレーキだ。
 震えが止まらないほどの寒気の中で、暴れ回ろうとするエネルギーは強制的に奪われる。

 静まり返ったホールに、アルヴィスの声が響いた。

「ようやく静かになったな。これで少しは脳の温度も下がったか、ホモ・サピエンス諸君」

 突風が治まってくると、アルヴィスは悠然と立っていた。
 その背後で震えているリリアも、アルヴィスのコートに包まれているが、毅然と前を見据えている。

「いったい、何が……」

 先頭にいた男が、ガチガチと歯を鳴らしながら問うた。

「気象情報を確認していないのか? 今日のこの時間は、季節外れの冷たい突風が吹くという予報があった。君たちにとっては、扁桃体の強制冷却だ」

 アルヴィスは淡々と答えた。

「人間は体温が下がると、生命維持のために副交感神経が働き、興奮状態(交感神経優位)が解除される。頭を冷やせとはよく言ったものだが、物理的に冷やすのが最も効果的だ」

 彼は凍りついた群衆を見渡した。

「さて、理性が戻ったところで、先ほどのイザベラの演説を検証しようか」

 アルヴィスは逃げ遅れて柱の陰に隠れていたイザベラを指差した。

「彼女はこう言ったな。『王都の人間が来た。だから領地を乗っ取るつもりで、領民を皆殺しにする』と」

 アルヴィスは鼻で笑った。

「これは論理学における滑り坂の誤謬だ」

「すべり……、ざか……?」

「Aが起きれば、ドミノ倒しのように必ず最悪の結末Zになる、と主張する詭弁だ。AからZに至るまでの論理的なつながりや中間段階をすべて無視し、極端な恐怖を煽るために使われる」

 アルヴィスは指を振った。

「風が吹けば桶屋が儲かる、というレベルの妄想だ。調査員が来たからといって、なぜ皆殺しに飛躍する? 我々が君たちを殺すメリットなど、経済的にも政治的にもゼロだ。労働力を失えば領地経営は破綻する。そんな非合理なことをするのは、三流の悪役だけだ」

 領民たちは顔を見合わせた。
 頭が冷えてみると、確かにそうだ。
 国がわざわざ自国民を虐殺しに来る理由がない。

「だが、イザベラが君たちを殺そうとしていた証拠ならある」

 アルヴィスはリリアに合図を送った。
 リリアは一歩前に出ると、先ほど押収したばかりの帳簿と、地下倉庫の鍵を掲げた。

「皆さん! これを見てください!」

 リリアの声は、もう震えていなかった。

「地下のワインセラーから、大量の小麦と塩漬け肉が見つかりました! すべて、イザベラ様が『不作だからない』と嘘をついて隠していたものです!」

「な……、んだと?」

「俺たちの麦が、あったのか……?」

「はい! 彼女は自分だけが生き延びるために、食料を独占し、皆さんを餓死させようとしていました。……殺そうとしていたのは王都の人間ではありません。貴方たちが信じていた領主の娘です!」

 リリアの言葉は、アルヴィスの論理よりも強く、領民たちの感情を揺さぶった。
 そこにあるのは論理ではなく、動かぬ物証だったからだ。

「う、嘘だ……。嘘だぁ……」

 男の一人が膝から崩れ落ちた。

 自分たちは騙されていた。
 自分たちを助けに来た人間を殺そうとし、自分たちを殺そうとしていた人間を守ろうとしていた。
 その愚かさと事実に、涙が溢れ出す。

「……リリアの言う通りだ」

 アルヴィスは静かに告げた。

「我々は奪いに来たのではない。不当に奪われたものを、君たちに還付しに来たのだ。……さあ、どうする? まだその滑りやすい坂道を転がり落ちて、破滅の谷底へ行きたいか?」

 もはや、暴動の気配は消え失せていた。

 あるのは深い後悔と、真実を知った衝撃だけ。
 そして、その感情の矛先は、ただ一人に向けられた。

 全員の視線が、柱の陰で震えているイザベラに集中する。

「ひっ……!」

 イザベラは悲鳴を上げた。
 今度の視線は、熱狂的な崇拝でも、操りやすい怒りでもない。
 底知れぬ軽蔑と、冷え切った絶縁の眼差しだった。

「……あ、あは。……ち、違うの……、私は……」

 イザベラは後ずさり、壁にぶつかった。

 逃げ場はない。
 物理的にも、論理的にも、心理的にも。
 彼女が作り上げた滑り坂を、彼女自身が一番下まで転がり落ちてしまったのだ。

「確保だ」

 アルヴィスの短い命令で、近衛騎士たちが動いた。
 イザベラは抵抗する気力もなく、ずるずるとその場にへたり込んだ。

 リリアは大きく息を吐き、アルヴィスを見上げた。

「……終わりましたね」

「ああ。君のプレゼンのおかげだ」

 アルヴィスはリリアの頭に手を置き、くしゃりと髪を撫でた。

「君の声は、私の論理よりも彼らの心に届いていたぞ。論より証拠。単純たが、効果は絶大だ」

 その言葉に、リリアは微笑んだ。
 狂乱の夜が明け、ローズ領にようやく、嘘のない朝日が差し込もうとしていた。
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