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第46話:アルヴィスの不調と離脱症状
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リリアが書き置きを残して屋敷を去ってから、丸三日が過ぎた。
グレンデル辺境伯邸は、かつての魔窟へと急速に退化していた。
エントランスには読み散らかした本が地層のように積み上がり、実験器具が散乱し、埃が舞っている。
カーテンは閉ざされ、陰鬱な空気が漂う書斎で、アルヴィスは執務机に向かっていた。
「……計算が、合わない」
彼は羽ペンを走らせていたが、その動きは鈍かった。
単純な微積分。
普段なら呼吸をするように解けるはずの数式が、なぜか頭に入ってこない。
脳内の処理速度が著しく低下している。
視界が明滅し、耳鳴りがする。
何より、胸の奥が焼けるように苦しい。
「……カフェイン不足か」
アルヴィスは震える手でコーヒーカップを口に運んだ。
自分で淹れたコーヒーだ。
一口啜る。
「……不味い」
泥水のような味がした。
温度が高すぎて香りが飛んでいる。豆の挽き方が粗い。
リリアが淹れてくれた、あの黄金比の味とは似ても似つかない。
「なぜだ。手順通りに行ったはずだ……」
カップを置こうとした手が滑った。
ガシャン、と音がして、黒い液体が書類に広がる。
「あ……」
アルヴィスはそれを拭こうともせず、呆然と見つめた。
拭く気力が起きない。
リリアがいなくなってから、全てのやる気が消え失せてしまった。
食事も喉を通らず、睡眠も浅い。
彼女は手紙に書いた。
『私がいない方が、貴方は才能を発揮できる』と。
論理的には、彼女の言う通りかもしれない。
彼女は研究者ではない。
助手としてのスキルも素人レベルだ。
だというのに、現実はどうだ。
「……リリア……」
名前を呼んだ瞬間、強烈なめまいが襲った。
世界がぐるりと回転する。
アルヴィスは椅子から崩れ落ち、そのまま冷たい床に倒れ込んだ。
薄れゆく意識の中で、彼は自分の身体に起きている異常事態を、冷静に分析しようとして――できなかった。
*
その頃、リリアは領地の外れにある宿場町にいた。
修道院へ向かう乗合馬車を待っていたのだ。
フードを目深に被り、膝の上で小さな鞄を抱きしめている。
「これで、いいのよね……」
自分に言い聞かせる。
でも、涙が止まらない。
アルヴィスの顔が、声が、温かい手が、脳裏から離れない。
その時、宿の扉が乱暴に開いた。
入ってきたのは、血相を変えた辺境伯家の執事だった。
「リリア様! やっと見つけました!」
「どうしてここが……」
「探しましたよ! 大変なんです、旦那様が!」
彼は息を切らして叫んだ。
「旦那様が倒れられました! 意識がなく、高熱を出して……、うわ言でリリア様のお名前を呼んでいるんです!」
「えっ……!?」
リリアの頭の中が真っ白になった。
アルヴィスが倒れた?
あんなに丈夫で、健康管理にうるさい彼が?
「急いでください! 医者も原因がわからないと……、このままでは命に関わると!」
「……っ!」
リリアは鞄を放り出した。
もう、邪魔だとか相応しくないとか、そんな理屈はどうでもよかった。
彼が死んでしまうかもしれない。
その恐怖だけで、体は勝手に動いていた。
屋敷の寝室に飛び込んだリリアが見たのは、ベッドで荒い息を吐くアルヴィスの姿だった。
顔色は紙のように白く、脂汗をかいている。
「アルヴィス様!」
リリアが駆け寄ると、彼は薄く目を開けた。
焦点が合っていない。
「……幻覚か。末期症状だな」
「違います、リリアです! 戻ってきました!」
リリアは彼の手を握りしめた。
その手は氷のように冷たかった。
枕元にいた医師が首を振る。
「熱はないのですが、脈が乱れています。極度の衰弱状態ですが、原因となる病変が見当たらないのです」
「……原因なら、わかっている」
アルヴィスが掠れた声で言った。
彼はリリアの手を、壊れ物を扱うように弱々しく握り返した。
「リリア……、君がいなくなったせいだ」
「えっ……、私の、せい?」
「ああ。これは病気ではない。薬物依存者が薬を断った時に起きる、離脱症状(ウィスドロヲル・シンドローム)だ」
彼は苦しげに息を継ぎながら、いつものように(しかし弱々しく)解説を始めた。
「私の脳は、君という存在が供給する安らぎやオキシトシンに、可逆性を超えて依存してしまっていたようだ。君がいなくなったことで、脳内の神経伝達物質のバランスが崩壊し、自律神経失調をきたしている」
アルヴィスはリリアをじっと見つめた。
「食事も睡眠も、君という媒体がなければエネルギーに変換されない体になってしまったらしい。……君は私の研究の邪魔だと言ったな?」
「は、はい……」
「とんでもない誤解だ。君は邪魔どころか、私の生命活動を維持するための必須栄養素だったんだよ」
リリアの目から涙が溢れた。
賢い彼が、こんなになるまで我慢して。
自分が勝手に卑屈になって離れたせいで、彼をこんなに苦しめてしまった。
「ごめんなさい……! 私、自分が貴方に釣り合わないと思って……、王都へ行った方がいいと思って……」
「馬鹿なことを言うな。……王都だろうが世界の果てだろうが、君がいなければ私は呼吸すら満足にできない」
アルヴィスはリリアの手を自分の頬に押し当てた。
「……補給してくれ。君の成分を」
「……はい」
リリアは彼を抱きしめた。
温かい涙が、彼の頬を濡らす。
その瞬間、アルヴィスの呼吸が少しずつ深くなり、強張っていた筋肉が弛緩していくのがわかった。
医師が驚きの声を上げる。
「み、脈拍が安定してきました……! 顔色も戻りつつあります!」
「……ふぅ。やはり、特効薬だ」
アルヴィスはリリアの腕の中で、安堵の息を漏らした。
彼にとって、愛とは単なる感情ではなく、生きるために不可欠な生物学的機能となっていたのだ。
「もう……、二度と離れないでくれ」
「はい。もう離れません。一生、貴方の側にいます」
雨降って地固まる。
リリアの家出騒動は、アルヴィスがいかにリリアを必要としているかを、命がけで証明する結果となったのだった。
グレンデル辺境伯邸は、かつての魔窟へと急速に退化していた。
エントランスには読み散らかした本が地層のように積み上がり、実験器具が散乱し、埃が舞っている。
カーテンは閉ざされ、陰鬱な空気が漂う書斎で、アルヴィスは執務机に向かっていた。
「……計算が、合わない」
彼は羽ペンを走らせていたが、その動きは鈍かった。
単純な微積分。
普段なら呼吸をするように解けるはずの数式が、なぜか頭に入ってこない。
脳内の処理速度が著しく低下している。
視界が明滅し、耳鳴りがする。
何より、胸の奥が焼けるように苦しい。
「……カフェイン不足か」
アルヴィスは震える手でコーヒーカップを口に運んだ。
自分で淹れたコーヒーだ。
一口啜る。
「……不味い」
泥水のような味がした。
温度が高すぎて香りが飛んでいる。豆の挽き方が粗い。
リリアが淹れてくれた、あの黄金比の味とは似ても似つかない。
「なぜだ。手順通りに行ったはずだ……」
カップを置こうとした手が滑った。
ガシャン、と音がして、黒い液体が書類に広がる。
「あ……」
アルヴィスはそれを拭こうともせず、呆然と見つめた。
拭く気力が起きない。
リリアがいなくなってから、全てのやる気が消え失せてしまった。
食事も喉を通らず、睡眠も浅い。
彼女は手紙に書いた。
『私がいない方が、貴方は才能を発揮できる』と。
論理的には、彼女の言う通りかもしれない。
彼女は研究者ではない。
助手としてのスキルも素人レベルだ。
だというのに、現実はどうだ。
「……リリア……」
名前を呼んだ瞬間、強烈なめまいが襲った。
世界がぐるりと回転する。
アルヴィスは椅子から崩れ落ち、そのまま冷たい床に倒れ込んだ。
薄れゆく意識の中で、彼は自分の身体に起きている異常事態を、冷静に分析しようとして――できなかった。
*
その頃、リリアは領地の外れにある宿場町にいた。
修道院へ向かう乗合馬車を待っていたのだ。
フードを目深に被り、膝の上で小さな鞄を抱きしめている。
「これで、いいのよね……」
自分に言い聞かせる。
でも、涙が止まらない。
アルヴィスの顔が、声が、温かい手が、脳裏から離れない。
その時、宿の扉が乱暴に開いた。
入ってきたのは、血相を変えた辺境伯家の執事だった。
「リリア様! やっと見つけました!」
「どうしてここが……」
「探しましたよ! 大変なんです、旦那様が!」
彼は息を切らして叫んだ。
「旦那様が倒れられました! 意識がなく、高熱を出して……、うわ言でリリア様のお名前を呼んでいるんです!」
「えっ……!?」
リリアの頭の中が真っ白になった。
アルヴィスが倒れた?
あんなに丈夫で、健康管理にうるさい彼が?
「急いでください! 医者も原因がわからないと……、このままでは命に関わると!」
「……っ!」
リリアは鞄を放り出した。
もう、邪魔だとか相応しくないとか、そんな理屈はどうでもよかった。
彼が死んでしまうかもしれない。
その恐怖だけで、体は勝手に動いていた。
屋敷の寝室に飛び込んだリリアが見たのは、ベッドで荒い息を吐くアルヴィスの姿だった。
顔色は紙のように白く、脂汗をかいている。
「アルヴィス様!」
リリアが駆け寄ると、彼は薄く目を開けた。
焦点が合っていない。
「……幻覚か。末期症状だな」
「違います、リリアです! 戻ってきました!」
リリアは彼の手を握りしめた。
その手は氷のように冷たかった。
枕元にいた医師が首を振る。
「熱はないのですが、脈が乱れています。極度の衰弱状態ですが、原因となる病変が見当たらないのです」
「……原因なら、わかっている」
アルヴィスが掠れた声で言った。
彼はリリアの手を、壊れ物を扱うように弱々しく握り返した。
「リリア……、君がいなくなったせいだ」
「えっ……、私の、せい?」
「ああ。これは病気ではない。薬物依存者が薬を断った時に起きる、離脱症状(ウィスドロヲル・シンドローム)だ」
彼は苦しげに息を継ぎながら、いつものように(しかし弱々しく)解説を始めた。
「私の脳は、君という存在が供給する安らぎやオキシトシンに、可逆性を超えて依存してしまっていたようだ。君がいなくなったことで、脳内の神経伝達物質のバランスが崩壊し、自律神経失調をきたしている」
アルヴィスはリリアをじっと見つめた。
「食事も睡眠も、君という媒体がなければエネルギーに変換されない体になってしまったらしい。……君は私の研究の邪魔だと言ったな?」
「は、はい……」
「とんでもない誤解だ。君は邪魔どころか、私の生命活動を維持するための必須栄養素だったんだよ」
リリアの目から涙が溢れた。
賢い彼が、こんなになるまで我慢して。
自分が勝手に卑屈になって離れたせいで、彼をこんなに苦しめてしまった。
「ごめんなさい……! 私、自分が貴方に釣り合わないと思って……、王都へ行った方がいいと思って……」
「馬鹿なことを言うな。……王都だろうが世界の果てだろうが、君がいなければ私は呼吸すら満足にできない」
アルヴィスはリリアの手を自分の頬に押し当てた。
「……補給してくれ。君の成分を」
「……はい」
リリアは彼を抱きしめた。
温かい涙が、彼の頬を濡らす。
その瞬間、アルヴィスの呼吸が少しずつ深くなり、強張っていた筋肉が弛緩していくのがわかった。
医師が驚きの声を上げる。
「み、脈拍が安定してきました……! 顔色も戻りつつあります!」
「……ふぅ。やはり、特効薬だ」
アルヴィスはリリアの腕の中で、安堵の息を漏らした。
彼にとって、愛とは単なる感情ではなく、生きるために不可欠な生物学的機能となっていたのだ。
「もう……、二度と離れないでくれ」
「はい。もう離れません。一生、貴方の側にいます」
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