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第45話:リリアの自信喪失
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その日、辺境伯邸に王都の王立学術院から一通の手紙が届いた。
それは、アルヴィスに対する筆頭研究員への就任要請だった。
「……断る」
書斎で手紙を一読したアルヴィスは、即座にそれをゴミ箱へ放り投げた。
「またですか? アルヴィス様、これで三通目ですよ」
リリアが拾い上げると、そこには破格の待遇と、国中の学者が憧れる名誉ある地位が記されていた。
「王都の研究環境は魅力的だが、人間関係のノイズが多すぎる。それに、ここには君がいる。私の生活環境はここで完成しているのだから、移動する合理的理由がない」
アルヴィスはペンを動かしながら、事も無げに言った。
リリアは手紙を握りしめたまま、俯いた。
(……私のせいだ)
アルヴィスは天才だ。
本来なら、王都の最先端の設備で、同じレベルの知性を持つ学者たちと議論を交わし、国の未来を作るべき人だ。
そんな彼が、こんな田舎の屋敷に引きこもっているのは、自分がここにいるから。
自分が王都に行きたくない(嫌な思い出がある)から、気を使っているのではないか。
最近、リリアは彼の書斎に入るのが少し怖かった。
机に広げられた難解な数式。
積み上げられた専門書。
彼が独り言のように呟く理論。
そのどれもが、リリアには理解できない。
「……あの、アルヴィス様」
「なんだ」
「もし、もっと賢くて……、アルヴィス様の話を全部理解できて、研究のお手伝いができるような女性がパートナーだったら……、もっと楽しいと思いませんか?」
恐る恐る尋ねた問いに、アルヴィスは手を止め、不思議そうに首を傾げた。
「リリア。その仮定は前提条件が誤っている」
「え?」
「私と同じレベルで話を理解できる人間など、この国には存在しない。男性だろうと女性だろうとな。ゆえに、パートナーの知能指数は変数として考慮する必要がない」
彼は自分より賢い奴などいないという傲慢な事実を淡々と述べただけだった。
だが、リリアにはそれが、誰が相手でも同じ(君でなくてもいい)と言われているように聞こえてしまった。
(そう……、だよね。私じゃなくても、美味しいコーヒーが淹れられて、掃除ができる人なら、誰でもいいんだ)
イザベラとの戦いでは、彼に選ばれたという自信があった。
でも、平和な日常に戻った今、リリアは自分の無価値さに押しつぶされそうになっていた。
自分には、彼のような才覚もない。
イザベラのような華やかさもない。
あるのは、論理的ではないと彼に呆れられる、凡庸な感情だけ。
「……私、少し部屋で休みます」
「む? 体調不良か? バイタルチェックを……」
「大丈夫です! ……放っておいてください」
リリアは彼の手を振り払い、逃げるように書斎を出てしまった。
パタン、と扉が閉まる。
廊下に一人残されたリリアは、壁に背を預けてズルズルと座り込んだ。
「……馬鹿だな、私」
愛されていることはわかっている。
彼は不器用なりに、大切にしてくれている。
けれど、その優しさが保護や同情に見えてしまう。
対等になりたいと言った。
パートナーになりたいと言った。
でも、天才と凡人の差は、努力で埋まるようなものではなかった。
彼が遠い世界を見ている時、自分はただ、その背中にお茶を差し出すことしかできない。
「私は……、彼にとっての必要条件にはなれても、十分条件にはなれないのかな」
かつて彼から教わった言葉を、リリアは悲しく反芻した。
私がいなくても、彼は生きていける。
むしろ、いない方が彼は自由になれるのかもしれない。
その夜。
夕食の時間になっても、リリアは食堂に現れなかった。
アルヴィスが様子を見に行くと、彼女の部屋はもぬけの殻だった。
そして、机の上に、一枚の置き手紙が残されていた。
『アルヴィス様へ。少しの間、実家……、いえ、遠くの修道院で頭を冷やしてきます。貴方の研究の邪魔ばかりしてしまう自分が、非論理的で嫌になりました。探さないでください。私のことは忘れて、どうか王都で才能を発揮してください。さようなら』
「……は?」
アルヴィスは手紙を持ったまま、凍りついた。
思考回路がショートする。
邪魔?
嫌になった?
さようなら?
文字情報の意味は理解できるのに、文脈が全く理解できない。
「なぜだ? 生活環境は最適化されていたはずだ。ストレス要因は排除した。栄養管理も完璧だった。……ロジックが、繋がらない」
アルヴィスの手から、手紙がひらりと落ちた。
天才の脳が、初めて計算不能(エラー)を起こした瞬間だった。
それは、アルヴィスに対する筆頭研究員への就任要請だった。
「……断る」
書斎で手紙を一読したアルヴィスは、即座にそれをゴミ箱へ放り投げた。
「またですか? アルヴィス様、これで三通目ですよ」
リリアが拾い上げると、そこには破格の待遇と、国中の学者が憧れる名誉ある地位が記されていた。
「王都の研究環境は魅力的だが、人間関係のノイズが多すぎる。それに、ここには君がいる。私の生活環境はここで完成しているのだから、移動する合理的理由がない」
アルヴィスはペンを動かしながら、事も無げに言った。
リリアは手紙を握りしめたまま、俯いた。
(……私のせいだ)
アルヴィスは天才だ。
本来なら、王都の最先端の設備で、同じレベルの知性を持つ学者たちと議論を交わし、国の未来を作るべき人だ。
そんな彼が、こんな田舎の屋敷に引きこもっているのは、自分がここにいるから。
自分が王都に行きたくない(嫌な思い出がある)から、気を使っているのではないか。
最近、リリアは彼の書斎に入るのが少し怖かった。
机に広げられた難解な数式。
積み上げられた専門書。
彼が独り言のように呟く理論。
そのどれもが、リリアには理解できない。
「……あの、アルヴィス様」
「なんだ」
「もし、もっと賢くて……、アルヴィス様の話を全部理解できて、研究のお手伝いができるような女性がパートナーだったら……、もっと楽しいと思いませんか?」
恐る恐る尋ねた問いに、アルヴィスは手を止め、不思議そうに首を傾げた。
「リリア。その仮定は前提条件が誤っている」
「え?」
「私と同じレベルで話を理解できる人間など、この国には存在しない。男性だろうと女性だろうとな。ゆえに、パートナーの知能指数は変数として考慮する必要がない」
彼は自分より賢い奴などいないという傲慢な事実を淡々と述べただけだった。
だが、リリアにはそれが、誰が相手でも同じ(君でなくてもいい)と言われているように聞こえてしまった。
(そう……、だよね。私じゃなくても、美味しいコーヒーが淹れられて、掃除ができる人なら、誰でもいいんだ)
イザベラとの戦いでは、彼に選ばれたという自信があった。
でも、平和な日常に戻った今、リリアは自分の無価値さに押しつぶされそうになっていた。
自分には、彼のような才覚もない。
イザベラのような華やかさもない。
あるのは、論理的ではないと彼に呆れられる、凡庸な感情だけ。
「……私、少し部屋で休みます」
「む? 体調不良か? バイタルチェックを……」
「大丈夫です! ……放っておいてください」
リリアは彼の手を振り払い、逃げるように書斎を出てしまった。
パタン、と扉が閉まる。
廊下に一人残されたリリアは、壁に背を預けてズルズルと座り込んだ。
「……馬鹿だな、私」
愛されていることはわかっている。
彼は不器用なりに、大切にしてくれている。
けれど、その優しさが保護や同情に見えてしまう。
対等になりたいと言った。
パートナーになりたいと言った。
でも、天才と凡人の差は、努力で埋まるようなものではなかった。
彼が遠い世界を見ている時、自分はただ、その背中にお茶を差し出すことしかできない。
「私は……、彼にとっての必要条件にはなれても、十分条件にはなれないのかな」
かつて彼から教わった言葉を、リリアは悲しく反芻した。
私がいなくても、彼は生きていける。
むしろ、いない方が彼は自由になれるのかもしれない。
その夜。
夕食の時間になっても、リリアは食堂に現れなかった。
アルヴィスが様子を見に行くと、彼女の部屋はもぬけの殻だった。
そして、机の上に、一枚の置き手紙が残されていた。
『アルヴィス様へ。少しの間、実家……、いえ、遠くの修道院で頭を冷やしてきます。貴方の研究の邪魔ばかりしてしまう自分が、非論理的で嫌になりました。探さないでください。私のことは忘れて、どうか王都で才能を発揮してください。さようなら』
「……は?」
アルヴィスは手紙を持ったまま、凍りついた。
思考回路がショートする。
邪魔?
嫌になった?
さようなら?
文字情報の意味は理解できるのに、文脈が全く理解できない。
「なぜだ? 生活環境は最適化されていたはずだ。ストレス要因は排除した。栄養管理も完璧だった。……ロジックが、繋がらない」
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