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第44話:平穏な日々
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王都での喧騒が嘘のように、グレンデル辺境伯領には静寂が戻っていた。
イザベラから没収された財産は、アルヴィスの指揮の下、迅速にローズ領の復興支援へと回された。
科学的な土壌改良と用水路の整備が進み、荒廃した隣領にも少しずつ緑が戻り始めているという。
そして、ここ辺境伯邸でも、日常が戻ってきていた。
「……ふう。これでホールの片付けは終わりですね」
リリアは額の汗を拭い、満足げに部屋を見渡した。
かつては本の塔と実験器具の迷宮だった屋敷は、今では見違えるように整頓されている。
窓からは柔らかな陽光が差し込み、磨かれた床を照らしていた。
リリアは生命維持管理責任者として、完璧に仕事をこなしていた。
掃除、洗濯、食材の管理。
使用人たちとも連携し、屋敷はかつてないほど快適な空間になっている。
――平和だ。
あんなに怖かったイザベラも、ジェラルドも、もういない。
誰にも脅かされることのない、穏やかな日々。
けれど。
ふと、リリアの手が止まる。
(……私、これからどうなるんだろう)
戦いが終わって張り詰めていた糸が切れたせいか、心の中にぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
事件の最中は、アルヴィス様の潔白を証明するため、領民を助けるためと無我夢中で走れた。
自分の役割があった。
でも、全てが片付いた今、自分に残っているものは何だろう?
書斎の扉が開き、アルヴィスが出てきた。
彼は書類の束を抱え、眉間に皺を寄せている。
「……リリア。コーヒーを所望する。カフェイン血中濃度が低下して思考速度が落ちている」
「はい、すぐにお持ちします」
リリアは慣れた手つきでコーヒーを淹れ、トレイに乗せて差し出した。
アルヴィスは一口飲むと、ほう、と息をついた。
「完璧だ。抽出温度88度、酸味と苦味のバランスが黄金比だ。君の淹れるコーヒーは、私のニューロンを最も効率的に発火させる」
いつものように褒めてくれる。
だが、リリアは笑顔を返すのが少し遅れた。
机の上には、王都の学会や、国王陛下からの手紙が山積みになっていた。
今回の騒動を解決したことで、アルヴィスの名声は国を救った賢者として不動のものになっていた。
難解な事件の解決依頼や、講演の依頼が殺到しているらしい。
彼は天才だ。
世界が必要とする頭脳だ。
それに比べて、自分は……。
(ただの、コーヒー係?)
そんな卑屈な言葉が脳裏をよぎる。
婚約者という立場はもらった。
でも、それは自分が守られるべき被害者だったからだ。
事件が終わった今、彼のような偉大な賢者の隣に、自分のような何の才能もない女がいていいのだろうか。
「……リリア?」
アルヴィスの声に、リリアはハッとした。
彼は怪訝そうにリリアの顔を覗き込んでいた。
「どうした? 応答速度が遅いぞ。睡眠の質に問題でも?」
「い、いえ! 何でもありません。少し考え事をしていただけです」
リリアは慌てて笑顔を作った。
アルヴィスは納得がいかない様子で、リリアの手首を掴み、脈を測り始めた。
「脈拍は正常範囲内だが、呼吸が浅い。……ここ数日、君のホメオスタシス(恒常性)が乱れている気がする」
「気のせいです。私はとっても元気ですよ」
リリアはそっと手を引き抜いた。
心配をかけたくない。
それに、こんな悩みは彼には理解できないだろう。
非論理的な悩みだ、と一蹴されるのが怖かった。
「それよりアルヴィス様、午後からは隣領の視察ですよね? 準備をしておきます」
「……ああ。頼む」
アルヴィスは何か言いたげだったが、仕事に戻っていった。
彼の背中を見送りながら、リリアは胸の奥のモヤモヤを押し殺した。
敵はいなくなったはずなのに。
平和になったはずなのに。
リリアの心の中には、イザベラよりも手強い、自信のなさという敵が、ひっそりと姿を現し始めていた。
外は快晴。
けれどリリアの心だけが、梅雨空のように曇っていた。
イザベラから没収された財産は、アルヴィスの指揮の下、迅速にローズ領の復興支援へと回された。
科学的な土壌改良と用水路の整備が進み、荒廃した隣領にも少しずつ緑が戻り始めているという。
そして、ここ辺境伯邸でも、日常が戻ってきていた。
「……ふう。これでホールの片付けは終わりですね」
リリアは額の汗を拭い、満足げに部屋を見渡した。
かつては本の塔と実験器具の迷宮だった屋敷は、今では見違えるように整頓されている。
窓からは柔らかな陽光が差し込み、磨かれた床を照らしていた。
リリアは生命維持管理責任者として、完璧に仕事をこなしていた。
掃除、洗濯、食材の管理。
使用人たちとも連携し、屋敷はかつてないほど快適な空間になっている。
――平和だ。
あんなに怖かったイザベラも、ジェラルドも、もういない。
誰にも脅かされることのない、穏やかな日々。
けれど。
ふと、リリアの手が止まる。
(……私、これからどうなるんだろう)
戦いが終わって張り詰めていた糸が切れたせいか、心の中にぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
事件の最中は、アルヴィス様の潔白を証明するため、領民を助けるためと無我夢中で走れた。
自分の役割があった。
でも、全てが片付いた今、自分に残っているものは何だろう?
書斎の扉が開き、アルヴィスが出てきた。
彼は書類の束を抱え、眉間に皺を寄せている。
「……リリア。コーヒーを所望する。カフェイン血中濃度が低下して思考速度が落ちている」
「はい、すぐにお持ちします」
リリアは慣れた手つきでコーヒーを淹れ、トレイに乗せて差し出した。
アルヴィスは一口飲むと、ほう、と息をついた。
「完璧だ。抽出温度88度、酸味と苦味のバランスが黄金比だ。君の淹れるコーヒーは、私のニューロンを最も効率的に発火させる」
いつものように褒めてくれる。
だが、リリアは笑顔を返すのが少し遅れた。
机の上には、王都の学会や、国王陛下からの手紙が山積みになっていた。
今回の騒動を解決したことで、アルヴィスの名声は国を救った賢者として不動のものになっていた。
難解な事件の解決依頼や、講演の依頼が殺到しているらしい。
彼は天才だ。
世界が必要とする頭脳だ。
それに比べて、自分は……。
(ただの、コーヒー係?)
そんな卑屈な言葉が脳裏をよぎる。
婚約者という立場はもらった。
でも、それは自分が守られるべき被害者だったからだ。
事件が終わった今、彼のような偉大な賢者の隣に、自分のような何の才能もない女がいていいのだろうか。
「……リリア?」
アルヴィスの声に、リリアはハッとした。
彼は怪訝そうにリリアの顔を覗き込んでいた。
「どうした? 応答速度が遅いぞ。睡眠の質に問題でも?」
「い、いえ! 何でもありません。少し考え事をしていただけです」
リリアは慌てて笑顔を作った。
アルヴィスは納得がいかない様子で、リリアの手首を掴み、脈を測り始めた。
「脈拍は正常範囲内だが、呼吸が浅い。……ここ数日、君のホメオスタシス(恒常性)が乱れている気がする」
「気のせいです。私はとっても元気ですよ」
リリアはそっと手を引き抜いた。
心配をかけたくない。
それに、こんな悩みは彼には理解できないだろう。
非論理的な悩みだ、と一蹴されるのが怖かった。
「それよりアルヴィス様、午後からは隣領の視察ですよね? 準備をしておきます」
「……ああ。頼む」
アルヴィスは何か言いたげだったが、仕事に戻っていった。
彼の背中を見送りながら、リリアは胸の奥のモヤモヤを押し殺した。
敵はいなくなったはずなのに。
平和になったはずなのに。
リリアの心の中には、イザベラよりも手強い、自信のなさという敵が、ひっそりと姿を現し始めていた。
外は快晴。
けれどリリアの心だけが、梅雨空のように曇っていた。
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