王太子に理不尽に婚約破棄されたので辺境を改革したら、王都に戻ってきてくれと言われました

水上

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第11話:臭う王都と香るチーズ

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 ダリウス領の酪農地帯では悲鳴が上がっていた。

 出産ラッシュを迎えた牛たちの乳の出が良すぎて、輸送手段の乏しい辺境では消費しきれず、大量の牛乳が廃棄の危機に瀕していたのだ。

「もったいない……! この白く輝く液体は、カルシウムとタンパク質の塊ですよ!」

 視察に訪れたエリアナは、川に捨てられようとしていた牛乳を見て、酪農家たちを制止した。

「捨てずに、全て加工しましょう。水分を抜いて固めれば、数年は保存がきく資産に変わります」

「資産、ですか? チーズのことなら、フレッシュなやつを作ってますが、すぐカビちまって……」

「いいえ、作るのは水分活性を極限まで下げたハードチーズです」

 エリアナの指揮のもと、巨大な銅鍋でのチーズ作りが始まった。

 牛乳を温め、凝乳酵素を加えて固める。
 分離したホエイを徹底的に抜き、型に入れてプレスし、塩水に漬け込む。

 そして、一定の温度と湿度が保たれた熟成庫に並べられた。

 時が流れ、棚に並んだ円盤状のチーズたちは、硬い外皮に覆われ、黄金色に輝いていた。

「完成です。超硬質チーズ。これは輸送中の振動にも耐え、常温でも腐りません。むしろ時間が経つほどアミノ酸が結晶化し、価値が上がります」

 エリアナが専用のナイフを突き立て、パカリと割る。

 中から現れたのは、淡いクリーム色の断面。
 漂うのは、凝縮されたミルクの甘い香りと、熟成による芳醇なナッツのような香りだ。

「……まるで、金塊だな」

 同行していたギルバートが、その香りを嗅ぎ、低い声で唸った。

 実際、このチーズは王都の商人の間で飛ぶように売れ、辺境の財政を潤す食べる金塊となったのである。

     *

 一方その頃、華やかなはずの王都は、未曾有の危機に見舞われていた。

 ――臭いのである。

 王城の窓という窓は閉め切られ、街行く人々はハンカチで鼻を押さえていた。

「な、なんだこの悪臭は!? 鼻が曲がりそうだ!」

 王城のテラスで、王太子テオドールが叫んだ。

 漂ってくるのは、生ゴミが腐敗した酸っぱい臭いと、下水のような硫黄臭が混ざった、耐え難い腐臭だ。

「テオドール様ぁ……。臭くて、私、気分が悪くなりそうですわ……」

 隣のマリアンヌも青ざめた顔で鼻をつまんでいる。

「おい、衛生局長! 原因は何だ!」

 呼びつけられた役人が、震えながら答えた。

「は、はい……。城下町から回収した生ゴミの処理場、および王城のゴミ集積所からの異臭でございます」

 かつて、王都のゴミ処理は完璧だった。
 エリアナが導入した高速堆肥化システムが稼働していたからだ。

 彼女はゴミの水分量を調整し、空気を含ませるために定期的に撹拌を行い、発酵熱で病原菌を死滅させ、良質な堆肥に変えていた。

 それは微生物による好気性発酵であり、臭いも少なく、衛生的なサイクルだった。

 だが、エリアナがいなくなった後、マリアンヌがこう言ったのだ。

『ゴミなんて、ただ積み上げておけば勝手に土になるでしょ? かき混ぜるなんて汚いし、予算の無駄よ』

 その結果、ゴミはただ山積みされ、雨に打たれて酸素不足に陥った。

 そこで始まったのは発酵ではない。
 嫌気性腐敗である。

 メタンガスや硫化水素が発生し、ウジが湧き、ハエがたかる巨大な汚物の山が完成したのだ。

「……そ、それで、どうすれば直るのだ?」

「ええと……、前の担当者であるエリアナ様が、微生物のバランスや温度管理を細かく記録されていたようなのですが、そのノートも紛失しておりまして……」

「またあいつか!」

 テオドールは激昂した。

「あいつが去ってから、何もかも上手くいかん! なぜだ! ゴミの一つすらまともに捨てられんのか、この国は!」

 エリアナが日々行っていた地味で汚い裏方の仕事。

 それがどれほど高度な知識と管理の上に成り立っていたか、そして自分たちの生活がいかに彼女に支えられていたか。

 王都に充満する悪臭が、それを嫌というほど突きつけていた。

     *

 ところ変わって、ダリウス城の晩餐。
 今夜のメニューは、ギルバート特製のチーズリゾットだ。

「……食え」

 熱々の皿からは、チーズの濃厚な香りが立ち上っている。
 エリアナが作ったハードチーズを削り、たっぷりと米に絡ませた一品だ。

「いただきます!」

 エリアナがスプーンを運ぶ。
 口に入れた瞬間、チーズの塩気と旨味が米の甘みと絡み合い、濃厚なコクとなって広がる。

「んんっ……! 素晴らしい熟成香です! 酪酸やプロピオン酸などの揮発性成分が、完璧なハーモニーを奏でています!」

「……相変わらず、食レポが化学実験だな」

 ギルバートは苦笑しつつ、自身もワインと共にリゾットを口にした。

「だが、この香りはいい。……風の噂では、王都は今、別の匂いで持ちきりらしいが」

「別の匂い、ですか?」

「ああ。生ゴミの腐敗臭で、貴族たちが逃げ出し始めているそうだ」

 エリアナはスプーンを止め、少し考え込んだ。

「……ああ、なるほど。私がいなくなったことで、そろそろコンポストの炭素率が崩壊し、嫌気性発酵に転じる頃ですね」

 彼女はまるで明日の天気を予想するように淡々と言った。

「撹拌を怠ると、中心温度が上がらず病原菌が繁殖します。硫化水素が発生しているなら、そろそろ公衆衛生的に危険レベルかと。……マスクなしでは歩けないでしょうね」

「……他人事だな」

「引き継ぎ書は残しましたよ? 『混ぜないと腐ります』と。それを無視したのは彼らです」

 エリアナは悪びれもせず、リゾットを頬張った。

「腐敗を選んだのは彼ら自身です。私たちは、この素晴らしい発酵の恵みを味わいましょう」

 ギルバートは、目の前の妻を見た。
 彼女の周りには、美味しいチーズの香りと、豊かな食卓の幸福な空気が漂っている。

 一方、彼女を追い出した者たちは、自らが生み出した腐臭の中で鼻をつまんでいる。

「……ふっ、違いない」

 ギルバートは意地悪く笑い、ワインを煽った。

 彼らの自業自得な状況は、どんな極上の酒よりも美味い肴だった。
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