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第10話:ダリウスブルーと恋の自覚
ダリウス領の農村部では、女性たちが沈んだ顔で溜息をついていた。
「はぁ……。冬の間は畑仕事もないし、夫の稼ぎだけじゃあ子供に新しい服も買ってやれないわ」
「機織りをしても、ただの麻布じゃ二束三文にしかならないしねぇ」
男たちは狩りや兵士としての仕事があるが、女性たちには現金収入を得る手段が乏しい。
視察に訪れたエリアナは、その状況を聞き、村外れに群生しているある雑草に目を留めた。
「皆さん。お金がないと嘆く前に、足元の宝の山に気づいてください」
「宝? ただのタデ草ですよ?」
「いいえ。これは最高級の染料になる藍です」
エリアナは眼鏡を光らせ、力強く宣言した。
「この草と微生物の力を借りて、この村に色という付加価値をもたらします。これより、発酵建てプロジェクト始動です!」
エリアナの指導のもと、村の女性たちによる染料作りが始まった。
だが、それは優雅な染め物教室とは程遠い、過酷な菌の培養作業だった。
「まずは葉を乾燥させ、水を打って積み上げ、堆肥化させます。これを蒅と呼びます」
発酵させ、黒く土のようになった塊を、今度は甕に入れる。
そこに木の灰から取ったアルカリ性の灰汁と、石灰、そして餌となるふすまを投入する。
「ここからが勝負です。このドロドロの液体の中で、還元菌という微生物を目覚めさせます。彼らは酸素を嫌うため、アルカリ性の環境下で活発に働き、色素を水に溶ける状態へと変化させてくれるのです」
強烈なアンモニア臭と、土の匂いが混じり合う。
女性たちは鼻をつまんだが、エリアナだけは「ああ、菌たちが元気に呼吸しています!」と恍惚の表情で甕の中を覗き込んでいた。
そして数日後。
甕の液面には、メタリックな輝きを放つ泡――藍の華が咲いた。
「準備完了です。さあ、布を浸してください!」
一人の女性が、恐る恐る白い麻布を甕の汁に浸す。
引き上げた瞬間、布は黄色っぽい茶色をしていた。
「あ、あれ? 青くないよ?」
「見ていてください。ここからが酸化の魔法です」
エリアナの言葉通り、空気に触れた布の色が、見る見るうちに変化していく。
茶色から緑へ、そして鮮やかな青色へ。
何度も浸しては空気に晒す作業を繰り返すうち、布は深く、吸い込まれるような濃紺に染め上がった。
「き、綺麗……!」
「まるで夜空みたいな青だわ!」
完成したのは、堅牢で色落ちしにくく、防虫効果も高い最高級の藍染め布。
後にダリウス・ブルーと呼ばれ、王都の貴族たちがこぞって買い求めることになる特産品の誕生だった。
「これなら高く売れる! 私たちも稼げるわ!」
「ありがとうございます、奥様!」
喜ぶ女性たち。
自分たちの手で価値を生み出し、自立できる喜び。
その輝くような笑顔を見て、エリアナもまた、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
その夜、城では藍染めの成功を祝うささやかな晩餐会が開かれた。
テーブルには、ギルバートが腕によりをかけた料理が並ぶ。
メインディッシュは、鶏のロースト・ベリーソース添え。
そして、発酵バターをたっぷり使ったマッシュポテトだ。
「……食え。今日はよく働いた」
ギルバートが切り分けた肉を、エリアナの皿に乗せる。
エリアナは一口食べ、目を閉じた。
パリッとした皮目、ジューシーな肉質、そして甘酸っぱいソースが口の中で爆発する。
村の女性たちの笑顔、ギルバートの労い、そしてこの極上の食事。
王都にいた頃の孤独な研究生活とは対極にある、満たされた時間。
エリアナはワイングラスを見つめ、不意に、ポツリと言葉を漏らした。
「……計算外です」
「ん? 何がだ」
「私の脳内物質の分泌量のことです」
エリアナは少し潤んだ瞳で、ギルバートを見つめた。
「セロトニン、オキシトシン、ドーパミン……。あなたの料理を食べると、これらの幸せホルモンの分泌量が、私の理性の制御値を遥かに超えてしまいます」
それは、彼女なりの精一杯の賛辞であり、事実上の告白に近いものだった。
ただ美味しいだけではない。
誰かと食卓を囲み、温かい料理を食べることで得られる幸福感。
それが彼女の心を溶かしていた。
「これでは、中毒になってしまいます。……責任、取ってくださいね?」
コテン、と小首を傾げるエリアナ。
ワインの酔いも回っているのか、頬はほんのりと――まるで染めたての藍に差す夕日のように――赤らんでいる。
ギルバートはフォークを落としそうになった。
口元を手で覆い、視線を逸らす。その耳は真っ赤だ。
「……責任だと?」
「はい。継続的な栄養管理と、幸福感の供給をお願いします」
「……言われなくても、そのつもりだ」
ギルバートは低い声で呟き、自分のグラスをエリアナのグラスに軽く当てた。
チン、と澄んだ音が響く。
「俺の料理で中毒になるなら本望だ。……一生、逃がさんぞ」
「え? 何か仰いましたか?」
「……なんでもない。さっさと食え、冷めるぞ」
照れ隠しにぶっきらぼうに促すギルバートと、幸せそうに肉を頬張るエリアナ。
二人の間には、藍染めのように深く、簡単には色落ちしない絆が育まれつつあった。
そんな平和な辺境とは裏腹に、王都では腐敗がいよいよ臨界点に達しようとしていた。
「はぁ……。冬の間は畑仕事もないし、夫の稼ぎだけじゃあ子供に新しい服も買ってやれないわ」
「機織りをしても、ただの麻布じゃ二束三文にしかならないしねぇ」
男たちは狩りや兵士としての仕事があるが、女性たちには現金収入を得る手段が乏しい。
視察に訪れたエリアナは、その状況を聞き、村外れに群生しているある雑草に目を留めた。
「皆さん。お金がないと嘆く前に、足元の宝の山に気づいてください」
「宝? ただのタデ草ですよ?」
「いいえ。これは最高級の染料になる藍です」
エリアナは眼鏡を光らせ、力強く宣言した。
「この草と微生物の力を借りて、この村に色という付加価値をもたらします。これより、発酵建てプロジェクト始動です!」
エリアナの指導のもと、村の女性たちによる染料作りが始まった。
だが、それは優雅な染め物教室とは程遠い、過酷な菌の培養作業だった。
「まずは葉を乾燥させ、水を打って積み上げ、堆肥化させます。これを蒅と呼びます」
発酵させ、黒く土のようになった塊を、今度は甕に入れる。
そこに木の灰から取ったアルカリ性の灰汁と、石灰、そして餌となるふすまを投入する。
「ここからが勝負です。このドロドロの液体の中で、還元菌という微生物を目覚めさせます。彼らは酸素を嫌うため、アルカリ性の環境下で活発に働き、色素を水に溶ける状態へと変化させてくれるのです」
強烈なアンモニア臭と、土の匂いが混じり合う。
女性たちは鼻をつまんだが、エリアナだけは「ああ、菌たちが元気に呼吸しています!」と恍惚の表情で甕の中を覗き込んでいた。
そして数日後。
甕の液面には、メタリックな輝きを放つ泡――藍の華が咲いた。
「準備完了です。さあ、布を浸してください!」
一人の女性が、恐る恐る白い麻布を甕の汁に浸す。
引き上げた瞬間、布は黄色っぽい茶色をしていた。
「あ、あれ? 青くないよ?」
「見ていてください。ここからが酸化の魔法です」
エリアナの言葉通り、空気に触れた布の色が、見る見るうちに変化していく。
茶色から緑へ、そして鮮やかな青色へ。
何度も浸しては空気に晒す作業を繰り返すうち、布は深く、吸い込まれるような濃紺に染め上がった。
「き、綺麗……!」
「まるで夜空みたいな青だわ!」
完成したのは、堅牢で色落ちしにくく、防虫効果も高い最高級の藍染め布。
後にダリウス・ブルーと呼ばれ、王都の貴族たちがこぞって買い求めることになる特産品の誕生だった。
「これなら高く売れる! 私たちも稼げるわ!」
「ありがとうございます、奥様!」
喜ぶ女性たち。
自分たちの手で価値を生み出し、自立できる喜び。
その輝くような笑顔を見て、エリアナもまた、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
その夜、城では藍染めの成功を祝うささやかな晩餐会が開かれた。
テーブルには、ギルバートが腕によりをかけた料理が並ぶ。
メインディッシュは、鶏のロースト・ベリーソース添え。
そして、発酵バターをたっぷり使ったマッシュポテトだ。
「……食え。今日はよく働いた」
ギルバートが切り分けた肉を、エリアナの皿に乗せる。
エリアナは一口食べ、目を閉じた。
パリッとした皮目、ジューシーな肉質、そして甘酸っぱいソースが口の中で爆発する。
村の女性たちの笑顔、ギルバートの労い、そしてこの極上の食事。
王都にいた頃の孤独な研究生活とは対極にある、満たされた時間。
エリアナはワイングラスを見つめ、不意に、ポツリと言葉を漏らした。
「……計算外です」
「ん? 何がだ」
「私の脳内物質の分泌量のことです」
エリアナは少し潤んだ瞳で、ギルバートを見つめた。
「セロトニン、オキシトシン、ドーパミン……。あなたの料理を食べると、これらの幸せホルモンの分泌量が、私の理性の制御値を遥かに超えてしまいます」
それは、彼女なりの精一杯の賛辞であり、事実上の告白に近いものだった。
ただ美味しいだけではない。
誰かと食卓を囲み、温かい料理を食べることで得られる幸福感。
それが彼女の心を溶かしていた。
「これでは、中毒になってしまいます。……責任、取ってくださいね?」
コテン、と小首を傾げるエリアナ。
ワインの酔いも回っているのか、頬はほんのりと――まるで染めたての藍に差す夕日のように――赤らんでいる。
ギルバートはフォークを落としそうになった。
口元を手で覆い、視線を逸らす。その耳は真っ赤だ。
「……責任だと?」
「はい。継続的な栄養管理と、幸福感の供給をお願いします」
「……言われなくても、そのつもりだ」
ギルバートは低い声で呟き、自分のグラスをエリアナのグラスに軽く当てた。
チン、と澄んだ音が響く。
「俺の料理で中毒になるなら本望だ。……一生、逃がさんぞ」
「え? 何か仰いましたか?」
「……なんでもない。さっさと食え、冷めるぞ」
照れ隠しにぶっきらぼうに促すギルバートと、幸せそうに肉を頬張るエリアナ。
二人の間には、藍染めのように深く、簡単には色落ちしない絆が育まれつつあった。
そんな平和な辺境とは裏腹に、王都では腐敗がいよいよ臨界点に達しようとしていた。
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