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第16話:復縁? それは不可能です
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王太子テオドールは、魂が抜けたように椅子に座り込んでいた。
愛していた女性は詐欺師同然で、国の財政は破綻寸前、そして自分の胃袋を満たしていた極上の食事も二度と戻らない。
全ての事実が、彼のプライドを粉々に粉砕していた。
「……あ、あぁ……」
テオドールが顔を上げる。
その視界に入ったのは、隣に立つギルバートに守られるように佇むエリアナの姿だった。
知性と気品に満ち、以前よりも遥かに美しく見えた。
テオドールの脳内で、都合の良いシナリオが再構築され始めた。
エリアナは優秀だ。
彼女さえ戻れば、財政も立て直せる。
きっとまだ、自分への未練があるはずだ。
「……エリアナ」
テオドールはふらりと立ち上がり、エリアナに手を伸ばした。
「私が……、間違っていたようだ」
「はい。計算間違いも人選ミスも、甚だしかったようですね」
エリアナは一歩も引かず、冷徹に肯定した。
だが、テオドールはその皮肉すら愛ある叱責だと曲解したらしい。
「ああ、罵ってくれ。私の愚かさを。……マリアンヌがいなくなり、お前を失った今、私の中にぽっかりと穴が開いてしまったようだ……」
彼は劇の主人公のように胸を押さえ、苦痛に顔を歪めた。
「痛いのだ……。胸の奥が、キリキリと焼けるように痛む。お前がいなくなってからずっとだ。……これが、喪失感というやつなのか」
「……」
エリアナは、胸を押さえるテオドールの手元をじっと観察した。
「殿下。その痛みは、食前と食後、どちらに強く感じますか?」
「え? ……そ、そういえば空腹時によく痛むが……、それがどうした? 私の心がお前を求めて……」
「それは喪失感ではありません。十二指腸潰瘍、あるいはストレス性胃炎による粘膜の損傷です」
エリアナの声が、ロマンチックな空気を一刀両断した。
「ここ数ヶ月、不味い食事へのストレスと、資金繰りへの焦りで、自律神経が乱れていたのでしょう? 過剰分泌された胃酸が、ご自身の消化管を溶かしているのです」
「は……?」
「胸が焼けるように痛むのは、逆流性食道炎の併発も疑われますね。……心に穴が開いたと詩的に表現されている場合ではありません。物理的に胃壁に穴が開く前に、消化器内科を受診することを強く推奨します」
テオドールは口を開けたまま凍りついた。
心の痛みを訴えたのに、返ってきたのは病名と受診勧告。
だが、彼は必死に食い下がった。
「ち、違う! 私が言いたいのはそんなことではない! ……やり直そうと言っているのだ!」
彼は両手を広げ、懇願した。
「エリアナ、王都へ戻ってこい。お前の能力を正当に評価してやる。もう腐った女などとは呼ばない。お前こそが、真に王妃にふさわしい器だったのだ!」
「……」
「今なら許してやる。マリアンヌのことは忘れよう。私とお前で、また一から……、あの頃のように、甘い時間を醸し出そうではないか!」
テオドールは必死だった。
だが、エリアナの反応は、氷点下の微笑みだけだった。
「……甘い時間、ですか」
彼女は静かに首を横に振った。
「殿下。私は発酵の研究者です。ですから、その言葉を化学的に訂正させていただきます」
エリアナはテーブルの上のワイングラスを指差した。
「ワインは、ブドウ果汁の中の糖分を酵母が分解し、アルコールと炭酸ガスに変えることで生まれます。これが適切な発酵です」
「な、何の話だ?」
「ですが、一度出来上がったワインを、温度管理もせずに放置し、雑菌に晒すとどうなるかご存じですか?」
エリアナの瞳が、冷ややかにテオドールを射抜く。
「酢酸菌が入り込み、アルコールを酢酸……、つまりお酢に変えてしまいます。ワインは酸っぱくなり、二度と飲めたものではなくなります」
「だ、だから何だ!」
「一度過発酵して酸っぱくなったワインは、どんなに砂糖を足しても、二度と元の甘さには戻らないということです」
エリアナははっきりと告げた。
「殿下。私たちの関係はお酢のようになってしまったのです。化学変化は終わりました。これは不可逆な反応なのです」
不可逆。
元には戻らない。
その言葉が、テオドールの最後の希望を打ち砕いた。
「そ、そんな……、戻ることは不可能だと……?」
「はい。酸化した関係を修復する技術は、現在の科学には存在しません」
エリアナが背を向ける。
テオドールは呆然と立ち尽くし、なおも何か言おうと手を伸ばしたが――。
その手首を、鋼鉄のような手が掴んだ。
ギルバートだ。
その金色の瞳は、猛獣のように怒りに燃えている。
「……いつまで俺の妻に触れようとしている?」
「ひっ……!」
「不可逆と言われただろう。……お前の入る隙間は、分子レベルで存在しない」
ギルバートはテオドールの手を振り払い、低い声で威圧した。
「帰れ。そして二度と、エリアナの視界に入るな」
その殺気に、テオドールは完全に腰を抜かした。
彼は這うようにして食堂を逃げ出した。
その背中は、かつての傲慢な王太子の面影もなく、ただの惨めな敗北者のそれだった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
エリアナはふぅ、と小さく息を吐いた。
「……少し、言い過ぎましたでしょうか? ストレスで胃に穴が開かないか心配です」
「放っておけ。自業自得だ」
ギルバートは不機嫌そうに鼻を鳴らし、すぐにエリアナの方を向いた。
その表情は、先ほどの修羅のような顔から一転、どこか拗ねたような、子供っぽいものに変わっていた。
「……それより、エリアナ」
「はい?」
「俺たちは、酢にはならんぞ」
「え?」
「俺が徹底的に温度管理をして、最高のヴィンテージワインにしてやる。……だから、安心しろ」
不器用な愛の言葉。
エリアナは目を丸くし、やがて柔らかく微笑んだ。
「ふふ。それは頼もしいですね。……では、酸化防止のために、今日も美味しいご飯をお願いしますね?」
「……ああ。任せておけ」
復縁を迫る元婚約者を完全論破し、撃退したエリアナ。
彼女の隣には過去を忘れさせてくれる、温かく芳醇な現在があった。
愛していた女性は詐欺師同然で、国の財政は破綻寸前、そして自分の胃袋を満たしていた極上の食事も二度と戻らない。
全ての事実が、彼のプライドを粉々に粉砕していた。
「……あ、あぁ……」
テオドールが顔を上げる。
その視界に入ったのは、隣に立つギルバートに守られるように佇むエリアナの姿だった。
知性と気品に満ち、以前よりも遥かに美しく見えた。
テオドールの脳内で、都合の良いシナリオが再構築され始めた。
エリアナは優秀だ。
彼女さえ戻れば、財政も立て直せる。
きっとまだ、自分への未練があるはずだ。
「……エリアナ」
テオドールはふらりと立ち上がり、エリアナに手を伸ばした。
「私が……、間違っていたようだ」
「はい。計算間違いも人選ミスも、甚だしかったようですね」
エリアナは一歩も引かず、冷徹に肯定した。
だが、テオドールはその皮肉すら愛ある叱責だと曲解したらしい。
「ああ、罵ってくれ。私の愚かさを。……マリアンヌがいなくなり、お前を失った今、私の中にぽっかりと穴が開いてしまったようだ……」
彼は劇の主人公のように胸を押さえ、苦痛に顔を歪めた。
「痛いのだ……。胸の奥が、キリキリと焼けるように痛む。お前がいなくなってからずっとだ。……これが、喪失感というやつなのか」
「……」
エリアナは、胸を押さえるテオドールの手元をじっと観察した。
「殿下。その痛みは、食前と食後、どちらに強く感じますか?」
「え? ……そ、そういえば空腹時によく痛むが……、それがどうした? 私の心がお前を求めて……」
「それは喪失感ではありません。十二指腸潰瘍、あるいはストレス性胃炎による粘膜の損傷です」
エリアナの声が、ロマンチックな空気を一刀両断した。
「ここ数ヶ月、不味い食事へのストレスと、資金繰りへの焦りで、自律神経が乱れていたのでしょう? 過剰分泌された胃酸が、ご自身の消化管を溶かしているのです」
「は……?」
「胸が焼けるように痛むのは、逆流性食道炎の併発も疑われますね。……心に穴が開いたと詩的に表現されている場合ではありません。物理的に胃壁に穴が開く前に、消化器内科を受診することを強く推奨します」
テオドールは口を開けたまま凍りついた。
心の痛みを訴えたのに、返ってきたのは病名と受診勧告。
だが、彼は必死に食い下がった。
「ち、違う! 私が言いたいのはそんなことではない! ……やり直そうと言っているのだ!」
彼は両手を広げ、懇願した。
「エリアナ、王都へ戻ってこい。お前の能力を正当に評価してやる。もう腐った女などとは呼ばない。お前こそが、真に王妃にふさわしい器だったのだ!」
「……」
「今なら許してやる。マリアンヌのことは忘れよう。私とお前で、また一から……、あの頃のように、甘い時間を醸し出そうではないか!」
テオドールは必死だった。
だが、エリアナの反応は、氷点下の微笑みだけだった。
「……甘い時間、ですか」
彼女は静かに首を横に振った。
「殿下。私は発酵の研究者です。ですから、その言葉を化学的に訂正させていただきます」
エリアナはテーブルの上のワイングラスを指差した。
「ワインは、ブドウ果汁の中の糖分を酵母が分解し、アルコールと炭酸ガスに変えることで生まれます。これが適切な発酵です」
「な、何の話だ?」
「ですが、一度出来上がったワインを、温度管理もせずに放置し、雑菌に晒すとどうなるかご存じですか?」
エリアナの瞳が、冷ややかにテオドールを射抜く。
「酢酸菌が入り込み、アルコールを酢酸……、つまりお酢に変えてしまいます。ワインは酸っぱくなり、二度と飲めたものではなくなります」
「だ、だから何だ!」
「一度過発酵して酸っぱくなったワインは、どんなに砂糖を足しても、二度と元の甘さには戻らないということです」
エリアナははっきりと告げた。
「殿下。私たちの関係はお酢のようになってしまったのです。化学変化は終わりました。これは不可逆な反応なのです」
不可逆。
元には戻らない。
その言葉が、テオドールの最後の希望を打ち砕いた。
「そ、そんな……、戻ることは不可能だと……?」
「はい。酸化した関係を修復する技術は、現在の科学には存在しません」
エリアナが背を向ける。
テオドールは呆然と立ち尽くし、なおも何か言おうと手を伸ばしたが――。
その手首を、鋼鉄のような手が掴んだ。
ギルバートだ。
その金色の瞳は、猛獣のように怒りに燃えている。
「……いつまで俺の妻に触れようとしている?」
「ひっ……!」
「不可逆と言われただろう。……お前の入る隙間は、分子レベルで存在しない」
ギルバートはテオドールの手を振り払い、低い声で威圧した。
「帰れ。そして二度と、エリアナの視界に入るな」
その殺気に、テオドールは完全に腰を抜かした。
彼は這うようにして食堂を逃げ出した。
その背中は、かつての傲慢な王太子の面影もなく、ただの惨めな敗北者のそれだった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
エリアナはふぅ、と小さく息を吐いた。
「……少し、言い過ぎましたでしょうか? ストレスで胃に穴が開かないか心配です」
「放っておけ。自業自得だ」
ギルバートは不機嫌そうに鼻を鳴らし、すぐにエリアナの方を向いた。
その表情は、先ほどの修羅のような顔から一転、どこか拗ねたような、子供っぽいものに変わっていた。
「……それより、エリアナ」
「はい?」
「俺たちは、酢にはならんぞ」
「え?」
「俺が徹底的に温度管理をして、最高のヴィンテージワインにしてやる。……だから、安心しろ」
不器用な愛の言葉。
エリアナは目を丸くし、やがて柔らかく微笑んだ。
「ふふ。それは頼もしいですね。……では、酸化防止のために、今日も美味しいご飯をお願いしますね?」
「……ああ。任せておけ」
復縁を迫る元婚約者を完全論破し、撃退したエリアナ。
彼女の隣には過去を忘れさせてくれる、温かく芳醇な現在があった。
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