後宮恋歌 ―皇帝になる男と、ただ一人の妃―

佳乃こはる

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第一章 

6 逃走

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「おーい、いたか」
「いや、いない」
「いたぞ、あっちに人影が!」

 松明の赤い炎が、暗闇のそこかしこに散らばっている。
 ゴウッ。
 ヤニの燃える匂いが鼻先をかすめたかと思うと、具足の足音が闇に溶けてゆく……。
 
 小蘭の口を塞いでいた手が離れ、新鮮な空気が肺を満たした。
「やっと行ったか。……おい、もう喋っていいぞ」
「ゴホゴホッ、『喋っていいぞ』じゃないでしょ! 何で私まで追いかけられてるわけ?」
 
「そりゃあ――君がさっき、馬屋番の爺さんを後ろ蹴りでノックアウトしたからだろう」
「……っ」
 
 喉を詰まらせた小蘭は、しおしおと振り上げた拳を下ろした。憐れな馬屋番は今、番小屋の中で気絶している。

「あれは……あんたがやったんだわ」
「いーや、とどめは君の蹴りだった。肩に担がれた状態であんな綺麗に決まったのは初めて見た」
「あんた!」
「君!」
 睨み合うこと、一間。

「もう……どっちでもいいわ。――クシュッ」
 初夏とはいえ、真夜中に下着同然の姿ではさすがに寒い。小蘭が鼻をすすっていると、彼はのんびりと笑った。
 
「ああ、これでも着てな、寒いだろ」

 彼は上衣を脱いで小蘭の肩に掛けた。
 フウッと一息をつくと、干し草の山に倒れ込んだ。
 
「……ありがとう」
 彼から施しを受けるのは癪だったが、寒さとは喧嘩できない。
 素直に羽織を受け取った小蘭は、その手触りに驚いた。
 滑らかな絹の藍染の上衣に、錦糸の龍の模様の刺繍は、高位の貴族にしか出回らない高級品。
 盗品でなければ、彼は相当の貴族ぼんぼんだろう。それなのに……。
 小蘭は改めて尋ねた。

「ねぇ……あんたさ、何で私をかどわかしたの」
「何だよ急に――まあ、お互い名前も知らないんじゃ話しにくい。自己紹介といこうじゃないか。俺は」
「知ってるわ。蒼龍ツァンロン、でしょ? 皇帝がさっきそう言ってたわ」
「ああそう蒼龍だ、君は?」

小蘭シャオランよ。ふふっ、『蒼龍』か。伝説の神獣を名乗るだなんて、間男のくせにふざけてるわ」
 彼は苦笑いした。
「まあな、確かに名前負けは認めるよ。『小蘭』は君にピッタリだ」
「どうせ「小」の字が、でしょ。私がチビだからって」

 背が低いのをからかわれるのには、昔っから慣れている。頬を膨らませた小蘭に、彼はクスッと微笑んだ。

「いいや。いい名前だ。北の大地に広がる花畑の、〝可憐な一輪〟ってとこか」
「ぶはっ」
 なんて気障ったらしい奴。さっきの接吻キスを急に思い出し、小蘭の顔がみるみる火照る。
 それを見た蒼龍が、さも可笑しげに肩を揺らした。

「何がおかしいのよ、このっ」
 からかわれたんだと知って、小蘭が食ってかかろうとした矢先、彼が急に顔を曇らせた。

「しかし、困ったことになったな」
「何が?」
「あの時小蘭が子猿みたいに暴れなければ、こんな逃亡しなくてよかったのに」
 
 冗談めかしてはいるが、その目は妙に真剣だ。

「誰が子猿よっ。そもそも、私は何もしてないんだから。あんたが大人しく出頭すれば済む話……な、何よ?」

 蒼龍は、小蘭を哀れっぽく見つめ、大きなため息をついた。

「君って、本当に何も知らないんだな。いいか、姦通の罪ってのは――裁判なし、文句なしの『死罪』だぜ」
「……し…ざい?」
 きょとんとする小蘭に、蒼龍はもっともらしく頷いた。
 
「ああ。皇帝にとっちゃ、妃のねやに男が、なんて、面目潰れもいいところさ」
「でも! それはあんたが勝手に……」
 彼は首を横に振った。
 
「特に、現皇帝は残虐を好む。恐らくは公開処刑、それも最も残虐な、『牛裂き』だ」

 ――牛裂き。
 その不穏な響きに、小蘭は思わず身を震わせた。詳細など聞かなくても分かる。顔からみるみる血の気が引いていく。
 
「つまり、見つかったら最後、私もあんたも四肢切断――ってこと!?」
 
 彼は首を横に振った。
「いいやそれが……恐らくそうなるのは君だけだと思う」
 蒼龍は気まずそうに語尾を濁した。

「――何でよ。私は無理やり、あんたに襲われただけなのにっ」
「それは……そうなんだが」
「そんなのおかしい、理不尽だわ!」

 詰め寄る小蘭を、蒼龍は気の毒そうに見た。
「君、本当に何にも知らないんだな。その、言いにくいんだけど」
 蒼龍は、一瞬言葉を躊躇うように間を置いた。

「……俺さ、皇帝あいつの息子なんだよな。しかも一人っ子」
 
 は?
 小蘭は、蒼龍のほうをまじまじと見つめた。そりゃあ、どこぞの貴族のドラ息子ぐらいかなとは思っていたが。
 信じられないと思った小蘭は、重ねて尋ねた。
 
「……それってまさか」
「そ。俗にいう、皇太子オウジサマ。いや、後宮の妃なら、名くらい知ってるとは思ったんだが」

 小蘭は真っ白に固まった。
 
「ふ、ふーん、そっか皇太子オウジサマね。なるほどなるほど。……へえぇ、不良息子、ね」
「誰がだよ!」
 そう言い返しながらも、蒼龍の声はどこか乾いていた。
 
 ふいに訪れた目眩。
 小蘭は笑おうとして、口角が引きつった。
 冗談じゃない。
 目の前の男は――
 私の命を握る、世界の中枢にいる人間。
 
 ――でも。
 
「な、なら! さっきの『牛…ゴニョゴニョ』ってやつ。何とかなるんじゃないの? ほら、謎の権力で」
 
「う~ん、俺もさっきから考えてはいるんだがな。何せあっちは、最高権力者だしなぁ」  
「そ、そんなこと言わないで! 私の命がかかってるんだから、もっとよく考えてよっ」
「う~ん……」

 彼は、目を閉じて天井を見上げた。
 
「すまないが、今日のところはさっぱり思いつかない。……ま、一眠りすれば頭も冴えるだろ。君も横になるといい。お妃様に藁の寝台ベッドじゃ悪いけど」

 彼は〝うーん〟と腕を伸ばすと、寝返りを打って小蘭に背を向けてしまった。

 一方の小蘭は藁の上に座ったまま、全く眠れないでいる。
 小蘭には、この闇の向こうにある命運が、冷たい皇帝の嗤い声か、それとも別の何かなのか――
 
 ともかく、「明日」という言葉が、ひどく不確かなものに感じられた。

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