後宮恋歌 ―皇帝になる男と、ただ一人の妃―

佳乃こはる

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第一章 

5 攫われて

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 すると。
 折よく雲が途切れ、顔を見せた月が、高窓の前に立つ男の姿をくっきりと映し出した。

 ――え。
 
 小蘭は、思わず息を呑んだ。
 
 そこにいたのは、これまで見たこともないくらい整った顔立ちの男だった。
 髪こそ結い上げず、夜気に揺れるまま無造作に流している。しかし、面長に高い鼻梁、端正な顔立ちは、とても野卑な盗賊などとは思えない。
 形のいい弓なりの眉は眉尻に向かって細く、大きく見開かれた双眸は、強い意思を宿した黒。長い睫毛で縁取られ、その瞳は、どこか悪戯っぽい光をキラキラと湛えている。

 見つめ合うこと十数秒。
 我に返ったようにハッとした男は、小蘭の肩にぽんと手を置いた。

 真顔で一言。
「ごめん、間違えた」
 
「――は?」
 
「いや、俺の人違いだったわ。どうりで貧弱……痛っ!」

 屈託なく笑う彼の胸に、小蘭の拳が思い切り叩き込まれた。
 
「何よそれ『人違い』? そんなんで私は、貴重な初接吻ファースト・キスを奪われたってこと?」
「ま、まあいいじゃないか。接吻キスなんて大層なもんじゃなし……うおっ、危ね」
 
「¤₩₨▽₨₧₡▽¤◈₩~~!!」
 我を忘れてつかみかかる小蘭を、男はひらりと軽くかわし、寝台から飛び降りた。

「うわ、引くわ~、それが妃の使う言葉か」
「待てっ」
 
(こいつ、サイッテー)
 追いすがり、殴りかかってくる小蘭を、男はまるで、ジャレる仔犬のように軽くいなす。
 
「はははっ、こりゃあとんだじゃじゃ馬だな」
「このっ……!」
 
 小蘭が懐に入って一発入れようとした、その時だった。
 
「しっ、――静かに」
「がふっ……」
 
 低く鋭い声と同時に、男の表情が一変した。
 次の刹那、彼は小蘭を抱え込むようにして口を塞いだ。
 
(な、なにすんのよっ)
「いいから。……ほら、聞こえるだろ?」

 耳を澄ますと、遠くからジャーンという銅鑼の音。
 それに続いて、規則正しい足音と、舌打ちの音が重なった。
 音は次第に大きくなり、確実にこちらに近づいて来る。
 
「まずいな、意外に早かった」
(何よ、これ)
 
「知らないのか。皇帝陛下の〝お成り〟だよ」
「皇……帝」

 音だけで、場の物々しさは十分に伝わってくる。
 と、同時に小蘭は、思わず旅芸人の猿回しを思い浮かべてクスッと笑った。
 
「フン、あのバカバカしさったらないね。〝今から女を抱きにきました〟って、方々に触れ回ってるようなもんだぜ。いい年して気がしれねぇや」
「……確かに」

 二人は顔を見合わせ、短く笑った。
 
 それから、男は軽く手を振る。
 
「さてと、のんびりしてる場合じゃない。じゃ、元気でな小娘」
 入ってきた窓へ、再び向かおうとする男に、
「ちょっと、待ちなさいよ」
 すかさず小蘭は彼の帯をつかんだ。
 
「何だよ、離せ。俺、ここに居ると色々ヤバイんだよ」
 
 錦糸の帯を引っ張ると、小蘭はそれを手綱のように手に巻き付け、自分の側に引き寄せた。

「ふふん、逃がすわけないでしょ、この間男。あんたには、今の状況と私の身の潔白を、皇帝にきっちり説明してもらうんだから」
 
「は? ばか言うなよ。見つかったら困るのは、俺よりむしろお前――」
 
「はあぁ? 何言ってるの。私は悪くないんだから。あんたはここに残って、しかるべき罰を受けなさい!」
 
「……あ~、もう意味の分からないチビだな。帯を離せ」
「離すか変態っ」

 言い争う声にかぶさるように、ギギィーと重たい扉が開いた。
 強い光が、閨房の闇を切り裂いた。

「あ~もう! クソ面倒くせえ」
「何よ、やる気なら……ぎゃっ」
 
 彼は小蘭の腕を掴むと、乱暴に引き寄せた。

「逃げるぞ」
「何ですって? ちょっと――!」

 ほどなくして。

「覇帝様のお越~し~~」
 先導の宦官の甲高い声が閨房内に響きわたる。
 
 と同時に、彼は小蘭を荷物のように肩に載せ、驚くほどの素早さで、窓際へ走り抜けた。

「ちょ――、降ろせったら!」
「暴れんなアホ娘」

 すったもんだしているうちに。
 扉は完全に開かれて、光の筋に二人の姿が晒される。
 
 先頭の宦官が、〝ひっ〟と息をつまらせた。
 その後ろで、太鼓のような低い声が響き渡る。
 
「――蒼龍ツァンロンか」
 
 小さなため息。
 
 男はゆっくりと声の方へ振り返り、人を食ったような笑みを浮かべた。

「これはこれは皇帝陛下、ごきげん麗しゅう。今宵は月が綺麗ですね」

 片手を胸に、恭しく臣下の礼を取る。

「しかし……残念ながら我は先を急ぐ身、略式にて失礼を」
「……貴っ様」
 低い声が言葉を発しようとした瞬間、彼はバッと窓枠に飛び移った。
 
「じゃあ、またな」
「あっ」

 次の刹那、肩に担いだ小蘭ごと、彼の姿は漆黒の闇へと溶けて消えた――。

 ――逃げたんじゃない。
 最初から、捕まる気などなかったのだ。

 小蘭の胸に残ったのは、恐怖ではなく、名状しがたい予感だった。
 皇帝と名を呼び合う男は、間男でも盗賊でもない。
 ましてや人喰いの魔物でもない。

 ねえ、あんた一体、誰なの?
 
 
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