後宮恋歌 ―皇帝になる男と、ただ一人の妃―

佳乃こはる

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第一章 

22 蒼龍ーー御前試合

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 その日の城下は、まだ夜も明けきらぬうちから、人いきれの熱に浮かされていた。
 それもそのはず、近隣の邑々から腕に自信のある猛者達が集う、夏国都城の御前試合は、年に一度、民に解放されるとあって、まるでお祭り騒ぎだ。

 大通りの両側には露店がぎっしりと並び、蒸した肉の白い湯気や、香辛料の香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
 人混みには、異国の装束を身に纏った者や、奇妙な形の武器を肩に担ぎ、見せびらかしながら歩く強者まで見える。

山査子さんざしあるよー、あぁまいよー」
「さあ、持ってけ泥棒! あったかい肉饅頭だ」
「さあ、姑娘クーニャン、見てってよ~。これが今年の戦士の似顔絵だ! 皇太子様はこんな美形だ!」

 まだ薄暗いうちから客足は後を絶たず、露店の呼び込みは忙しい。
 やがて、城から鳴り響く銅鑼が大会の始まりを告げると、群衆は一斉に城門へと歩を速めた。
 すり鉢状の観覧席で少しでも見やすい場所を確保しようというのだ。

 今年は特に、客足が多かった。夏国皇子が参加すると、城下に立てられた触れ書きが、遠くの村々まで駆け巡っていたからである。
 その勇姿を一目見ようと、武闘場の前には早くも黒山の人だかりができ、開城の銅鑼を今や遅しと待っていた。

 *

 一方そのころ、武闘場の高い塀の内側は、強者達の熱気で立ち込めていた。
 控えの間では男たちが互いに力を誇示し合い、ささいな事で殴り合いでも始まりそうだ。そんな一触即発の殺気だった空気の中、蒼龍はひとり、隅で静かに座し、最後の仕上げにかかっていた。
 
 気配を消し去り、姿勢を正して呼吸を整え、集中力を高める。
 気配を完全に消し去った彼は、まるで空気のように誰からも絡まれることはない。
 間もなく、第一戦目が始まる。対戦相手は格下だが、油断は禁物。万が一にも負けられない。

「やれやれ、精が出ますな」
 低い嗄れ声に、蒼龍は薄目を開けた。
 
「……はん将軍」
 いつの間に近づいたのか。長い髭をたくわえた背の高い老人が前に立っている。

「ハハハ、今は将軍ではない、ただのじじいですよ。貴方が出場されると聞いて、いても立ってもいられずに、辺境いなかから出てきてしまいました」
「何を仰る、あなたのくらいの返上は、却下されたと聞いているが」

 蒼龍が立ち上がり、嬉しそうに歩み寄ると、老人は口元を綻ばせた。
 老人は、かつての王宮の剣術師範、そして、蒼龍の剣の師匠である、樊将軍――。
 盛り上がった肩は逞しく、弓のようにまっすぐで、老いてなお、全盛の剣士を思わせる気迫を纏っていた。

「さきほどの打ち込み、見事でありました。よくぞここまで鍛え上げられましたな。今日の試合、楽しみにしておりますぞ。……しかし」

 フウッ。

 短い息とともに、樊は一気に佩剣を抜いた。
 轟と空気が切り裂かれ、蒼龍の頭上に白刃がきらめく。蒼龍は、待ち構えていたかのように剣を抜き、重い剣戟を受け止めた。
 ぎん、と鍔が鳴り響く。周囲が何事かと注目した。

「……フン、呆れたな、どこが〝ただのジジイ〟だ。相変わらずの重たい一打、これではとても引退などさせられない」
 
 鍔を合わせ、ぐっと樊に押し迫りながら、蒼龍は不敵に笑ってみせる。
 じりじりと押し込まれ、樊はようやく一歩退いた。

「ふふ、随分とお強くなられた。腕力も昔とは比べ物にならない。しかし……相変わらず体軸が左に流れる癖は抜けませんなあ」
「え?」
 ふと、横目で確認した瞬間だった。

 タァン!
 
樊の剣先が、見事に蒼龍の右肩を叩いた。
っ……」
 蒼龍が遅れて声を漏らすと、老師範は豪快に笑った。

「ははは、この年寄りの経験には、まだ敵わぬようですな」
「くそっ……!」

 蒼龍の悪態を背に、老師範は笑いながら控室の奥へと去っていった。

 *
 
 遠くで太鼓が鳴り出した。その小さな振動は、やがて波のように迫力を増し、巨大な雷轟を響かせる。
 その瞬間――。

 ジャアアアーン。

 銅鑼の音が、武闘場全体を震わせた。
 開会の合図。今、闘いが始まろうとしている。

 観客席中央の高座に、皇帝が姿を現した。
 清らかな朝日を背に受けた姿に、場内のざわめきがしんと静まる。
 皇帝の両隣に、正妃である皇后様と、二番目の位の皇貴妃、そして三番目の貴妃の座もあるが、本来そこに座るはずの黎妃リーフェイは姿を見せていない。
 
 やがて、皇帝が重々しく玉座から立ち上がると、一同が玉座に注目した。
 満を持して、皇帝は朗々と声を放った。
 
「我が民よ、今日はよくぞ集まってくれた。まずは、この武闘会の主催者として礼を言うぞ」
 
 ワアアアアアアアッ!

 その声に、歓声が武闘場を揺らした。
 皇帝が右手を軽く上げると、場は一気に静まる。
 
「さて、儂は今日、ここに集いし者たちのために、二つの余興を用意した」

 会場が、にわかにどよめいた。

「まずひとつは――既に聞き及んだ者もあろう。今大会には、我が息子、蒼龍も出場する。贔屓にはせぬが……、余も人の親だ、皆にも声援を送ってやって欲しい」
 
「皇子さまーー!」
 黄色い声が上がった。
 
「フン。ではふたつめ」
 皇帝は、悠然として闘技場の左隅を指差した。皆の視線は、一斉にそちらへ向く。

「ふたつめは、あの左隅に吊り下げているものの中にある」
 指の先には、二本の高い柱の間に、四方を白布で覆った巨大な箱が吊り下げられていた。
 
 箱の直下にも、白い布が広げられ、その四隅に、赤い綱が結わえられている。綱の先は、それぞれ置かれた見張りの兵士達の足元へと伸びていた。
 観客席から、さざなみのようなざわめきが起こった。

「さて。皆、あの中身が気になるのではないか? あれこそが今回の余興。公開しよう――引け!」
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