後宮恋歌――人質妃ですが、守られるだけでは終わりません

佳乃こはる

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第一章 

21 密命

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 はるか遠くの山の端に、夕日が差し掛かる頃。蒼龍に追い返された小蘭は、一人でへやに向かっていた。

 トン、トン、タンッ。
 庭石を三つずつ、軽やかに飛び越えてゆく。

 死刑か、それとも結婚か。いよいよ明日、自分の命運が決まるのだ。
 怖くないと言えば嘘になる。それでも不思議と不安はなかった。ちょっと癇に障るけれど、蒼龍は強い。それだけはさっきこの目で見た。春明先生の言う通り、滅多なことでは負けないだろう。

 それに、小蘭の心の中では、確かに何かが変わり始めていた。例えば処刑を免れたその先。
 蒼龍との婚姻をほんの少しだけ、受け入れてもいいと思っている――。

(って、何を考えてるのよ!)
 仮にそうなったとして形だけの婚姻なのに。口では際どい冗談ばかり言っているけれど、蒼龍だって本気で自分を妃にしようなどと思っている筈はない。
 
 ただ、責任を感じているだけ。
 きっと、そうに決まっている。

 ため息をひとつ吐いた後、小蘭ははっとした。

(だから、どうしてため息なんて出るの?)
 まるで、それを残念に思っているみたいじゃないか。
 もう、蒼龍のバカ。変なことばかり言うから、私までおかしくなってきたじゃない。
 ああ、もうっ!

 小蘭が頭を抱えて、身もだえしていた時だった。

「……小蘭、小蘭」
 どこからか、小声で自分を呼ぶ声がした。

 振り向けば、少し先の四阿あずまやの陰から、紫の袖がちらちら見える。

 誰?
 手招きに釣られ、朱塗りの柱に回り込んだ小蘭は、声の主を見て顔をしかめた。

「お前、雲流ユンル……!」
「よう、久しぶりだなあ、小蘭」
 
 その声に、なぜか胸の奥が冷えた。
 
 忘れもしない。
 皇帝の閨での事――自身の特権と称し、身体を検査しようとしたとんでもないヤツ、宦官の雲流ユンルだ。
 妙な作り笑顔を浮かべる雲流の横を、めいっぱい無視して通り過ぎようとしたが、奴は、袖をぎゅっと掴んで引き留めた。

「ま、待てよ小蘭。あん時ゃ悪かったって! アタシぁ本当に、反省してるんだから」
「離してよ、急いでるんだから」

 鼠のような萎びた手を振って引き剥がし、通りすぎようとした小蘭の前に、彼はしつこく回り込んだ。

「つれないこというなよ。お前は知らねえだろうけど、もしお前が皇子の妃にでもなったらよ、その一言でアタシ達ぁ、とんでもなく酷い目に遭わされちまうんだ」
「そんな……」
 ふと眉尻を下げた小蘭に、もじもじと手遊びをしつつ、彼はうつむいた。

「俺だってよ、宦官になんて本当はなりたくなかったんだ……家が貧しくてな、食い詰めて後宮に来た。ガキの頃に――もう、戻れない身体にされてさ」
 鼻を赤くしてすすり上げる雲流。
 包の袂を掴む嗄れた手を、ふと小蘭は憐れに感じた。
 
 卑怯者の雲流が、何を企んでいるかなど想像はついた。きっと自分と蒼龍との噂を聞きつけてのことだろう。
 それでも、小蘭の心は揺さぶられた。

「雲流、私はそんなことしない――」
 小蘭が、彼の震える肩に、ためらいがちに手を伸ばした時だった。雲流は、小蘭の片腕を自分の側へグッと引いた。

「な、何をするの!」
「イヒヒ、悪く思うなよぉ」
 
 小蘭は、またしても一瞬にして羽交いに締められた。
 小男の宦官の割に、その膂力はちゃんと成人男子のそれだ。有る限りの力で手足をばたつかせても、それを解くことはできなかった。
 暴れる小蘭に苦労しながらも、雲流は湿った布を懐から取り出して、小蘭の口に当てようとする。
 
「……何すんのよっ、この嘘つきっ」
 
 ひどい匂いは、痺れ薬に違いない。
 ぐうっと首を伸ばして布を遠ざける小蘭に、彼はキイッと高い声を上げた。

「くそっ、手間かけさせんじゃないよ小娘! ホラ、お前たちも手伝って」
 彼の掛け声で、隠れていた宦官たちがわっと現れる。彼らは小蘭の体に纏わりつき、手や足を押さえつけた。

「こ……こんなことして……蒼龍が何て言うと」
 ギロリと後ろを睨み付けるも、雲流はさも可笑しそうに顔をゆがませた。

「おやまあ、何も知らないで皇子のご寵愛を嵩に着て。お前はほんとに、おめでたいなあ」
「な、それはどういう意味? ……うっ」

 彼は言葉を返すかわりに、小蘭の口に布をしっかり押し当てた。
 ……く、苦しい。
 たちまち辺りの景色がぐるぐる回り始める。
 目の前が墨を下ろしたように暗く、視界が狭まってゆく。
 立っていることも出来ず、小蘭はたちまちその場に崩れ落ちた。

「ふふっ、あたし達にさえ同情をくれる、お人好しのあんたには悪いが」

 ――これも、皇帝ホァンシャンのご命令なんでな。

 皇……帝……。

 小蘭の薄れゆく感覚の中で、雲流の勝ち誇った声だけが――もう二度と、届かない場所から聞こえていた。
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