後宮恋歌 ―皇帝になる男と、ただ一人の妃―

佳乃こはる

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第一章 

25 絶体絶命

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 樊将軍の登場に会場が沸き、将軍と蒼龍が対峙した――その瞬間のことを、小蘭はまだ知らなかった。

「う、ん」
 目を覚ますと、白いもやの向こう側に、縞のような影が微かに揺れている。さっきから身体が浮遊していて、まるで足が地についていないよう。

 頭が……とても痛い。

 やがて頭の奥で脈打っていた鈍い痛みが引くにつれ、意識が澄んでいく。

 ――その瞬間、小蘭は異常に気づいた。
 風が全身を抜け、身体がぐらりと揺れる。
 
 視界がはっきりした瞬間、小蘭は息をのんだ。
「え、何ここ!」

 ガシャアンッ。
 立ちあがろうとすると、覚束なく腰が砕けた。四つ這いになった身体を起こそうと、目の前の鉄格子を掴む。

 ひやりと掌に冷たさが走る。

 ここは、檻の中だ。そのうえ、宙吊りになっている。

(やだ、……足がついていない? 嘘、何で私、こんなことになってるの?)
 ズキン。
 まだ鈍く痛む頭を抱えつつ、小蘭はこれまでの記憶を手繰り寄せる。

(私、さっきまで何してたんだっけ)
 
 稽古をしていた蒼龍と別れて、それから雲流に出くわして、それから?
 頭から、記憶がすっぽり抜け落ちている。
 
 ここは一体、どこなんだろう。
 鉄格子を通して見えるのは、ぐるりと周囲、見渡す限りの人、人、人――。
 まるで、見世物の獣にでもなったみたい。

 遥か下の地面を見下ろすと、楕円形の広場の真ん中で、武装した二人の男が向き合っている。その周りを取り囲むような、擂鉢すりばち状の観覧席に、大勢の人が腰掛けている。

 もしかして、ここが例の闘技場なのか。
 であれば、今やっているのが御前試合で、真ん中で見合っているのは――。

 蒼龍!

 ガシャ、ガシャッ。

 小蘭は再び、檻の格子にへばりついた。

 やはりそうだ。
 二人のうち、一人は蒼龍。
 草原では、稜線近くにいる羊だって数えることができたのだ。その小蘭の目に、蒼龍の姿ははっきりと映った。

 蒼龍は、確かに言っていた。
「優勝したら、めとる。それが助命の策だ」
 と。
 今、試合はどれぐらい進んだのだろうか。勝ってくれていればいいけれど。

 ふと下を見、小蘭は思わず口を押さえた。
「!」
 自分の真下には、黒い大きな穴がある。
 その中にうねり蠢く黒い波から、湿った土と生臭い匂いが立ち上ってくる。

 目の良いことがかえってあだとなってしまった。あれらは無数の蛇、毒虫、蠍。もしくはそれらの集合体。

 何かを察した小蘭は自分のいる檻の底を見た。真ん中に継ぎ目がある。

 つまりは、そういうことなのだ。
 蒼龍が負ければ、即座に自分はに落とされる。

 蛇や蠍は、怖くない。
 故郷では珍しくもなく、幼い頃には触って遊んでいた。

 ――だからこそ分かる。
あれほどの数の蛇や蠍に落とされれば、助かる道はない。

 これまでの記憶が、やっと繋がった。
 今は、あれから丸一日が経っている。
 自分は余興の見世物として、皇帝の命を受けた――あの意地の悪い目をした宦官、雲流に攫われ、眠らされていたのだ。

 牛の股割きではなく、大勢の前で蛇や蟲に身体を千切られ、毒に侵される公開処刑の罪人として。

「う、ぐっ」
 小蘭は、胸にせり上がってくる吐き気をかろうじて抑えた。

 いくら蒼龍が憎いとはいえ、こんなことを考える皇帝は、やはりどこかおかしい。
 もう、蒼龍に頼ってばかりじゃいられない。以前蒼龍かれにも言ったように、『自分の命は自分で守る』。
(私だって、戦わなくちゃ――)

 小蘭は、頭を巡らせた。
(ここから逃げる方法は)
 
 例えば、兵士たちが試合に熱中しているうちに、この下を、なんとかこじ開けられないだろうか。

 小蘭は、頭からかんざしを引き抜き、その継ぎ目をいじってみた。
 ……ダメだ。どういう仕掛けか、さっぱり分からない。恐らくは、外にぶら下がっているあの紐で操作するのだろう。

 もし蒼龍が敗け、床下が割れた瞬間に檻の端にぶら下がり、あの紐を伝って逃げる。――そんな策も頭をよぎる。
 しかし、下にはたくさんの兵士が控えている。野山で鍛えた逃げ足になら自信はあるが……。

 たとえ逃げ回ったとして、兵士百人を相手では、いつかは捕まり、穴に放り投げられるだろう。
 逃げられない。ありえないことだが、そこに婆やが助けに来てくれでもしない限りは。

 いずれにせよ、万事休すだ。
 自分だけではどうにもならない。

(蒼龍……)
 小蘭は檻の底にへたり込むと、試合場に対峙する、蒼龍の姿を見つめた。

 今が何回戦目なのか分からないが、今の相手は随分と強そうだ。こんな遠くにいる自分にさえ、その身に纏う闘気を感じられるほどに。

(蒼龍、頑張ってよ。……私も最後まで足掻くからさ)

 小蘭の小さな祈りを嘲笑うかのように。

 シャアアァァァァァーーーンッ!

 決勝戦を告げる銅鑼が、天を突き抜けるように高く鳴り響いた。
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