後宮恋歌 ―皇帝になる男と、ただ一人の妃―

佳乃こはる

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第二章 華燭

46 渦中のひと

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「だからさ、『子を作れ』だとか、期待されても困るんだよね。私たち……そういうの、全く無いし」
「ほう、〝そういうの〟とは?」

 月餅を喉に詰まらせてむせ返る小蘭。
 春明は平然として、縁側に淡々と素焼きの平皿を並べ続けていた。
 毎度のように「授業」をサボり、男の子の変装で押しかけてくる小蘭に見慣れているからか、口の端には小さな笑みがこぼれている。
 
「ほら、少し落ち着きなさい」
「けほっ……ふう、危なかった」
 春明が出してくれたお茶を一気に飲み干すと、小蘭はようやく一息をついた。
 
 本当は、今日こそサボらずに授業を受けるつもりでいたのだが……。
 昨夜の熱が冷めないまま、一人で抱え込んでいたらなってしまいそうで、気が付けば、唯一話せる春明のもとに足が向いていた。
 
「まあ小蘭は、仕方なく蒼太子の妃になったのでしょうから? 御子などは当然、望んでいないのでしょうね」
「……そりゃま、そうなんだけど……さ」
 
 春明は手元の乳鉢をくるくると回しながら、ちらっと小蘭の表情をうかがった。

「しかし、どうだろう。その割には脈が速くなっているようだ」
「は、はい?」

「小蘭、医者の目は誤魔化せませんよ。いつもそう、蒼太子の名前が出ると、あなたの脈はたちまち上がり、頬の血色がよくなります」
「え……あ!」

 小蘭の心臓が、どくんと跳ねた。
 思わず頬を両手で覆い隠す小蘭に、春明は人の悪い笑みを浮かべた。
 
「ち、違うからね! 別にこれは〝恋〟なんかじゃ……!」
「おや、誰もそんなことは言っていませんよ」
「もう、意地悪!」
 子どもっぽく叫んで頬を膨らませる小蘭に、春明は思わず目を細めた。

(なんとまあ、少女のようにいたいけな。これでは蒼太子も苦労なさるはずだ)
 
 春明は、すりこ木を擦る手を止めて、乳鉢の中身を空いた平皿に移すと、改めて小蘭に向き直った。
 
「さて、冗談はさておき。そろそろ本題に入りましょうか。今日は何か言いたいことがあってここへ来たのでしょう?」
「うっ、ご明察……だわ。そう、聞いてよ。凛麗のことなんだけどさ」

 小蘭は、板張りの床に膝を抱えた。

 初夏の午後、サルスベリの赤と白が映える庵の縁側。
 日だまりの中、木と薬草の香りに包まれて大好きな春明と過ごすのは、退屈な授業に出るよりよほどいい。

「この間、碧衣ビィイーが喧嘩を売っちゃったもんだから、最近、凛麗の仲間たちの嫌がらせがひどくてさ」
「ほう」
「先週の会食の時なんてね、スープから毒ガエルが飛び出してきたのよ。あり得る?」
「なるほど毒ガエルとは。命の危険はないにしろ……ひどい痘痕あばたが残りますからね。料理人も随分と手の込んだ食材を出すようになったものだ」

「もう、笑いごとじゃないのよ! 尚真シャンヂェンなんて泣き出しちゃって、大変だったんだから。あんまり腹が立ったから、そいつの顔めがけて投げつけてやったわよ」

「ああ、それで。この間、ひどく顔を腫らした妃が泣きながら診療所ここへやってきました」
「いい気味だわ」
 
 二つ目の薬草を潰しにかかっていた春明が、ふと手を止めた。乳鉢を静かに置くと、小蘭の顔を真正面から見据える。

「しかし……気を付けなさい。小蘭、後宮の派閥争いは、あなたが考えるよりはるかに闇が深く、やっかいなものです」
 春明は、先ほど置いた乳鉢のあたりに視線を落とした。

「凛麗様は、太子妃候補として、丞相殿に育てられてきた大切な『駒』です。あの御父上が、駒をただの飾りにしておくはずがない。あなたは今や、その対立候補に置かれているのですから」
「そんなつもりはないんだけどな……」

「あなたの思いに関わらず、そう見られている、という話です。ご自覚なさい」

 春明は、声を少しだけ低くした。

「あなたは今や、良くも悪くも渦中の人。そして、蒼太子に近すぎる」

 いつもの淡い笑みは消え、声に厳しさが宿っている。こういう時は、本当に危ない時——小蘭は、ごくりと唾を呑み込んだ。
 
「とはいえ、ご自分ではどうにもならないのでしょうね。あなたは少し目立ちすぎる。今からは、生きてゆくために要らぬ敵は作らないことです。しばらく喧嘩はお控えなさい」
「……はあい」
 
 小蘭は抱えた膝に顔を埋め、げんなりと息を吐き出した。
 心の奥が、触れれば崩れてしまいそうに熱かった。
 
(知らないうちに、もう一線を越えてしまっていたのかもしれない)

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