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第一章
胸を掻き乱す正体は
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どこをどう通ってクレトの邸まで帰ってきたのだろうか。
気が付けばエステルは玄関ホールを抜けた先にあるテラスのベンチに腰掛け、大洋に沈みゆく夕日を見つめていた。
「あまり長く海風にお当たりになりますとお風邪を召しますよ、お嬢様」
「……マリナ…」
マリナは大判のショールをエステルの肩から掛けると、冷たくなった手をとった。マリナは亡くなった母の代わりにいつも側にいてくれた優しいメイドだ。他国の商家の娘らしいが、働き口を求めてこの国へやってきて現在に至る。マリナが結婚もせずにいるのはエステルのせいではないかと思う時がある。マリナの二十代はエステルのためにすべて費やされ、今はもうお嬢様でも何でもないエステルのために、まだ側にいてくれている。
「お嬢様、あれからご様子がずっとおかしいですよ、どうかされましたか?」
そう聞かれてもエステルは首を振るしかない。
「……わからない。わからないけれど、どうしてだかとっても胸がずきずきするのよ。王宮の大広間でみなに笑われた時よりも胸が苦しいわ」
「……お嬢様」
マリナは困ったようにエステルを見つめた。
「ご自分でおわかりにはなられていないのですね」
「何が?」
「いえ、何でもありません。答えはきっとお嬢様ご自身で見つけられたほうがいいのだと私は思いますから」
「なんだか意味深長ね」
「そうでございますか?」
マリナはふふっと笑うと、「さぁ」とエステルを促した。
「中へ入りましょう、お嬢様。クレト様もそろそろお戻りになられるでしょうから」
「クレト、帰ってくるのかしら」
「きっと帰っていらっしゃいますよ。今までお嬢様に何の言づてもなく邸をお空けになることはなかったではないですか」
「……そうだったわね」
忙しく立ち回っているクレトだが、この邸にエステルがいる時は必ず帰ってきて夕食を共にしていた。マリナの言葉に少し元気を取り戻したエステルは、マリナの促すまま腰を上げたのだが―――。
その日クレトは邸に帰ってこなかった。
眠れぬ夜というものは本当にあるものだ。
結局クレトを待ち続け、エステルは一睡もできなかった。夜の間何度も昼間見た女性の姿がちらつき、細身で扇情的なあの姿が脳裏をよぎった。
「クレト様、どうなされたのでしょうね」
朝食の席で顔をあわせるとマリナも心配そうに言い、くまの目立つエステルの顔を困ったように見た。
「きっと何かトラブルでもあったのですよ。あのクレト様が無断でこのお邸を空けられるなど、考えられませんよ」
「……だといいのだけれど」
邸で待つエステルのことを忘れるくらい楽しい時間を過ごしていたのかもしれない。
だからといって何の連絡も寄越さなかったクレトを責める権利はエステルにはない。エステルはただの居候であり、従業員であり、クレトの家族ですらない。どこで何をし、どう過ごそうがエステルに断る必要はどこにもないのだ。
朝食を終えるとエステルは居ても立ってもおられず邸を出た。まだ朝もやの残る大通りを歩き、昨日のホテルの入り口を見渡せる場所に立った。見たくないと思うのに、クレトがあの女性とホテルを出てくるのではないかと思うと確かめずにはおれなかった。
「帰りましょう、お嬢様。これではまるでスパイのようですわ」
ついてこなくてもいいと言ったけれどマリナはやっぱりついてきて、ホテルの入り口を凝視するエステルに心配そうに声をかける。
「マリナは帰って。自分がおかしなことをしているっていう自覚はあるの。でもどうしても気になるのよ」
「お気持ちはわかりますけれど、もし本当にクレト様があの女性と出てこられたなら、傷つかれるのはお嬢様です」
「傷つく…?」
マリナは何を言っているのだろうか。エステルはただ真実が知りたいだけで、例えクレトが女性と出てきたとしても傷ついたりはしない。それではまるでエステルがクレトのことを好きみたいではないか。
「変なこと言うのね、マリナ。わたしは本当にあの女性がクレトのお付き合いしている方なのか知りたいだけなのよ」
「それはクレト様に直接お尋ねなさればよろしいのです」
確かにマリナの言うことにも一理ある。
「こそこそするのはレディとして恥ずかしいかしら……」
「ええ、そうですよお嬢様。気になるのなら、堂々とお聞きすればよろしいのです」
それはそうかもしれない。
ただの同居人が自分の身辺をこそこそ嗅ぎまわっていてはクレトだっていい気はしない。
目の下にクマまで作って尾行するなんて、マリナの言う通り恥ずかしいことだ。
「帰るわ、マリナ。わたしどうかしていたみたい」
「ええ、お嬢様。帰りましょう」
エステルが踵を返したときだ。ホテルの扉が開き、「またのお越しを」というボーイの声に見送られ、クレトと昨日の女性がホテルを出てきた。
クレトも女性も昨日と同じ服装で、クレトは片手をあげてボーイの言葉に応じると女性と連れ立って大通りを歩きだした。
「お嬢様、お嬢様。お待ちくださいお嬢様」
クレトと女性の姿を見たエステルは百八十度方向転換すると、大通りを無心で歩いた。
やっぱりクレトは昨日の女性と一緒だった。一晩をあのホテルで過ごしたのだ。
その事実にエステルは言いようのない感情に支配され、とにかくクレトと今は顔を合わせたくないと邸とは真逆の方向へとひたすらに足を動かした。
マリナが後ろから追ってくる。それに気遣う余裕もなく、エステルは速足で通りを歩いていたけれど、後を追うマリナの呼吸がぜいぜいというのが聞こえ、はたと我に返り足を止めた。
「ごめんなさい、マリナ」
「はぁ、はぁ…。いえ、あの…お嬢様、大丈夫でございますか?」
「大丈夫ではないのはマリナの方でしょう。ごめんなさい、わたしつい速足で歩いてしまって」
「いえ、…いいんですよ。お嬢様のお気持ちもわかりますので」
「わかるの?」
本人にもよくわかっていないのに、マリナはすごい。
「でも教えてくれないんでしょう?」
マリナはあいまいに笑った。
この胸を掻き乱す正体が、いつかはエステルにもわかる時が来るのだろうか。
そう思いながらふと見上げた先に不動産屋の看板を見つけ、エステルは吸い込まれるようにそこへ入っていった。
気が付けばエステルは玄関ホールを抜けた先にあるテラスのベンチに腰掛け、大洋に沈みゆく夕日を見つめていた。
「あまり長く海風にお当たりになりますとお風邪を召しますよ、お嬢様」
「……マリナ…」
マリナは大判のショールをエステルの肩から掛けると、冷たくなった手をとった。マリナは亡くなった母の代わりにいつも側にいてくれた優しいメイドだ。他国の商家の娘らしいが、働き口を求めてこの国へやってきて現在に至る。マリナが結婚もせずにいるのはエステルのせいではないかと思う時がある。マリナの二十代はエステルのためにすべて費やされ、今はもうお嬢様でも何でもないエステルのために、まだ側にいてくれている。
「お嬢様、あれからご様子がずっとおかしいですよ、どうかされましたか?」
そう聞かれてもエステルは首を振るしかない。
「……わからない。わからないけれど、どうしてだかとっても胸がずきずきするのよ。王宮の大広間でみなに笑われた時よりも胸が苦しいわ」
「……お嬢様」
マリナは困ったようにエステルを見つめた。
「ご自分でおわかりにはなられていないのですね」
「何が?」
「いえ、何でもありません。答えはきっとお嬢様ご自身で見つけられたほうがいいのだと私は思いますから」
「なんだか意味深長ね」
「そうでございますか?」
マリナはふふっと笑うと、「さぁ」とエステルを促した。
「中へ入りましょう、お嬢様。クレト様もそろそろお戻りになられるでしょうから」
「クレト、帰ってくるのかしら」
「きっと帰っていらっしゃいますよ。今までお嬢様に何の言づてもなく邸をお空けになることはなかったではないですか」
「……そうだったわね」
忙しく立ち回っているクレトだが、この邸にエステルがいる時は必ず帰ってきて夕食を共にしていた。マリナの言葉に少し元気を取り戻したエステルは、マリナの促すまま腰を上げたのだが―――。
その日クレトは邸に帰ってこなかった。
眠れぬ夜というものは本当にあるものだ。
結局クレトを待ち続け、エステルは一睡もできなかった。夜の間何度も昼間見た女性の姿がちらつき、細身で扇情的なあの姿が脳裏をよぎった。
「クレト様、どうなされたのでしょうね」
朝食の席で顔をあわせるとマリナも心配そうに言い、くまの目立つエステルの顔を困ったように見た。
「きっと何かトラブルでもあったのですよ。あのクレト様が無断でこのお邸を空けられるなど、考えられませんよ」
「……だといいのだけれど」
邸で待つエステルのことを忘れるくらい楽しい時間を過ごしていたのかもしれない。
だからといって何の連絡も寄越さなかったクレトを責める権利はエステルにはない。エステルはただの居候であり、従業員であり、クレトの家族ですらない。どこで何をし、どう過ごそうがエステルに断る必要はどこにもないのだ。
朝食を終えるとエステルは居ても立ってもおられず邸を出た。まだ朝もやの残る大通りを歩き、昨日のホテルの入り口を見渡せる場所に立った。見たくないと思うのに、クレトがあの女性とホテルを出てくるのではないかと思うと確かめずにはおれなかった。
「帰りましょう、お嬢様。これではまるでスパイのようですわ」
ついてこなくてもいいと言ったけれどマリナはやっぱりついてきて、ホテルの入り口を凝視するエステルに心配そうに声をかける。
「マリナは帰って。自分がおかしなことをしているっていう自覚はあるの。でもどうしても気になるのよ」
「お気持ちはわかりますけれど、もし本当にクレト様があの女性と出てこられたなら、傷つかれるのはお嬢様です」
「傷つく…?」
マリナは何を言っているのだろうか。エステルはただ真実が知りたいだけで、例えクレトが女性と出てきたとしても傷ついたりはしない。それではまるでエステルがクレトのことを好きみたいではないか。
「変なこと言うのね、マリナ。わたしは本当にあの女性がクレトのお付き合いしている方なのか知りたいだけなのよ」
「それはクレト様に直接お尋ねなさればよろしいのです」
確かにマリナの言うことにも一理ある。
「こそこそするのはレディとして恥ずかしいかしら……」
「ええ、そうですよお嬢様。気になるのなら、堂々とお聞きすればよろしいのです」
それはそうかもしれない。
ただの同居人が自分の身辺をこそこそ嗅ぎまわっていてはクレトだっていい気はしない。
目の下にクマまで作って尾行するなんて、マリナの言う通り恥ずかしいことだ。
「帰るわ、マリナ。わたしどうかしていたみたい」
「ええ、お嬢様。帰りましょう」
エステルが踵を返したときだ。ホテルの扉が開き、「またのお越しを」というボーイの声に見送られ、クレトと昨日の女性がホテルを出てきた。
クレトも女性も昨日と同じ服装で、クレトは片手をあげてボーイの言葉に応じると女性と連れ立って大通りを歩きだした。
「お嬢様、お嬢様。お待ちくださいお嬢様」
クレトと女性の姿を見たエステルは百八十度方向転換すると、大通りを無心で歩いた。
やっぱりクレトは昨日の女性と一緒だった。一晩をあのホテルで過ごしたのだ。
その事実にエステルは言いようのない感情に支配され、とにかくクレトと今は顔を合わせたくないと邸とは真逆の方向へとひたすらに足を動かした。
マリナが後ろから追ってくる。それに気遣う余裕もなく、エステルは速足で通りを歩いていたけれど、後を追うマリナの呼吸がぜいぜいというのが聞こえ、はたと我に返り足を止めた。
「ごめんなさい、マリナ」
「はぁ、はぁ…。いえ、あの…お嬢様、大丈夫でございますか?」
「大丈夫ではないのはマリナの方でしょう。ごめんなさい、わたしつい速足で歩いてしまって」
「いえ、…いいんですよ。お嬢様のお気持ちもわかりますので」
「わかるの?」
本人にもよくわかっていないのに、マリナはすごい。
「でも教えてくれないんでしょう?」
マリナはあいまいに笑った。
この胸を掻き乱す正体が、いつかはエステルにもわかる時が来るのだろうか。
そう思いながらふと見上げた先に不動産屋の看板を見つけ、エステルは吸い込まれるようにそこへ入っていった。
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