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93 落日の帝国・その1
しおりを挟む軍民あわせて二〇〇万もの人間を徴収してまで行なわれた隋による第二次高句麗遠征は、防衛側である高句麗の完全勝利に終わった。特に最後の戦いとなった薩水(清川江)での戦闘では、隋軍は圧倒的少数である高句麗軍によってまるで為す術もなく徹底的に打ち負かされてしまったのだ。これはもう、史上まれに見る大敗北であると言っていいだろう。
中国隋時代の出来事が書き記された歴史書、『隋書』に曰く。
『九軍遼を渡り凡そ三〇万五〇〇〇人。遼東城に還り至るに及び、唯だ二七〇〇人』とある。三〇万五〇〇〇人の兵のうち生きて遼東城まで帰ったのは、わずか二七〇〇人と言うのだから、戦いに参加した隋軍兵士のうち九九パーセント以上が薩水で戦死したということになる。もちろん多少の誇張は含まれているのだろうが、それにしても、尋常な数字ではない。
この結果を受け、さすがの煬帝も今回の高句麗遠征は失敗であると認めざるを得なかった。遼東城にはまだいくらかの戦力が残ってはいたが、武器や食料も不足していることだし、兵たちの士気はどん底のさらに底をさまよっている。もし、勝利の余勢をかった高句麗軍が遼東城を取り返そうと攻めてきたら、ひとたまりもない。
実際には高句麗軍も薩水の戦いで全ての力を使い果たしており、これ以上戦う余裕など残ってはいなかったのだが、煬帝にはそこまでは分からない。平民の兵士たちがいくら死のうと煬帝の知ったことではなかったが、自分や可愛がっている寵姫たちが傷つけられるかもしれないとなると、話は別である。これ以上遼東城にいるのは危険と判断し、煬帝はあっさり撤退を決定。大同江に待機している来護児率いる隋水軍にも帰還を命じた。
もちろん、圧倒的な大軍を以てして辺境の小国一つ平定することが出来ず、それどころか甚大な被害を受けてむなしく逃げ帰る羽目になってしまったのだから、悔しくないはずがない。普通の人間でもいい加減悔しいだろうに、ましてや東アジア一の大国隋の皇帝であり、肥大した自尊心と幼児のような自意識を併せ持つ煬帝からすれば、自らの顔を土足で踏みにじられたかのような思いを抱いたことだろう。
その怒りを、煬帝は部下を罰することである程度晴らした。その一番のとばっちりを受けたのは于仲文の副官である劉士龍だった。乙支文徳が降伏を装って隋軍の本営に現れた時、彼が余計な口出しをせずにきちんと乙支文徳を捕えてさえいれば、このような事態に陥ることはなかった。煬帝はそのように口汚く罵ると、劉士龍に死を命じたのだ。
劉士龍の上司である于仲文にも、罪は及んだ。隋軍司令官の地位を拝命しながら煬帝の期待に応えることが出来ず無駄に多くの兵の生命を損ねた責任は重いとして、煬帝は彼を平民に落とし、帰国の道中ずっと鎖に繋ぎ、罪人として哂し者にした。
大興(西安)に戻ってからも于仲文は解放されることはなく、監禁され続けた。宇文述によって敗戦の罪が巧みに全て押しつけられてしまったためである。そのためか一年後の大業九(西暦六一三)年。彼は失意のうちに没することになる。享年六八歳であった。
宇文述も一時は煬帝の怒りを買い、于仲文と同じように平民に落とされて帰国までの間鎖に繋がれた。だがこちらはすぐに許され、貴族としての地位も回復した。煬帝は身内には結構甘いので、自分の幼なじみであり、重臣として国を支え続けてきた(その分、権力の甘い汁もたっぷり吸っていたが)宇文述を重罪に処すのは気が引けたのだろう。
生き残った十二将軍たちに対しても、煬帝は比較的寛大な処置で済ませた。
水軍総管の来護児を除けば、無事遼東城へ帰還がかなった十二将軍はわずか七人。しかも部隊を全うして戻ってきたのは衛玄のみであり、趙孝才と崔弘昇、屈突通、張瑾、荊元恒の五人は部下の大半を失い。殿軍を務めた王仁恭に至っては奇跡的に生還こそかなったものの半死半生のほうほうたる体で逃げ帰ってきたというありさまだった。
本来なら厳罰を以て処断するところであろうが、すでに麦鉄杖、銭士雄、孟叉、辛世雄と言った四人もの有能な将軍を失っている以上、生き残った将軍まで罰する訳にはいかなかったようだ。
衛玄は便宜的に隋軍司令官の地位を与えられ、生き残った兵士たちのとりまとめや高句麗軍が追撃してきた時に備えての迎撃役を仰せつかることとなった。
司令官と言えば聞こえは良いが、要するに敗戦処理係だ。それでも衛玄は他の五将軍らと協力しながら、その労多く実り少ない作業を黙々とこなしていた。だが王仁恭から辛世雄の死を伝えられた時はさすがに絶句し、涙を流しながらしばし茫然とその場にたたずんでいたという。
衛玄ら七将軍と来護児や秦瓊はその後も自らの生命が尽きるまで、あるいは隋朝が滅びるまで煬帝に仕え、自らの武人としての人生と職責をまっとうすることとなる。
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