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92 薩水大捷!
しおりを挟むこの時点で、勝負は完全についた。
薩水は隋軍兵士の死体で埋め尽くされ、生きている兵士たちの大半は両手を上げて降伏の意を示した。無事に、向こう岸に逃げられた兵士たちもいないことはないだろうが、その数はごくごく少数でしかないと予想出来る。そのため、乙支文徳は敢えて追撃の命令は出さなかった。戦いは、終わったのである。高句麗軍の完全勝利という形で。
「終わったか」
戦場の様子を一望して、乙支文徳はやや疲れたように呟いた。
戦いに勝ち、見事高句麗の民と領土を守り切ったというのに、乙支文徳の胸には勝利の喜びはない。あるのはなんとも言いがたい倦怠感と、敵味方含めて大勢の人が死んだなあという、どこか他人ごとのような感想だけだった。
「終わりましたねー」
隣に立っていた高建武は、そんな乙支文徳を元気づけようとするかのように、わざとらしく明るい表情と口調で言った。
「さ、さすが乙支文徳閣下です。わずか二万の兵で三〇万以上の敵兵をこうもあっさり撃ち破ることが出来る将軍なんてなかなかいませんよ。本当、すごいです。この大勝利の知らせを聞いたら陛下や民たちも、きっと大喜びですよ」
「いいよ。無理に誉めてくれなくても」
乙支文徳は自嘲の笑みを浮かべながら、小さく呟いた。
「おれがやったことは要するにだまし討ちさ。素手でのケンカの最中に降参したと言って両手を上げて見せて、相手が後ろを向いた途端に懐に隠していたナイフを取り出し、背中をぶっすり刺したようなもんだ」
「でも……最初に言いがかりをつけてきて、圧倒的な戦力を背景にケンカを売ってきたのは相手のほうですよ? しかもこれに負けたら高句麗は滅び、多くの民が故郷を失い苦しい目に遭うところだったんです! だから絶対に勝たなくちゃいけない戦いだったんだけど、正面からまともに戦っていたら勝てっこない。だから、策略を用いて戦ったんじゃないですか。閣下は当然のことをなさったんです。誰に責められる謂れもありません!!」
思いの外真剣な口調と表情で、高建武は吠えるように言った。そんな彼女に対し、乙支文徳は力なく笑って見せてから弱々しく首を横に振った。
「そうかもな。でもそれは高句麗の民から見た理屈さ。この戦いで死んでいった隋軍の兵士たちからすれば、もっと別の言い分があると思うよ。乙支文徳の奴があんな卑怯な手を使ってきさえしなければ、自分たちは無事生き延びて故郷の家族の元に帰ることが出来たのにってね」
「閣下……」
「彼らだってなんにも悪くないんだ。高句麗の民たちと同じようにただ故郷で慎ましく、家族と共に生きていくことだけが望みだったはずなのに。それをおれが壊した。一番悪いのはもちろん煬帝だけど、おれだって二番目か三番目くらいには責任が重い。不遜なもの言いかもしれないけど、おれがもっと頭がよければ、もっと力があったら戦争なんかしなくても上手く隋軍を追い返すことも出来たかもしれなかったんだ……」
乙支文徳は臍を噛むようにそう言ってから、隣で高建武が困ったような表情を浮かべていることに気がつき、慌てて笑顔を作っておどけたように首を横に振って見せた。
「……なんてね。つまらないことを言ったな。忘れてくれ。早く平壌城に帰ろう。帰って大元や大陽に勝利の報告をしてやらないといけないからね」
言って踵を返しかけた乙支文徳の背中に、高建武が後ろからぎゅっと抱きついてきた。軽く驚いて後ろを振り返った乙支文徳に対し、高建武は静かに言葉を続ける。
「閣下は、よく頑張りました」
「……高建武?」
「閣下は自分の出来る限りのことを、自分の権限が及ぶ範囲で、精一杯やれるだけのことをやりました。誰が認めなくても、あたしはそのことをよーく分かっています」
どうやら、高建武は自分を慰めてくれているらしい。そのことに思い至り、乙支文徳は思わずぷっと噴き出してしまった。彼女の馬鹿力で思いきり抱きしめられて痛くて苦しくて死にそうだったにも関わらず、目からは次から次へと大粒の涙がこぼれ出ているのにも関わらず、乙支文徳はこらえ切れずに笑い声をあげてしまった。
そんな乙支文徳を見て、高建武はきょとんと首をかしげた。
「……? あの。あたし、なにか変なことを言いましたか?」
「いいや。なにも変なことなんかなかったよ。ありがとう」
ちょっとだけ。ほんの少しだけだけど心の中のもやもやが取れたような気がして、乙支文徳は微笑みながら言った。そんな乙支文徳の顔を見て高建武もほっとしたように嬉しげな表情を浮かべ、さらに強く乙支文徳の身体を締めつける。乙支文徳は息が出来なくなり顔面を真っ白にしながら、リングロープを探してつかむように腕を大きく振り上げる。
「く、苦しい、痛い。ギブ、ギブアップ!」
「え? あっ! ご、ごめんなさい閣下」
危ういところで天国への階段を昇りそうになった乙支文徳だったが、なんとか難を逃れると喉を押さえて二、三度咳をしてから、兵たちに向けて今回の戦いの完全勝利を告げ、平壌城への凱旋を宣言した。それを聞いた兵たちは歓声をあげながら仲間たちと抱き合って喜んだり、感涙にむせび泣いたりしている。
この薩水の戦いで隋軍を破った大勝利のことを後世の人々は薩水大捷(薩水での大勝利)と呼びならした。そしてそれを朝鮮民族が外敵に対し勝ち取った三大大捷(勝利)の一つに数え、その功はただ一人、乙支文徳に帰すとして現在まで伝えているのである。
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