93 / 97
93 落日の帝国・その1
しおりを挟む軍民あわせて二〇〇万もの人間を徴収してまで行なわれた隋による第二次高句麗遠征は、防衛側である高句麗の完全勝利に終わった。特に最後の戦いとなった薩水(清川江)での戦闘では、隋軍は圧倒的少数である高句麗軍によってまるで為す術もなく徹底的に打ち負かされてしまったのだ。これはもう、史上まれに見る大敗北であると言っていいだろう。
中国隋時代の出来事が書き記された歴史書、『隋書』に曰く。
『九軍遼を渡り凡そ三〇万五〇〇〇人。遼東城に還り至るに及び、唯だ二七〇〇人』とある。三〇万五〇〇〇人の兵のうち生きて遼東城まで帰ったのは、わずか二七〇〇人と言うのだから、戦いに参加した隋軍兵士のうち九九パーセント以上が薩水で戦死したということになる。もちろん多少の誇張は含まれているのだろうが、それにしても、尋常な数字ではない。
この結果を受け、さすがの煬帝も今回の高句麗遠征は失敗であると認めざるを得なかった。遼東城にはまだいくらかの戦力が残ってはいたが、武器や食料も不足していることだし、兵たちの士気はどん底のさらに底をさまよっている。もし、勝利の余勢をかった高句麗軍が遼東城を取り返そうと攻めてきたら、ひとたまりもない。
実際には高句麗軍も薩水の戦いで全ての力を使い果たしており、これ以上戦う余裕など残ってはいなかったのだが、煬帝にはそこまでは分からない。平民の兵士たちがいくら死のうと煬帝の知ったことではなかったが、自分や可愛がっている寵姫たちが傷つけられるかもしれないとなると、話は別である。これ以上遼東城にいるのは危険と判断し、煬帝はあっさり撤退を決定。大同江に待機している来護児率いる隋水軍にも帰還を命じた。
もちろん、圧倒的な大軍を以てして辺境の小国一つ平定することが出来ず、それどころか甚大な被害を受けてむなしく逃げ帰る羽目になってしまったのだから、悔しくないはずがない。普通の人間でもいい加減悔しいだろうに、ましてや東アジア一の大国隋の皇帝であり、肥大した自尊心と幼児のような自意識を併せ持つ煬帝からすれば、自らの顔を土足で踏みにじられたかのような思いを抱いたことだろう。
その怒りを、煬帝は部下を罰することである程度晴らした。その一番のとばっちりを受けたのは于仲文の副官である劉士龍だった。乙支文徳が降伏を装って隋軍の本営に現れた時、彼が余計な口出しをせずにきちんと乙支文徳を捕えてさえいれば、このような事態に陥ることはなかった。煬帝はそのように口汚く罵ると、劉士龍に死を命じたのだ。
劉士龍の上司である于仲文にも、罪は及んだ。隋軍司令官の地位を拝命しながら煬帝の期待に応えることが出来ず無駄に多くの兵の生命を損ねた責任は重いとして、煬帝は彼を平民に落とし、帰国の道中ずっと鎖に繋ぎ、罪人として哂し者にした。
大興(西安)に戻ってからも于仲文は解放されることはなく、監禁され続けた。宇文述によって敗戦の罪が巧みに全て押しつけられてしまったためである。そのためか一年後の大業九(西暦六一三)年。彼は失意のうちに没することになる。享年六八歳であった。
宇文述も一時は煬帝の怒りを買い、于仲文と同じように平民に落とされて帰国までの間鎖に繋がれた。だがこちらはすぐに許され、貴族としての地位も回復した。煬帝は身内には結構甘いので、自分の幼なじみであり、重臣として国を支え続けてきた(その分、権力の甘い汁もたっぷり吸っていたが)宇文述を重罪に処すのは気が引けたのだろう。
生き残った十二将軍たちに対しても、煬帝は比較的寛大な処置で済ませた。
水軍総管の来護児を除けば、無事遼東城へ帰還がかなった十二将軍はわずか七人。しかも部隊を全うして戻ってきたのは衛玄のみであり、趙孝才と崔弘昇、屈突通、張瑾、荊元恒の五人は部下の大半を失い。殿軍を務めた王仁恭に至っては奇跡的に生還こそかなったものの半死半生のほうほうたる体で逃げ帰ってきたというありさまだった。
本来なら厳罰を以て処断するところであろうが、すでに麦鉄杖、銭士雄、孟叉、辛世雄と言った四人もの有能な将軍を失っている以上、生き残った将軍まで罰する訳にはいかなかったようだ。
衛玄は便宜的に隋軍司令官の地位を与えられ、生き残った兵士たちのとりまとめや高句麗軍が追撃してきた時に備えての迎撃役を仰せつかることとなった。
司令官と言えば聞こえは良いが、要するに敗戦処理係だ。それでも衛玄は他の五将軍らと協力しながら、その労多く実り少ない作業を黙々とこなしていた。だが王仁恭から辛世雄の死を伝えられた時はさすがに絶句し、涙を流しながらしばし茫然とその場にたたずんでいたという。
衛玄ら七将軍と来護児や秦瓊はその後も自らの生命が尽きるまで、あるいは隋朝が滅びるまで煬帝に仕え、自らの武人としての人生と職責をまっとうすることとなる。
0
あなたにおすすめの小説
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
古書館に眠る手記
猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。
十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。
そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。
寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。
“読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。
彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。
入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。
ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。
※2023.9.21 編集しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる