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94 落日の帝国・その2
しおりを挟む第二次高句麗遠征の失敗にも懲りず、煬帝はその後大業九、一〇年と連続して、第三次、第四次の高句麗遠征を行なった。
乙支文徳は薩水にて、ニセ降伏をした上で帰還しようとする相手を背後から急襲するという卑怯としか言いようがない戦法を使ってまで、隋軍を容赦なく叩きのめしたが。これは敵の戦意を徹底的にくじくことで、少なくとも数年……出来れば十数年の間は煬帝に再びの高句麗侵攻を諦めさせようという意図があった上でのことだ。だがそれでも煬帝はいささかも躊躇することなく、わずか一年で再び高句麗攻めを再開したのである。さしもの乙支文徳も、なにがなんでも高句麗を討ち滅ぼさんという煬帝の妄執の大きさを見誤っていたとしか言いようがない。
第三次高句麗遠征では、その司令官職には再び宇文述が就いた。乙支文徳の総指揮のもと、高句麗軍は遼東城にこもって懸命に戦ったが、さすがに戦力の差はいかんともし難く落城寸前にまで追い込まれることとなる。だがもうあと一歩……いや、半歩で城が陥ちるというギリギリのところで、隋軍は本国に戻らざるを得ないという事態にあいなってしまう。黎陽(中国河南省浚県)で兵糧を運ぶ任に当たっていた楊玄感という将軍が二〇万もの兵を率いて反乱を起こしたためだ。いわゆる楊玄感の乱である。反乱自体は宇文述、衛玄、屈突通などによって抑えられたのだが。これがきっかけとなり隋の各地で反乱が続発するようになったと言われている。
さらに翌年の第四次高句麗遠征で、隋軍はついに平壌城を指呼の間に捕らえることとなり、嬰陽王が全面降伏するまでに追い込まれた。だがその後嬰陽王は煬帝による、一族もろとも隋に入朝せよという命令に逆らい、頑として高句麗を出ることはなかった。隋に赴けば嬰陽王は殺され、高句麗が滅亡することになるのは明らかだったのだから当然だが。
これに怒った煬帝は五度目の高句麗遠征を目論んだが、さすがにそれが叶うことはなく。かろうじてではあるが、高句麗はその命脈を保ち続けることが出来たのだった。
文帝の時代も含めれば四度もの高句麗遠征の失敗のせいで、隋の国力財力政治力などは低下の一途をたどった。また無謀な遠征、無駄に増える公共事業、とどまるところを知らない増税、重くなる一方の労役苦役などによって民たちの不満も極限まで高まっている。
前述の楊玄感の乱を初めとして、国内の至る所で大小あわせて二〇〇余りの反乱が起こり、同盟国である東突厥(トルコ系遊民族)にも裏切られて侵攻を受けた。隋帝国の国としての基盤は白蟻に食らい尽くされた巨木のごとく、加速度的に空洞化が進んでいったのである。
もちろん煬帝は誰よりもそのことをよく理解していたが、彼は現実を見ることを頑なに拒み続けた。傾きかけた国を立て直そうと尽力するのではなく、夢の中――いまや、煬帝が王者として君臨し続けることが出来る唯一の世界――へと逃避したのだ。
煬帝は大興を捨て、後宮の美女たちやお気に入りの重臣たちだけを引き連れて、南の江都(揚州)へと居を移した。気候が温暖で華やかなりし中国文化の中心地であるこの地を煬帝は以前から好んでおり、それまでも行幸と称して皇帝専用の巨大な竜船に乗って度々この地を訪れていたのだ。
ただしあくまで一時の遊興であったこれまでとは違って、今回は帰るつもりのない旅であった。煬帝は首都を捨て、国を捨て、民を捨て、皇帝としての義務や責任までも打ち捨てて、この地で酒食に耽り、美女に溺れ、自分一人の楽しみに浸っていたのだ。
背後から迫り来る滅亡の足音におびえ、それをまぎらわそうとするかのように……。
大業一二(西暦六一六)年。煬帝と共に大興を捨てて江都にと降り、一般市民の恨みや悲しみの声をよそに奢侈な生活を楽しんでいた奸臣、宇文述が病没した。
南北朝時代に北朝の北周に仕え、煬帝の親友兼幼なじみとして共に栄達への道を歩み。隋が興った後は煬帝の腹心として彼の陰となり日向となり、その覇権に協力。だが重臣となって権力を握ると広く賄賂を求めて私腹を肥やし、煬帝の乱行を諫めるでもなしに唯々諾々とその意に従い、民を苦しめ続けてきた男の最期は、その人柄や生前の行ないに比べれば穏やかなものだった。
煬帝が死んだのは、その二年後の大業一四(西暦六一八)年三月一一日のことだった。ただし、こちらは自然死ではない。よりにもよって皇帝を守る護衛であるはずの宿衛たちによって絹で首を絞められた上に、首の骨を叩き折られて殺害されたのだ。
一応、煬帝が政治をないがしろにして多くの人民を苦しめたので義のためにそれを誅するなどといった大義名分を掲げていたが、本当のところは煬帝が江都を離れようとしないので宿衛たちも国もとに帰ることが出来ず、不満を抱えていたためらしい。また、皇帝を殺して自分こそが至高の地位についてやろうという野望も少なからず抱いていたのだろう。
もっとも彼らは中国大陸をその手中に納め切るだけの器の持ち主ではなかった。当初こそ煬帝の甥である秦王楊浩を擁立して天下に覇を唱えようといきごんだが、威勢が良かったのは最初だけ。隋王朝の禄をはみ、皇帝の恩を得て高い地位と給料をもらっていながらその皇帝を殺害したことで諸侯の恨みと怒りを買い逃亡生活を余儀なくされた挙げ句、結局はその道中で無惨な死を遂げることとなる。
ちなみに、煬帝を殺害した宿衛たちの隊長の名前は宇文化及で、副隊長は宇文士及という。その名前からも分かる通り、煬帝の腹心であり高句麗遠征では司令官を務めた宇文述の長男と三男である。
その後。隋は完全に滅び、中国は再び群雄割拠の時代を迎えることとなる。だがその期間も長くは続かず、やがて唐公であり煬帝の従兄弟でもある李淵とその次男の李世民によって再統一されることとなるのだが……それはまた別の話である。
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