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91 薩水の戦い・その4
しおりを挟むもう、何人くらい斬り伏せただろうか。
王仁恭や、他の逃げ遅れた隋軍兵士たちと共に、殿軍として高句麗軍と戦って数十分。さすがに疲労は色濃く、矢傷や刀傷など大小あわせて数え切れないほど傷を負ってはいたが、どうやらその甲斐はあったようだと辛世雄は思う。
高句麗軍の猛攻をあるいは受け流し、あるいは躱し、少しずつでも反撃しているうちに次第に戦いのペースは掴めてきた。さらに、戦いの場所をこまめに移動させることで、それまでバラバラに戦っていた隋軍兵士たちも次第に一か所に集まってくるようになる。
「いけるかもしれない、でござるな」
「ちょっちゅねー」
辛世雄は王仁恭と顔を見合わせ、小さく微笑んだ。もちろん、完全敗北である戦いの情勢をひっくり返すことは不可能だが、このままいけば高句麗軍に一矢むくい、かなりの数の兵士たちを生きて薩水の向こう岸に渡すことが出来るだろう。先行している衛玄たちの部隊を逃がす時間稼ぎにもなったし。殿軍としての役割は充分果たすことが出来そうだ。しかし、そう思ってほっとした途端……。
「おーい、こっちに浅瀬があるぞ!!」
誰かがそう叫び声をあげるのが聞こえてきて、辛世雄はハッとしてそちらのほうへ目をやった。すると河川のかなり上流、川岸に大きな桜の木が一本立っている辺りで高句麗軍の兵士たち数人が、薩水のこちら岸からあちら岸へ、悠々と歩いて渡る姿を見て取ることが出来た。確かにそこには細い一本の浅瀬があるように思える。
だがなぜそのような道を、高句麗軍兵士がこれ見よがしに渡っている? そんな道が本当にあるのなら、高句麗軍はむしろ隠そうとするのではないか?
「駄目だ、罠だ! 陣を崩すんじゃないでござるっ!!」
これは乙支文徳が仕掛けた罠だ。そう気づいた辛世雄は必死にそう声をあげた。だが、あの浅瀬を通れば無事に薩水を渡り切ることが出来る、助かるんだと思いこんだ隋軍兵士たちは我先にと、浅瀬があると思われる場所に向かい殺到していってしまう。辛世雄や王仁恭たちと共に殿軍を守っていた兵たちも、その大半が離れていったので、折角まとまりかけていた隋軍最後尾部隊もあっと言う間に崩壊することとなった。
「いまだ、射てーっっ!!」
さらに、高句麗軍の誰かがそう号令をかける声も聞こえてきた。いや、誰かではない。まず間違いなく乙支文徳だろう。それに続いて、少女のものらしい声が同じ命令を発するのが聞こえてくる。その次の瞬間は、物陰に隠れていたらしい高句麗軍の弓兵たちが待ってましたとばかりにわらわら姿を現し、密集している隋軍兵士たちに向けて大量の矢を射ち放ってきた。
無防備に、一か所に集まっているところを集中攻撃されたのだからたまらない。かろうじて生き残っていた隋軍兵士たちの大半がこの攻撃であまりにもあっさりと生命を落とすこととなった。
辛世雄と王仁恭は舌打ちをしながらも、味方の兵士たちを救出しようと向かった。だがもはや人数の上でも、隋軍は高句麗軍に劣っている。戦意や戦力などは言うに及ばずだ。
王仁恭は倒れた部下たちをかばいながら、間断なく射ち放たれてくる矢をパンチで次々と落としていく。しかしそれは降りしきる雨を一粒づつ払っていこうとするようなもの。いかに王仁恭が素早い拳撃を繰り出すことが出来ても、全てを落とし切れる訳がない。
「王将軍! 気をしっかり持つでござるよ!!」
水底に片膝をつき、いまにも力尽き倒れそうな盟友にむけて、辛世雄は懸命に励ましの声をかけた。だがそんな彼の身にも高句麗軍の攻撃は容赦なく向けられる。
その肩や背中に何本もの矢が突き刺さり、辛世雄は下唇を強く噛み悲鳴交じりのうめき声をあげた。だがそれでも部下と王仁恭を守るための手はいささかも緩めることなく、剣を振るい奮戦を続ける。
だが、それにも限界の時が訪れた。高句麗軍兵士の一人が振るった刀が、鎧の隙間をついて辛世雄の背中から胸をまっすぐに貫いたのだ。思わずよろめいて水の中に片足をついた瞬間。別の兵士が左肩から右腰にかけてを、剣で薙ぐように一閃する。
「辛将軍っ!!」
どこか遠くのほうから、王仁恭のあげた悲鳴のような叫び声が聴こえてきたような気がした。
同時に、懐にしまっておいた婚約者の肖像画がはらりとこぼれるように落ちていく。辛世雄はそれを拾い上げようとするかのように反射的に腰をかがめ、手を伸ばした。
だがそれもむなしく肖像画はそのまま河川の水面に落ち、水を含んでゆっくりと沈んでいく。それに一瞬遅れて、辛世雄の身体も盛大な水しぶきと共に薩水の河川の中深くへ沈んでいった……。
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