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第6話「日常という幸せ」
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第6話「日常という幸せ」
健一と正式に恋人になってから一週間が過ぎた。私たちの関係は、驚くほど自然だった。
平日の夜、健一が仕事から帰ってくるのを待つ時間が、私の一日の中で最も幸せな瞬間になっていた。彼のマンションで夕食を作り、「おかえりなさい」と言える喜び。これが普通の恋人同士の生活なのだと、改めて実感していた。
「ただいま」
健一がドアを開けて入ってきた。疲れた表情だったが、私を見つけると顔がほころんだ。
「おかえりなさい。お疲れさま」
「美月がいると、疲れも吹き飛ぶ」
健一は私を抱きしめて、額にキスをした。
「今日はハンバーグを作ったの」
「僕の好物だ。ありがとう」
キッチンで一緒に食事の準備をしながら、健一が今日の出来事を話してくれる。新しいプロジェクトのこと、後輩の成長ぶり、そして時々、私への想いも。
「美月といると、家に帰るのが楽しみになった」
「私も、健一の帰りを待つのが楽しみ」
こんな何気ない会話が、とても愛しかった。
食事をしながら、私も翻訳の勉強について報告した。
「今日、短編小説を一つ翻訳してみたの」
「どうだった?」
「難しかったけど、楽しかった。やっぱり私、この仕事が好きなんだと実感した」
健一は嬉しそうに微笑んだ。
「美月が輝いて見える。夢に向かって頑張ってる姿、本当に素敵だ」
「健一が背中を押してくれたから」
「僕は何もしてないよ。美月の中にあった気持ちを、思い出させただけ」
その夜、ベッドで健一の胸に頭を預けながら、私は考えていた。
恋人代行の仕事は、もうほとんどしていなかった。健一との時間を優先したいし、他の男性と「恋人」を演じることに抵抗を感じるようになった。
「健一」
「なに?」
「私、もう恋人代行の仕事、やめようと思う」
健一の心臓の鼓動が一瞬速くなった。
「本当に?」
「うん。健一と付き合い始めてから、他の人と演技をするのが辛くなった」
「無理強いはしたくないけど、僕としては嬉しい」
「翻訳の勉強に専念したいし、健一との時間も大切にしたい」
健一は私の髪を優しく撫でた。
「美月の決断を応援する。何か困ったことがあったら、遠慮なく言って」
「ありがとう」
翌日、私は恋人代行の仕事を管理している会社に連絡した。
「佐藤さん、急にどうされました?」
マネージャーの声が驚いている。
「実は、恋人ができまして」
「恋人って、依頼者の方ですか?」
「はい」
電話の向こうで、ため息が聞こえた。
「佐藤さん、それは契約違反になりますよ」
「申し訳ありません」
「まあ、珍しいことではありませんが。で、どうされるんですか?」
「仕事を辞めさせていただきたいと思います」
「そうですか。佐藤さんは人気があったので残念ですが、幸せになってください」
電話を切った後、私は深く息をついた。三年間続けた仕事に、区切りをつけた。
午後、健一から電話がかかってきた。
「今日の夜、時間ある?」
「もちろん」
「実は、君に会わせたい人がいるんだ」
「会わせたい人?」
「僕の母親」
心臓が跳ねた。
「お母さまに?」
「うん。僕の恋人を紹介したいって、ずっと言われてて」
これは大きな一歩だった。恋人の家族に紹介されるということは、本格的な交際を意味する。
「でも、大丈夫でしょうか」
「心配しないで。母は優しい人だから」
その夜、健一と一緒に彼の実家を訪れた。閑静な住宅街にある、上品な一軒家だった。
「健一、お疲れさま」
玄関に出迎えてくれたのは、五十代後半の上品な女性だった。健一と同じような穏やかな目をしている。
「母さん、美月です」
「初めまして、佐藤美月と申します」
「まあ、本当に美しい方ね。健一がいつも嬉しそうに話している理由が分かったわ」
お母さんは温かい笑顔で迎えてくれた。
リビングで、手作りのケーキとお茶をいただきながら、様々な話をした。
「美月さんは翻訳のお仕事をされているんですって?」
「はい。まだ勉強中ですが」
「素敵ね。私も読書が好きなので、海外の小説を原文で読める方を尊敬します」
健一のお母さんは、本当に優しい人だった。息子のことを心から愛していることが伝わってくる。
「健一は昔から一人で何でもやってしまう子で、心配していたんです」
「そうなんですか」
「でも美月さんと出会ってから、表情が明るくなって。電話で話す時も、『美月が』『美月と一緒に』って、本当に楽しそうで」
健一が少し照れている。
「母さん、そんな話しなくても」
「いいじゃない。美月さんも知っておいた方がいいでしょう」
お母さんは私に向き直った。
「美月さん、健一のことをよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
帰り道、健一が運転しながら言った。
「母さん、君のことをすごく気に入ってた」
「本当ですか?」
「『上品で優しくて、健一にぴったりね』って」
「よかった」
「美月、今日はありがとう。君を家族に紹介できて、本当に嬉しい」
健一の言葉に、胸が温かくなった。
でもその夜、一人でマンションに戻ってから、ふと不安がよぎった。
健一のお母さんには、私が元恋人代行だったことは知られていない。もし知ったら、どう思うだろう。
そして、健一との関係が深まっていく一方で、まだ心の片隅に残っている六十日という期限。
最初の契約では、六十日後に「元恋人の結婚式」があるという話だった。その結婚式は、本当に開催されるのだろうか。
スマートフォンにメッセージが届いた。健一からだった。
『今日は母を紹介してくれてありがとう。君と一緒にいると、未来が明るく見える。愛してる』
「愛してる」
その言葉を読んで、涙がこぼれた。嬉しい涙だった。
私も返信を打った。
『こちらこそ、ありがとうございました。お母さま、とても素敵な方ですね。私も愛してます』
送信ボタンを押してから、私は思った。
もう過去のことは考えないでおこう。恋人代行だった経歴も、六十日の期限も、すべて忘れよう。
今は健一との未来だけを見つめていこう。
そう決心した時、心が軽やかになった。
愛している人がいて、愛されている。それ以上に大切なことがあるだろうか。
第6話 完
健一と正式に恋人になってから一週間が過ぎた。私たちの関係は、驚くほど自然だった。
平日の夜、健一が仕事から帰ってくるのを待つ時間が、私の一日の中で最も幸せな瞬間になっていた。彼のマンションで夕食を作り、「おかえりなさい」と言える喜び。これが普通の恋人同士の生活なのだと、改めて実感していた。
「ただいま」
健一がドアを開けて入ってきた。疲れた表情だったが、私を見つけると顔がほころんだ。
「おかえりなさい。お疲れさま」
「美月がいると、疲れも吹き飛ぶ」
健一は私を抱きしめて、額にキスをした。
「今日はハンバーグを作ったの」
「僕の好物だ。ありがとう」
キッチンで一緒に食事の準備をしながら、健一が今日の出来事を話してくれる。新しいプロジェクトのこと、後輩の成長ぶり、そして時々、私への想いも。
「美月といると、家に帰るのが楽しみになった」
「私も、健一の帰りを待つのが楽しみ」
こんな何気ない会話が、とても愛しかった。
食事をしながら、私も翻訳の勉強について報告した。
「今日、短編小説を一つ翻訳してみたの」
「どうだった?」
「難しかったけど、楽しかった。やっぱり私、この仕事が好きなんだと実感した」
健一は嬉しそうに微笑んだ。
「美月が輝いて見える。夢に向かって頑張ってる姿、本当に素敵だ」
「健一が背中を押してくれたから」
「僕は何もしてないよ。美月の中にあった気持ちを、思い出させただけ」
その夜、ベッドで健一の胸に頭を預けながら、私は考えていた。
恋人代行の仕事は、もうほとんどしていなかった。健一との時間を優先したいし、他の男性と「恋人」を演じることに抵抗を感じるようになった。
「健一」
「なに?」
「私、もう恋人代行の仕事、やめようと思う」
健一の心臓の鼓動が一瞬速くなった。
「本当に?」
「うん。健一と付き合い始めてから、他の人と演技をするのが辛くなった」
「無理強いはしたくないけど、僕としては嬉しい」
「翻訳の勉強に専念したいし、健一との時間も大切にしたい」
健一は私の髪を優しく撫でた。
「美月の決断を応援する。何か困ったことがあったら、遠慮なく言って」
「ありがとう」
翌日、私は恋人代行の仕事を管理している会社に連絡した。
「佐藤さん、急にどうされました?」
マネージャーの声が驚いている。
「実は、恋人ができまして」
「恋人って、依頼者の方ですか?」
「はい」
電話の向こうで、ため息が聞こえた。
「佐藤さん、それは契約違反になりますよ」
「申し訳ありません」
「まあ、珍しいことではありませんが。で、どうされるんですか?」
「仕事を辞めさせていただきたいと思います」
「そうですか。佐藤さんは人気があったので残念ですが、幸せになってください」
電話を切った後、私は深く息をついた。三年間続けた仕事に、区切りをつけた。
午後、健一から電話がかかってきた。
「今日の夜、時間ある?」
「もちろん」
「実は、君に会わせたい人がいるんだ」
「会わせたい人?」
「僕の母親」
心臓が跳ねた。
「お母さまに?」
「うん。僕の恋人を紹介したいって、ずっと言われてて」
これは大きな一歩だった。恋人の家族に紹介されるということは、本格的な交際を意味する。
「でも、大丈夫でしょうか」
「心配しないで。母は優しい人だから」
その夜、健一と一緒に彼の実家を訪れた。閑静な住宅街にある、上品な一軒家だった。
「健一、お疲れさま」
玄関に出迎えてくれたのは、五十代後半の上品な女性だった。健一と同じような穏やかな目をしている。
「母さん、美月です」
「初めまして、佐藤美月と申します」
「まあ、本当に美しい方ね。健一がいつも嬉しそうに話している理由が分かったわ」
お母さんは温かい笑顔で迎えてくれた。
リビングで、手作りのケーキとお茶をいただきながら、様々な話をした。
「美月さんは翻訳のお仕事をされているんですって?」
「はい。まだ勉強中ですが」
「素敵ね。私も読書が好きなので、海外の小説を原文で読める方を尊敬します」
健一のお母さんは、本当に優しい人だった。息子のことを心から愛していることが伝わってくる。
「健一は昔から一人で何でもやってしまう子で、心配していたんです」
「そうなんですか」
「でも美月さんと出会ってから、表情が明るくなって。電話で話す時も、『美月が』『美月と一緒に』って、本当に楽しそうで」
健一が少し照れている。
「母さん、そんな話しなくても」
「いいじゃない。美月さんも知っておいた方がいいでしょう」
お母さんは私に向き直った。
「美月さん、健一のことをよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
帰り道、健一が運転しながら言った。
「母さん、君のことをすごく気に入ってた」
「本当ですか?」
「『上品で優しくて、健一にぴったりね』って」
「よかった」
「美月、今日はありがとう。君を家族に紹介できて、本当に嬉しい」
健一の言葉に、胸が温かくなった。
でもその夜、一人でマンションに戻ってから、ふと不安がよぎった。
健一のお母さんには、私が元恋人代行だったことは知られていない。もし知ったら、どう思うだろう。
そして、健一との関係が深まっていく一方で、まだ心の片隅に残っている六十日という期限。
最初の契約では、六十日後に「元恋人の結婚式」があるという話だった。その結婚式は、本当に開催されるのだろうか。
スマートフォンにメッセージが届いた。健一からだった。
『今日は母を紹介してくれてありがとう。君と一緒にいると、未来が明るく見える。愛してる』
「愛してる」
その言葉を読んで、涙がこぼれた。嬉しい涙だった。
私も返信を打った。
『こちらこそ、ありがとうございました。お母さま、とても素敵な方ですね。私も愛してます』
送信ボタンを押してから、私は思った。
もう過去のことは考えないでおこう。恋人代行だった経歴も、六十日の期限も、すべて忘れよう。
今は健一との未来だけを見つめていこう。
そう決心した時、心が軽やかになった。
愛している人がいて、愛されている。それ以上に大切なことがあるだろうか。
第6話 完
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