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第7話「影の部分」
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第7話「影の部分」
健一との関係が順調に進む中、思わぬところから過去が顔を出した。
平日の昼間、私が図書館で翻訳の勉強をしていると、見覚えのある男性が近づいてきた。
「美月さん?」
振り返ると、以前の依頼者の一人、田中だった。三十代半ばの商社マン。半年ほど前に、二ヶ月間恋人代行を利用していた。
「田中さん」
私は慌てて荷物をまとめようとした。
「お久しぶりです。元気にしてました?」
「はい、おかげさまで」
「実は、また依頼したいことがあって連絡したんですが、繋がらなくて」
そうだった。恋人代行の仕事をやめる時、連絡先も変更していた。
「申し訳ありません。実は、もうその仕事はやめまして」
田中の表情が変わった。
「やめた?どうしてですか?」
「個人的な事情で」
「まさか、結婚でもするんですか?」
その質問に、私は答えられなかった。
「そうですか。残念だな」田中は諦めたような表情を見せた。「美月さんは最高の恋人でした。本当に、本物みたいで」
「ありがとうございます」
「新しい恋人さんは幸せですね。美月さんみたいな素敵な人と付き合えて」
田中が去った後、私は動揺していた。過去の依頼者に会うのは初めてだった。
そして田中の言葉「本物みたいで」が、心に刺さった。私が演じていた恋人は、彼にとって本物に感じられたのだろうか。でも結局は演技だった。
今の健一との関係は本物だ。でも、最初は演技から始まった。その事実は変わらない。
夕方、健一から連絡があった。
『今夜は僕の部屋で夕食をしない?』
『はい』
健一のマンションに向かう電車の中で、私は今日の出来事を話すべきか迷っていた。
健一は、私の過去について詳しく聞いてこない。恋人代行の仕事については、「もうやめた」ということしか知らない。具体的にどんなことをしていたかは話していなかった。
「お疲れさま」
健一が笑顔で迎えてくれた。
「お疲れさま」
キッチンで料理をしながら、健一が今日の出来事を話してくれた。新しいプロジェクトが軌道に乗ったこと、後輩が成果を出したこと。
「美月はどんな一日だった?」
「図書館で翻訳の勉強をしてました」
それ以上は言えなかった。
夕食後、ソファーで健一の隣に座りながら、私は考えていた。隠し事をしている自分が嫌だった。
「健一」
「なに?」
「私のこと、どこまで知りたいですか?」
健一は少し驚いたような表情を見せた。
「どこまでって?」
「過去のこととか、恋人代行の仕事でしてたこととか」
健一は私の手を取った。
「美月が話したいと思った時に、話してくれればいい。僕は君の過去を裁いたりしない」
「でも、知ったら嫌いになるかもしれません」
「そんなことはない」健一は真剣な表情で言った。「僕は今の美月を愛してる。過去がどうであれ、それは変わらない」
その優しさが、余計に胸に痛かった。
「実は今日、以前の依頼者に会ってしまって」
「そうか」
「それで、改めて思ったんです。私、これまでたくさんの男性と恋人の演技をしてきました」
健一は黙って聞いてくれていた。
「手を繋いで、キスをして、時には一緒に夜を過ごすこともありました」
その告白に、健一の表情が少し曇った。
「全部、仕事として。でも相手の男性にとっては、本物の恋人だったかもしれません」
「美月...」
「健一と出会う前の私は、そんな女性でした。それでも受け入れてくれますか?」
健一は長い間、私を見つめていた。
「美月、正直に言うと、嫉妬する気持ちもある」
私の心臓が止まりそうになった。
「でも同時に、君がそうしなければならなかった事情も理解したい」
「事情って?」
「生活のためだったんでしょう?夢を追いかけるための資金を稼ぐためだったんでしょう?」
私は頷いた。
「だったら、僕に責める権利はない」健一は私を抱きしめた。「むしろ、そんな大変な状況の中で、夢を諦めなかった君を尊敬する」
涙がこぼれた。
「ありがとう、健一」
「ただし」健一は私の顔を上げさせた。「一つだけ約束してほしい」
「何ですか?」
「もし過去のことで苦しくなったら、一人で抱え込まないで。僕に話して」
「約束します」
その夜、健一の腕の中で眠りながら、私は安心感に包まれていた。過去を受け入れてくれる人がいる。それがどんなに幸せなことか。
でも翌朝、一人でマンションに戻る時、また不安が襲ってきた。
健一は優しく受け入れてくれた。でも、彼の家族や友人たちはどうだろう。もし私の過去が知られたら、健一にも迷惑をかけることになる。
そして何より、最初の契約のことは、まだ話していない。六十日間限定の契約から始まった関係だということ。元恋人の結婚式という設定のこと。
それらを全て話したら、健一はどう思うだろう。
スマートフォンが鳴った。健一からのメッセージだった。
『昨夜は大切な話をしてくれてありがとう。君の過去も含めて、すべてが今の美月を作ってる。僕は君のすべてを愛してる』
そのメッセージを読んで、また涙が出た。
健一は本当に優しい人だ。だからこそ、これ以上嘘をつきたくない。
でも真実を話すのは、まだ怖い。
私は返信を打った。
『ありがとう。健一がいてくれて本当によかった』
送信した後、私は決心した。
今度の週末に、すべてを話そう。六十日の契約のこと、最初の設定のこと、すべてを。
それで健一が離れていくなら、仕方がない。でも真実を隠したまま関係を続けるのは、お互いにとって良くない。
あと三日。
三日後に、私たちの関係は大きな転換点を迎える。
第7話 完
健一との関係が順調に進む中、思わぬところから過去が顔を出した。
平日の昼間、私が図書館で翻訳の勉強をしていると、見覚えのある男性が近づいてきた。
「美月さん?」
振り返ると、以前の依頼者の一人、田中だった。三十代半ばの商社マン。半年ほど前に、二ヶ月間恋人代行を利用していた。
「田中さん」
私は慌てて荷物をまとめようとした。
「お久しぶりです。元気にしてました?」
「はい、おかげさまで」
「実は、また依頼したいことがあって連絡したんですが、繋がらなくて」
そうだった。恋人代行の仕事をやめる時、連絡先も変更していた。
「申し訳ありません。実は、もうその仕事はやめまして」
田中の表情が変わった。
「やめた?どうしてですか?」
「個人的な事情で」
「まさか、結婚でもするんですか?」
その質問に、私は答えられなかった。
「そうですか。残念だな」田中は諦めたような表情を見せた。「美月さんは最高の恋人でした。本当に、本物みたいで」
「ありがとうございます」
「新しい恋人さんは幸せですね。美月さんみたいな素敵な人と付き合えて」
田中が去った後、私は動揺していた。過去の依頼者に会うのは初めてだった。
そして田中の言葉「本物みたいで」が、心に刺さった。私が演じていた恋人は、彼にとって本物に感じられたのだろうか。でも結局は演技だった。
今の健一との関係は本物だ。でも、最初は演技から始まった。その事実は変わらない。
夕方、健一から連絡があった。
『今夜は僕の部屋で夕食をしない?』
『はい』
健一のマンションに向かう電車の中で、私は今日の出来事を話すべきか迷っていた。
健一は、私の過去について詳しく聞いてこない。恋人代行の仕事については、「もうやめた」ということしか知らない。具体的にどんなことをしていたかは話していなかった。
「お疲れさま」
健一が笑顔で迎えてくれた。
「お疲れさま」
キッチンで料理をしながら、健一が今日の出来事を話してくれた。新しいプロジェクトが軌道に乗ったこと、後輩が成果を出したこと。
「美月はどんな一日だった?」
「図書館で翻訳の勉強をしてました」
それ以上は言えなかった。
夕食後、ソファーで健一の隣に座りながら、私は考えていた。隠し事をしている自分が嫌だった。
「健一」
「なに?」
「私のこと、どこまで知りたいですか?」
健一は少し驚いたような表情を見せた。
「どこまでって?」
「過去のこととか、恋人代行の仕事でしてたこととか」
健一は私の手を取った。
「美月が話したいと思った時に、話してくれればいい。僕は君の過去を裁いたりしない」
「でも、知ったら嫌いになるかもしれません」
「そんなことはない」健一は真剣な表情で言った。「僕は今の美月を愛してる。過去がどうであれ、それは変わらない」
その優しさが、余計に胸に痛かった。
「実は今日、以前の依頼者に会ってしまって」
「そうか」
「それで、改めて思ったんです。私、これまでたくさんの男性と恋人の演技をしてきました」
健一は黙って聞いてくれていた。
「手を繋いで、キスをして、時には一緒に夜を過ごすこともありました」
その告白に、健一の表情が少し曇った。
「全部、仕事として。でも相手の男性にとっては、本物の恋人だったかもしれません」
「美月...」
「健一と出会う前の私は、そんな女性でした。それでも受け入れてくれますか?」
健一は長い間、私を見つめていた。
「美月、正直に言うと、嫉妬する気持ちもある」
私の心臓が止まりそうになった。
「でも同時に、君がそうしなければならなかった事情も理解したい」
「事情って?」
「生活のためだったんでしょう?夢を追いかけるための資金を稼ぐためだったんでしょう?」
私は頷いた。
「だったら、僕に責める権利はない」健一は私を抱きしめた。「むしろ、そんな大変な状況の中で、夢を諦めなかった君を尊敬する」
涙がこぼれた。
「ありがとう、健一」
「ただし」健一は私の顔を上げさせた。「一つだけ約束してほしい」
「何ですか?」
「もし過去のことで苦しくなったら、一人で抱え込まないで。僕に話して」
「約束します」
その夜、健一の腕の中で眠りながら、私は安心感に包まれていた。過去を受け入れてくれる人がいる。それがどんなに幸せなことか。
でも翌朝、一人でマンションに戻る時、また不安が襲ってきた。
健一は優しく受け入れてくれた。でも、彼の家族や友人たちはどうだろう。もし私の過去が知られたら、健一にも迷惑をかけることになる。
そして何より、最初の契約のことは、まだ話していない。六十日間限定の契約から始まった関係だということ。元恋人の結婚式という設定のこと。
それらを全て話したら、健一はどう思うだろう。
スマートフォンが鳴った。健一からのメッセージだった。
『昨夜は大切な話をしてくれてありがとう。君の過去も含めて、すべてが今の美月を作ってる。僕は君のすべてを愛してる』
そのメッセージを読んで、また涙が出た。
健一は本当に優しい人だ。だからこそ、これ以上嘘をつきたくない。
でも真実を話すのは、まだ怖い。
私は返信を打った。
『ありがとう。健一がいてくれて本当によかった』
送信した後、私は決心した。
今度の週末に、すべてを話そう。六十日の契約のこと、最初の設定のこと、すべてを。
それで健一が離れていくなら、仕方がない。でも真実を隠したまま関係を続けるのは、お互いにとって良くない。
あと三日。
三日後に、私たちの関係は大きな転換点を迎える。
第7話 完
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