【完結】指先が触れる距離

山田森湖

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第1話 隣の席

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第1話 隣の席

月曜日の朝、オフィスにはいつもの穏やかな時間が流れている。

私は自分のデスクに座り、パソコンの電源を入れながら、隣の席に目をやった。まだ空っぽの椅子と、きちんと整理された机。彼女――田中美咲はいつも私より十分ほど遅く出社する。

コーヒーメーカーから立ち上る湯気の音、キーボードを叩く乾いた音、電話の呼び出し音。いつもの朝の交響曲が始まっている。私はメールをチェックしながら、無意識に時計を見た。八時五十分。あと十分で彼女がやってくる。

なぜこんなに彼女の出社時間を覚えているのか、自分でもよくわからない。ただ、隣の席が空いていると、なんとなく落ち着かないのだ。

「おはようございます」

聞き慣れた声に、私は顔を上げた。美咲が小さく会釈しながら、隣の席に向かってくる。紺色のブラウスに黒いスカート。いつものように控えめで上品な装いだ。

「おはようございます」

私も軽く会釈を返す。彼女は椅子に座り、バッグから手帳や筆記用具を取り出し始めた。その仕草一つ一つが丁寧で、見ていて心地よい。

美咲との隣の席になってから、もう半年が経つ。転勤してきた彼女が配属されたとき、上司に「新しい田中さんの隣でよろしく頼む」と言われたのが最初だった。

最初は単なる同僚として、必要最小限の会話をするだけだった。「この書類、どちらに提出すればいいですか」「コピー機の調子が悪いみたいですね」そんな当たり障りのない言葉の交換。

でも気がつくと、私は彼女の小さな変化に敏感になっていた。いつもより早く出社した日は疲れているのかもしれない、新しいペンを使い始めたら前のが壊れたのかな、髪型を少し変えたのは美容院に行ったからだろうか。

そんなことを考えながら仕事をしている自分に、時々戸惑う。

「佐藤さん」

美咲の声に、私は現実に引き戻された。

「はい」

「こちらの資料、確認していただけますか」

彼女が差し出したファイルを受け取る時、一瞬だけ指先が触れた。ほんの一瞬の、偶然の接触。でもその瞬間、なぜか心臓の鼓動が早くなる。

「ありがとうございます。午後までに見ておきます」

私は努めて普通に答えた。美咲は「よろしくお願いします」と言って、自分の作業に戻る。

隣の席。手を伸ばせば届く距離。パーテーションで仕切られているわけでもなく、お互いの気配を常に感じられる位置。

でも、この近さがかえって遠さを際立たせることがある。

昼休み、美咲は同期の女性たちとランチに出かけていく。私は一人でコンビニ弁当を食べながら、窓の外を眺める。空は少し曇っているが、雨は降らなそうだ。

午後になると、隣から小さなため息が聞こえてきた。美咲が困っているような表情で、パソコンの画面を見つめている。

「何か問題でもありましたか」

私は思わず声をかけた。

「あ、すみません。エクセルの関数がうまく動かなくて...」

「よろしければ、見せていただけますか」

私は椅子を少し彼女の方に寄せた。モニターを覗き込むと、彼女の髪からかすかに香るシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。

「ここの式が間違っているみたいですね。こう直せば...」

私はマウスを動かして修正を加えた。指先がキーボードに触れる音が、やけに大きく聞こえる。

「あ、動きました!ありがとうございます」

美咲の顔がパッと明るくなった。その笑顔を見ていると、なんだか胸の奥が温かくなる。

「いえいえ、こんなことで」

私は照れ隠しに軽く手を振った。

夕方、定時の六時が近づいてくると、オフィスは帰り支度をする人たちで慌ただしくなる。美咲もファイルを片付け始めた。

「お疲れさまでした」

彼女は立ち上がりながら、私に声をかけた。

「お疲れさまでした。気をつけてお帰りください」

「佐藤さんも、お疲れさまでした」

美咲はそう言って、小さく頭を下げてから歩いていく。エレベーターホールに向かう後ろ姿を、私は最後まで見送った。

一人になったオフィスで、私は隣の空っぽになった席を眺める。整理整頓された机の上、きちんと並べられた文房具、そして小さな観葉植物。彼女らしい、控えめで丁寧な空間。

指先が触れる距離。

ふと、昼間の出来事を思い出す。資料を受け渡す時の、一瞬の接触。エクセルを教える時の、彼女の髪の匂い。

こんなに近くにいるのに、まだ彼女のことを何も知らない。好きな食べ物、趣味、休日の過ごし方、家族のこと。聞きたいことはたくさんあるのに、なかなか踏み込めない。

でも今日、少しだけ距離が縮まったような気がする。

私は残業の資料を広げながら、明日の朝を待ち遠しく思った。また彼女の「おはようございます」が聞けるのを、楽しみにしながら。

窓の外では、夕日がオフィスビルの向こうに沈んでいく。長い影が床に伸びて、一日の終わりを告げていた。
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