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第2話 雨の日
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第2話 雨の日
火曜日の朝は、予報通り雨だった。
私は傘をオフィスの傘立てに立てかけながら、濡れた靴音を響かせてデスクに向かう。いつもより早い時間だったが、すでに何人かの同僚が出社していた。雨の日は電車が遅れがちだから、早めに家を出る人が多い。
隣の席はまだ空いている。美咲も早めに出社するかもしれないと思いながら、私はパソコンを立ち上げた。
八時四十五分。いつもより十五分早い時刻に、美咲がやってきた。
「おはようございます」
いつもの挨拶だが、今日は少し息が上がっている。髪も少し湿っているようだ。
「おはようございます。雨、ひどいですか?」
「ええ、風も強くて...傘をさしていても濡れてしまって」
美咲は困ったような笑顔を浮かべながら、バッグから小さなタオルを取り出した。髪の先についた雫を拭いている姿を見て、私は思わず声をかけた。
「ハンカチ、貸しましょうか」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
彼女は慌てたように手を振った。その時、タオルを取り落としてしまう。床に落ちたタオルを拾おうと、私たちは同時に屈んだ。
そして、また指先が触れた。
昨日よりも少し長い時間。お互いに同じタオルに手を伸ばして、偶然重なった指先。今度は私だけでなく、美咲も少し驚いたような表情を見せた。
「す、すみません」
美咲が先に手を引っ込める。私はタオルを拾い上げて、彼女に渡した。
「いえ、こちらこそ」
何に対して謝っているのかよくわからないが、なんとなく謝っている私たち。その状況が可笑しくて、美咲が小さく笑った。
その笑顔が、昨日よりもずっと近くに感じられた。
午前中は忙しく、二人とも黙々と作業に集中していた。雨音が窓を叩く音が、オフィス全体にざわめきを与えている。
十時過ぎに、内線電話が鳴った。私が受話器を取ると、営業部の山田さんからだった。
「佐藤さん、例の企画書の件なんですが、田中さんはいらっしゃいますか?」
「はい、隣におります。代わりましょうか?」
私は美咲に目配せした。彼女は「はい」と小さくうなずいて、受話器を受け取る。
「田中です...はい...そうですね、確認いたします...」
電話をしている美咲の横顔を、私はちらりと盗み見た。真剣な表情で相手の話を聞いている。時折メモを取りながら、丁寧に相づちを打っている。
仕事に対する真面目な姿勢が、彼女の魅力の一つだと思う。
「ありがとうございました」
電話を切った美咲が、困ったような顔でこちらを向いた。
「どうかしましたか?」
「企画書の修正が必要になって...でも、元のデータがどこにあったか思い出せなくて」
「先週のプロジェクトフォルダの中にありますよ。一緒に探しましょうか」
私は自分の椅子を美咲のデスクの方に寄せた。昨日と同じように、彼女のパソコンの画面を覗き込む。
「ここにあります」
フォルダを開きながら、私は美咲に説明した。彼女は熱心にメモを取っている。その集中している様子を見ていると、なんだか微笑ましくて、つい顔がほころんでしまう。
「どうかしましたか?」
美咲が顔を上げて、私を見た。近い距離で見つめられて、私は慌てて視線を逸らした。
「いえ、なんでもありません」
嘘だった。彼女の一生懸命な姿が愛おしくて、思わず見惚れていたのだ。
昼休み、雨は相変わらず降り続いていた。美咲はいつものように同期の女性たちとランチに出かける予定だったが、今日は雨のせいで外に出るのをためらっているようだった。
「雨、すごいですね」
美咲が窓の外を見ながらつぶやいた。
「お弁当、持ってきてないんですか?」
「いえ、いつも外で食べているので...でも今日は無理そうですね」
私は少し迷ったが、勇気を出して声をかけた。
「よろしければ、一階のレストランはどうですか。雨に濡れずに行けますよ」
美咲は少し驚いたような顔をした。そして、ほんの少し考えてから答えた。
「お一人で食べる予定だったんですよね?迷惑じゃないですか?」
「全然迷惑じゃありません。むしろ、一人だと寂しいので」
私は正直に答えた。美咲は小さく笑顔を見せた。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
エレベーターで一階に降りる間、私たちはほとんど話さなかった。でも、気まずい沈黙ではない。なんとなく心地よい静けさだった。
レストランは平日のランチタイムで混雑していたが、窓際の小さなテーブルを見つけることができた。外では雨が激しく降っている。
「すごい雨ですね」
美咲がメニューを見ながら言った。
「こういう日は、家で読書でもしていたいですね」
「読書がお好きなんですか?」
私は思わず身を乗り出した。彼女の趣味について初めて知ることができそうだった。
「ええ、特に小説が好きで。最近は恋愛小説をよく読んでいます」
「どんな作家さんの?」
「有川浩さんや、住野よるさんとか...日常の中にある小さな恋を描いた作品が好きなんです」
彼女の話す内容に、私は興味深く耳を傾けた。読書という共通の話題を見つけて、会話が自然に弾んでいく。
「佐藤さんは?」
「僕も本は読みますが、どちらかというとビジネス書が多いですね。でも、たまに小説も読みます」
「今度、面白い本があったら教えてください」
「こちらこそ、ぜひ」
食事を終えて、オフィスに戻る頃には、雨は少し弱くなっていた。エレベーターの中で、美咲が小さく言った。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
「僕も楽しかったです。また機会があれば」
「はい」
短い会話だったが、その「はい」という返事の中に、少しの嬉しさが込められているような気がした。
午後の仕事中、私は時々美咲の方を盗み見た。彼女も時々、こちらを見ているような気がする。でも、目が合うとお互いにすぐに視線を逸らしてしまう。
夕方、雨はすっかり上がっていた。帰り際、美咲が立ち上がりながら言った。
「今日はお疲れさまでした。そして、ランチもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。また雨の日があれば」
「その時は、またお願いします」
彼女はそう言って、いつもより少し長めに私の方を見てから、エレベーターホールに向かった。
一人になったオフィスで、私は今日一日を振り返った。朝のタオルの件、昼のランチ、そして読書の話。少しずつだが、確実に彼女との距離が縮まっているような気がする。
外は雨上がりの夕暮れ。濡れたアスファルトが夕日を反射して、美しく光っている。
指先が触れる距離は、まだ変わらない。でも、心の距離は少しずつ近づいているのかもしれない。
そう思いながら、私は残業の準備を始めた。明日もまた、彼女との小さな時間を楽しみにしながら。
火曜日の朝は、予報通り雨だった。
私は傘をオフィスの傘立てに立てかけながら、濡れた靴音を響かせてデスクに向かう。いつもより早い時間だったが、すでに何人かの同僚が出社していた。雨の日は電車が遅れがちだから、早めに家を出る人が多い。
隣の席はまだ空いている。美咲も早めに出社するかもしれないと思いながら、私はパソコンを立ち上げた。
八時四十五分。いつもより十五分早い時刻に、美咲がやってきた。
「おはようございます」
いつもの挨拶だが、今日は少し息が上がっている。髪も少し湿っているようだ。
「おはようございます。雨、ひどいですか?」
「ええ、風も強くて...傘をさしていても濡れてしまって」
美咲は困ったような笑顔を浮かべながら、バッグから小さなタオルを取り出した。髪の先についた雫を拭いている姿を見て、私は思わず声をかけた。
「ハンカチ、貸しましょうか」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
彼女は慌てたように手を振った。その時、タオルを取り落としてしまう。床に落ちたタオルを拾おうと、私たちは同時に屈んだ。
そして、また指先が触れた。
昨日よりも少し長い時間。お互いに同じタオルに手を伸ばして、偶然重なった指先。今度は私だけでなく、美咲も少し驚いたような表情を見せた。
「す、すみません」
美咲が先に手を引っ込める。私はタオルを拾い上げて、彼女に渡した。
「いえ、こちらこそ」
何に対して謝っているのかよくわからないが、なんとなく謝っている私たち。その状況が可笑しくて、美咲が小さく笑った。
その笑顔が、昨日よりもずっと近くに感じられた。
午前中は忙しく、二人とも黙々と作業に集中していた。雨音が窓を叩く音が、オフィス全体にざわめきを与えている。
十時過ぎに、内線電話が鳴った。私が受話器を取ると、営業部の山田さんからだった。
「佐藤さん、例の企画書の件なんですが、田中さんはいらっしゃいますか?」
「はい、隣におります。代わりましょうか?」
私は美咲に目配せした。彼女は「はい」と小さくうなずいて、受話器を受け取る。
「田中です...はい...そうですね、確認いたします...」
電話をしている美咲の横顔を、私はちらりと盗み見た。真剣な表情で相手の話を聞いている。時折メモを取りながら、丁寧に相づちを打っている。
仕事に対する真面目な姿勢が、彼女の魅力の一つだと思う。
「ありがとうございました」
電話を切った美咲が、困ったような顔でこちらを向いた。
「どうかしましたか?」
「企画書の修正が必要になって...でも、元のデータがどこにあったか思い出せなくて」
「先週のプロジェクトフォルダの中にありますよ。一緒に探しましょうか」
私は自分の椅子を美咲のデスクの方に寄せた。昨日と同じように、彼女のパソコンの画面を覗き込む。
「ここにあります」
フォルダを開きながら、私は美咲に説明した。彼女は熱心にメモを取っている。その集中している様子を見ていると、なんだか微笑ましくて、つい顔がほころんでしまう。
「どうかしましたか?」
美咲が顔を上げて、私を見た。近い距離で見つめられて、私は慌てて視線を逸らした。
「いえ、なんでもありません」
嘘だった。彼女の一生懸命な姿が愛おしくて、思わず見惚れていたのだ。
昼休み、雨は相変わらず降り続いていた。美咲はいつものように同期の女性たちとランチに出かける予定だったが、今日は雨のせいで外に出るのをためらっているようだった。
「雨、すごいですね」
美咲が窓の外を見ながらつぶやいた。
「お弁当、持ってきてないんですか?」
「いえ、いつも外で食べているので...でも今日は無理そうですね」
私は少し迷ったが、勇気を出して声をかけた。
「よろしければ、一階のレストランはどうですか。雨に濡れずに行けますよ」
美咲は少し驚いたような顔をした。そして、ほんの少し考えてから答えた。
「お一人で食べる予定だったんですよね?迷惑じゃないですか?」
「全然迷惑じゃありません。むしろ、一人だと寂しいので」
私は正直に答えた。美咲は小さく笑顔を見せた。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
エレベーターで一階に降りる間、私たちはほとんど話さなかった。でも、気まずい沈黙ではない。なんとなく心地よい静けさだった。
レストランは平日のランチタイムで混雑していたが、窓際の小さなテーブルを見つけることができた。外では雨が激しく降っている。
「すごい雨ですね」
美咲がメニューを見ながら言った。
「こういう日は、家で読書でもしていたいですね」
「読書がお好きなんですか?」
私は思わず身を乗り出した。彼女の趣味について初めて知ることができそうだった。
「ええ、特に小説が好きで。最近は恋愛小説をよく読んでいます」
「どんな作家さんの?」
「有川浩さんや、住野よるさんとか...日常の中にある小さな恋を描いた作品が好きなんです」
彼女の話す内容に、私は興味深く耳を傾けた。読書という共通の話題を見つけて、会話が自然に弾んでいく。
「佐藤さんは?」
「僕も本は読みますが、どちらかというとビジネス書が多いですね。でも、たまに小説も読みます」
「今度、面白い本があったら教えてください」
「こちらこそ、ぜひ」
食事を終えて、オフィスに戻る頃には、雨は少し弱くなっていた。エレベーターの中で、美咲が小さく言った。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
「僕も楽しかったです。また機会があれば」
「はい」
短い会話だったが、その「はい」という返事の中に、少しの嬉しさが込められているような気がした。
午後の仕事中、私は時々美咲の方を盗み見た。彼女も時々、こちらを見ているような気がする。でも、目が合うとお互いにすぐに視線を逸らしてしまう。
夕方、雨はすっかり上がっていた。帰り際、美咲が立ち上がりながら言った。
「今日はお疲れさまでした。そして、ランチもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。また雨の日があれば」
「その時は、またお願いします」
彼女はそう言って、いつもより少し長めに私の方を見てから、エレベーターホールに向かった。
一人になったオフィスで、私は今日一日を振り返った。朝のタオルの件、昼のランチ、そして読書の話。少しずつだが、確実に彼女との距離が縮まっているような気がする。
外は雨上がりの夕暮れ。濡れたアスファルトが夕日を反射して、美しく光っている。
指先が触れる距離は、まだ変わらない。でも、心の距離は少しずつ近づいているのかもしれない。
そう思いながら、私は残業の準備を始めた。明日もまた、彼女との小さな時間を楽しみにしながら。
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