【完結】指先が触れる距離

山田森湖

文字の大きさ
1 / 50

第1話 隣の席

しおりを挟む
第1話 隣の席

月曜日の朝、オフィスにはいつもの穏やかな時間が流れている。

私は自分のデスクに座り、パソコンの電源を入れながら、隣の席に目をやった。まだ空っぽの椅子と、きちんと整理された机。彼女――田中美咲はいつも私より十分ほど遅く出社する。

コーヒーメーカーから立ち上る湯気の音、キーボードを叩く乾いた音、電話の呼び出し音。いつもの朝の交響曲が始まっている。私はメールをチェックしながら、無意識に時計を見た。八時五十分。あと十分で彼女がやってくる。

なぜこんなに彼女の出社時間を覚えているのか、自分でもよくわからない。ただ、隣の席が空いていると、なんとなく落ち着かないのだ。

「おはようございます」

聞き慣れた声に、私は顔を上げた。美咲が小さく会釈しながら、隣の席に向かってくる。紺色のブラウスに黒いスカート。いつものように控えめで上品な装いだ。

「おはようございます」

私も軽く会釈を返す。彼女は椅子に座り、バッグから手帳や筆記用具を取り出し始めた。その仕草一つ一つが丁寧で、見ていて心地よい。

美咲との隣の席になってから、もう半年が経つ。転勤してきた彼女が配属されたとき、上司に「新しい田中さんの隣でよろしく頼む」と言われたのが最初だった。

最初は単なる同僚として、必要最小限の会話をするだけだった。「この書類、どちらに提出すればいいですか」「コピー機の調子が悪いみたいですね」そんな当たり障りのない言葉の交換。

でも気がつくと、私は彼女の小さな変化に敏感になっていた。いつもより早く出社した日は疲れているのかもしれない、新しいペンを使い始めたら前のが壊れたのかな、髪型を少し変えたのは美容院に行ったからだろうか。

そんなことを考えながら仕事をしている自分に、時々戸惑う。

「佐藤さん」

美咲の声に、私は現実に引き戻された。

「はい」

「こちらの資料、確認していただけますか」

彼女が差し出したファイルを受け取る時、一瞬だけ指先が触れた。ほんの一瞬の、偶然の接触。でもその瞬間、なぜか心臓の鼓動が早くなる。

「ありがとうございます。午後までに見ておきます」

私は努めて普通に答えた。美咲は「よろしくお願いします」と言って、自分の作業に戻る。

隣の席。手を伸ばせば届く距離。パーテーションで仕切られているわけでもなく、お互いの気配を常に感じられる位置。

でも、この近さがかえって遠さを際立たせることがある。

昼休み、美咲は同期の女性たちとランチに出かけていく。私は一人でコンビニ弁当を食べながら、窓の外を眺める。空は少し曇っているが、雨は降らなそうだ。

午後になると、隣から小さなため息が聞こえてきた。美咲が困っているような表情で、パソコンの画面を見つめている。

「何か問題でもありましたか」

私は思わず声をかけた。

「あ、すみません。エクセルの関数がうまく動かなくて...」

「よろしければ、見せていただけますか」

私は椅子を少し彼女の方に寄せた。モニターを覗き込むと、彼女の髪からかすかに香るシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。

「ここの式が間違っているみたいですね。こう直せば...」

私はマウスを動かして修正を加えた。指先がキーボードに触れる音が、やけに大きく聞こえる。

「あ、動きました!ありがとうございます」

美咲の顔がパッと明るくなった。その笑顔を見ていると、なんだか胸の奥が温かくなる。

「いえいえ、こんなことで」

私は照れ隠しに軽く手を振った。

夕方、定時の六時が近づいてくると、オフィスは帰り支度をする人たちで慌ただしくなる。美咲もファイルを片付け始めた。

「お疲れさまでした」

彼女は立ち上がりながら、私に声をかけた。

「お疲れさまでした。気をつけてお帰りください」

「佐藤さんも、お疲れさまでした」

美咲はそう言って、小さく頭を下げてから歩いていく。エレベーターホールに向かう後ろ姿を、私は最後まで見送った。

一人になったオフィスで、私は隣の空っぽになった席を眺める。整理整頓された机の上、きちんと並べられた文房具、そして小さな観葉植物。彼女らしい、控えめで丁寧な空間。

指先が触れる距離。

ふと、昼間の出来事を思い出す。資料を受け渡す時の、一瞬の接触。エクセルを教える時の、彼女の髪の匂い。

こんなに近くにいるのに、まだ彼女のことを何も知らない。好きな食べ物、趣味、休日の過ごし方、家族のこと。聞きたいことはたくさんあるのに、なかなか踏み込めない。

でも今日、少しだけ距離が縮まったような気がする。

私は残業の資料を広げながら、明日の朝を待ち遠しく思った。また彼女の「おはようございます」が聞けるのを、楽しみにしながら。

窓の外では、夕日がオフィスビルの向こうに沈んでいく。長い影が床に伸びて、一日の終わりを告げていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夜の帝王の一途な愛

ラヴ KAZU
恋愛
彼氏ナシ・子供ナシ・仕事ナシ……、ないない尽くしで人生に焦りを感じているアラフォー女性の前に、ある日突然、白馬の王子様が現れた! ピュアな主人公が待ちに待った〝白馬の王子様"の正体は、若くしてホストクラブを経営するカリスマNO.1ホスト。「俺と一緒に暮らさないか」突然のプロポーズと思いきや、契約結婚の申し出だった。 ところが、イケメンホスト麻生凌はたっぷりの愛情を濯ぐ。 翻弄される結城あゆみ。 そんな凌には誰にも言えない秘密があった。 あゆみの運命は……

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

わたしの愉快な旦那さん

川上桃園
恋愛
 あまりの辛さにブラックすぎるバイトをやめた。最後塩まかれたけど気にしない。  あ、そういえばこの店入ったことなかったな、入ってみよう。 「何かお探しですか」  その店はなんでも取り扱うという。噂によると彼氏も紹介してくれるらしい。でもそんなのいらない。彼氏だったらすぐに離れてしまうかもしれないのだから。  店員のお兄さんを前にてんぱった私は。 「旦那さんが欲しいです……」  と、斜め上の回答をしてしまった。でもお兄さんは優しい。 「どんな旦那さんをお望みですか」 「え、えっと……愉快な、旦那さん?」  そしてお兄さんは自分を指差した。 「僕が、お客様のお探しの『愉快な旦那さん』ですよ」  そこから始まる恋のお話です。大学生女子と社会人男子(御曹司)。ほのぼのとした日常恋愛もの

課長のケーキは甘い包囲網

花里 美佐
恋愛
田崎すみれ 二十二歳 料亭の娘だが、自分は料理が全くできない負い目がある。            えくぼの見える笑顔が可愛い、ケーキが大好きな女子。 × 沢島 誠司 三十三歳 洋菓子メーカー人事総務課長。笑わない鬼課長だった。             実は四年前まで商品開発担当パティシエだった。 大好きな洋菓子メーカーに就職したすみれ。 面接官だった彼が上司となった。 しかも、彼は面接に来る前からすみれを知っていた。 彼女のいつも買うケーキは、彼にとって重要な意味を持っていたからだ。 心に傷を持つヒーローとコンプレックス持ちのヒロインの恋(。・ω・。)ノ♡

男に間違えられる私は女嫌いの冷徹若社長に溺愛される

山口三
恋愛
「俺と結婚してほしい」  出会ってまだ何時間も経っていない相手から沙耶(さや)は告白された・・・のでは無く契約結婚の提案だった。旅先で危ない所を助けられた沙耶は契約結婚を申し出られたのだ。相手は五瀬馨(いつせかおる)彼は国内でも有数の巨大企業、五瀬グループの若き社長だった。沙耶は自分の夢を追いかける資金を得る為、養女として窮屈な暮らしを強いられている今の家から脱出する為にもこの提案を受ける事にする。  冷酷で女嫌いの社長とお人好しの沙耶。二人の契約結婚の行方は?  

もつれた心、ほどいてあげる~カリスマ美容師御曹司の甘美な溺愛レッスン~

泉南佳那
恋愛
 イケメンカリスマ美容師と内気で地味な書店員との、甘々溺愛ストーリーです!  どうぞお楽しみいただけますように。 〈あらすじ〉  加藤優紀は、現在、25歳の書店員。  東京の中心部ながら、昭和味たっぷりの裏町に位置する「高木書店」という名の本屋を、祖母とふたりで切り盛りしている。  彼女が高木書店で働きはじめたのは、3年ほど前から。  短大卒業後、不動産会社で営業事務をしていたが、同期の、親会社の重役令嬢からいじめに近い嫌がらせを受け、逃げるように会社を辞めた過去があった。  そのことは優紀の心に小さいながらも深い傷をつけた。  人付き合いを恐れるようになった優紀は、それ以来、つぶれかけの本屋で人の目につかない質素な生活に安んじていた。  一方、高木書店の目と鼻の先に、優紀の兄の幼なじみで、大企業の社長令息にしてカリスマ美容師の香坂玲伊が〈リインカネーション〉という総合ビューティーサロンを経営していた。  玲伊は優紀より4歳年上の29歳。  優紀も、兄とともに玲伊と一緒に遊んだ幼なじみであった。  店が近いこともあり、玲伊はしょっちゅう、優紀の本屋に顔を出していた。    子供のころから、かっこよくて優しかった玲伊は、優紀の初恋の人。  その気持ちは今もまったく変わっていなかったが、しがない書店員の自分が、カリスマ美容師にして御曹司の彼に釣り合うはずがないと、その恋心に蓋をしていた。  そんなある日、優紀は玲伊に「自分の店に来て」言われる。  優紀が〈リインカネーション〉を訪れると、人気のファッション誌『KALEN』の編集者が待っていた。  そして「シンデレラ・プロジェクト」のモデルをしてほしいと依頼される。 「シンデレラ・プロジェクト」とは、玲伊の店の1周年記念の企画で、〈リインカネーション〉のすべての施設を使い、2~3カ月でモデルの女性を美しく変身させ、それを雑誌の連載記事として掲載するというもの。  優紀は固辞したが、玲伊の熱心な誘いに負け、最終的に引き受けることとなる。  はじめての経験に戸惑いながらも、超一流の施術に心が満たされていく優紀。  そして、玲伊への恋心はいっそう募ってゆく。  玲伊はとても優しいが、それは親友の妹だから。  そんな切ない気持ちを抱えていた。  プロジェクトがはじまり、ひと月が過ぎた。  書店の仕事と〈リインカネーション〉の施術という二重生活に慣れてきた矢先、大問題が発生する。  突然、編集部に上層部から横やりが入り、優紀は「シンデレラ・プロジェクト」のモデルを下ろされることになった。  残念に思いながらも、やはり夢でしかなかったのだとあきらめる優紀だったが、そんなとき、玲伊から呼び出しを受けて……

貧乏大家族の私が御曹司と偽装結婚⁈

玖羽 望月
恋愛
朝木 与織子(あさぎ よりこ) 22歳 大学を卒業し、やっと憧れの都会での生活が始まった!と思いきや、突然降って湧いたお見合い話。 でも、これはただのお見合いではないらしい。 初出はエブリスタ様にて。 また番外編を追加する予定です。 シリーズ作品「恋をするのに理由はいらない」公開中です。 表紙は、「かんたん表紙メーカー」様https://sscard.monokakitools.net/covermaker.htmlで作成しました。

夢見るシンデレラ~溺愛の時間は突然に~

美和優希
恋愛
社長秘書を勤めながら、中瀬琴子は密かに社長に想いを寄せていた。 叶わないだろうと思いながらもあきらめきれずにいた琴子だったが、ある日、社長から告白される。 日頃は紳士的だけど、二人のときは少し意地悪で溺甘な社長にドキドキさせられて──!? 初回公開日*2017.09.13(他サイト) アルファポリスでの公開日*2020.03.10 *表紙イラストは、イラストAC(もちまる様)のイラスト素材を使わせていただいてます。

処理中です...