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男子トイレ
しおりを挟む午前中の仕事もひと段落し、オフィスに静かな空気が流れ始めた頃だった。
隆司の姿の美咲は、机に置いたコーヒーカップを見下ろしながら小さく呟いた。
「……あ、トイレ行きたい」
席を立ち、自然に足が向かったのは――女子トイレ。
そこまでがあまりに自然すぎて、ドアに手をかける寸前まで何も違和感を覚えなかった。
が、次の瞬間。
「――って、ちょっと待ったぁ!」
自分で自分に突っ込みを入れて、慌てて手を引っ込める。通りすがりの同僚が不思議そうにこちらを見たが、美咲(隆司の体)は咄嗟にネクタイを直すふりをしてごまかした。
(あぶなっ! 今の私の姿は隆司……完全に男じゃない! この顔で女子トイレに入ったら――)
想像した瞬間、頭の中に赤い警報ランプが回る。
「……大事件だわ!」と声に出してしまい、慌てて口を押さえた。
深呼吸して気持ちを切り替えると、今度は男子トイレの方へ歩みを進める。入る前からすでに心臓はバクバク。
「え、男子トイレってこんなに入り口が無骨なの……」
小さく呟きながら中へ入ると、無言で並んだ男性社員たちが小便器で用を足している光景が飛び込んでくる。
(ひぃっ……! 見なきゃいいのに、なんか落ち着かない!)
しかし今さら引き返すわけにもいかず、空いている場所に並ぶ。スーツのポケットに手を入れ、なるべく「慣れてます」オーラを出すように背筋を伸ばす。
「……あ、意外と簡単」
実際に用を済ませると、拍子抜けするくらいあっけなかった。個室でモタモタする必要もなく、ほんの数十秒で終了だ。
手を洗い、鏡に映る隆司の顔を見ながら、思わずニヤリ。
「なるほどね……これはこれでラクなのね」
すっかり満足げに男子トイレを出てきたところで、廊下ですれ違った若手社員に軽く会釈される。
その瞬間、再び胸の奥がドキンと跳ねた。
(わ、忘れないで……今の私は“山本隆司”。絶対に、女子トイレに入ったらダメ!)
心の中で念じながら自分のデスクへ戻る美咲の足取りは、どこか妙に誇らしげだった。
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