婚約者に捨てられた私ですが、なぜか宰相様の膝の上が定位置になっています 

さら

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第9話 噂と試練



 街へのお出かけから数日後。宰相邸の一室で、侍女が静かな声で報告を持ってきた。

「……エリナ様のこと、王都中で話題になっております」
「話題……?」
「はい。『宰相様の膝の上を定位置にした娘がいる』と……」

 瞬間、頬から耳まで熱が広がる。羞恥と戸惑いで胸がいっぱいになり、息が詰まりそうになった。
「そ、そんな……! 皆さんに知られてしまったら……」

 不安で胸を押さえていると、背後から低い声が響く。
「何を慌てている」

 振り返れば、宰相様が立っていた。冷徹な鋼の瞳がまっすぐに私を射抜く。

「街で見せたことは意図的だ。君が私の庇護下にあると知らしめるために」
「で、でも……あまりにも恥ずかしくて……」
「恥じる必要はない。むしろ誇れ」

 短い断言に、胸が甘く痺れる。だが、不安は完全には消えなかった。

 その日の午後、私は再び宰相様の膝の上に座り、書類を読み上げていた。そこへ秘書官が駆け込んできた。
「閣下! 第一王子殿下が、先日の件について釈明を求めております!」

 空気が一瞬で張り詰めた。胸の奥に冷たい恐怖が走る。殿下――かつての婚約者。その名を聞くだけで体が震えてしまう。

 宰相様は机に羽ペンを置き、冷ややかに言った。
「いいだろう。だが会う場所はここではない。王宮で正式に受けよう」
「承知いたしました」

 秘書官が退室すると、宰相様は視線を私へ戻した。
「……顔色が悪いな」
「……殿下と会うなんて、怖いです」
「安心しろ。君を一人にはしない」

 その断言に、少しだけ胸が温かくなる。けれど、不安は消えきらない。

「宰相様……もし殿下に何か言われたら、私……」
「私がいる。君は黙って膝の上に座っていればいい」
「……!」

 その一言に心臓が大きく跳ねた。羞恥と安堵が入り混じり、どうしていいか分からなくなる。

 だが、宰相様の腕がしっかりと背を支えていた。
――大丈夫。私はもう、一人ではない。



 王宮へ向かう馬車の中、私は宰相様の隣で緊張に震えていた。窓の外には見慣れた街並みが流れていくはずなのに、心臓の鼓動が大きすぎて景色に集中できない。

「……殿下に会うのが、こんなに怖いなんて」
 思わず零した呟きに、宰相様は視線を横に向け、私の手をしっかりと握った。
「恐れるな。君は何も悪くない」
「……でも、婚約を破棄されたのは事実です。きっと皆……」
「皆などどうでもいい。真実を知る者は私だけで十分だ」

 力強い言葉に胸が震える。私は唇を噛み、こぼれそうな涙を必死に堪えた。

 やがて王宮に到着し、広間に案内された。高い天井と金の装飾が施された空間。かつて婚約者として立ったことのある場所だった。懐かしさよりも、胸の奥を抉るような痛みが蘇る。

 そして、その中央に立つ人物――第一王子アレクシス。かつて愛を誓ったはずの人が、今は冷たい瞳で私を見下ろしている。隣には変わらずアリシアが寄り添い、勝ち誇ったように顎を上げていた。

「宰相殿……そしてエリナ。君まで連れてくるとはな」
 殿下の声は冷ややかで、わずかに嘲りを含んでいた。

「言いたいことがあるのだろう」
 宰相様は私を庇うように前に出て、低く応じる。

「……先日の件は軽率だった。だが、エリナが私に相応しくないのは事実だ」
 殿下の言葉に胸が痛む。だが、その瞬間、宰相様が一歩踏み出した。

「黙れ」
 その低い声が広間を震わせた。殿下でさえわずかに息を呑む。
「お前の軽率さでどれほどの者が傷ついたか理解しているのか。エリナ嬢の名誉は既に王都全体の話題だ。だが、辱めを受けるべきは彼女ではない。愚かさを晒したお前自身だ」

 凍りつくような空気が広間を包む。殿下の頬が引きつり、言葉を失っていた。アリシアも顔色を変え、唇を噛んでいる。

 私は震える手を膝に置いた。恐怖で逃げ出したい気持ちはあった。けれど、宰相様の背中が視界にあるだけで、不思議と心が落ち着いていく。

「……宰相様」
 小さく呟いた声は誰にも届かなかったが、私の心は確かに救われていた。



 広間の空気は張り詰めたまま、誰一人として言葉を発しなかった。殿下もアリシアも青ざめた表情を浮かべ、宰相様の冷ややかな声だけが響く。

「……王家の威信を支えるのは責務を果たす者だ。己の欲に溺れ、衆目の前で礼を欠いた者に、その資格はない」

 堂々たる言葉に、周囲の廷臣たちまでもが息を呑む。殿下は顔を赤くし、反論を試みようとしたが、宰相様の威圧に喉が詰まったように声が出なかった。

 私は震える指を胸の前で握りしめた。殿下と目が合った瞬間、胸の奥がざわめき、過去の痛みが蘇りそうになる。だがすぐに宰相様の背中を見て思い出した。――私は一人ではない。

 宰相様は振り返り、私に視線を落とした。その瞳は驚くほど柔らかい。
「エリナ。言いたいことはあるか」
「……」
 唇が震え、声が出なかった。けれど、宰相様の頷きに背を押され、震える声で言葉を紡いだ。
「……私は、もう殿下の婚約者ではありません。あの日、すべてを失ったと思いました。ですが……宰相様が私を受け入れてくださった。だから、私はこれから宰相様の庇護下で生きていきます」

 広間にざわめきが走った。殿下の顔が怒りで歪む。
「そ、そんな勝手なことを……!」
「勝手なのはどちらだ」
 宰相様の声が重く響く。
「衆目の前で婚約を破棄し、彼女の名誉を踏みにじったのはお前だ。これ以上口を開けば、国のために相応しくない者として正式に記録を残すことになる」

 殿下は悔しげに奥歯を噛みしめ、言葉を失った。アリシアも怯えたように肩を寄せるだけだ。

 廷臣たちの間に漂うのは、明らかな空気の変化だった。――「宰相様の庇護下にある娘」。その事実が強烈に印象づけられ、否応なしに受け入れざるを得ない。

 やがて宰相様は私に手を差し伸べ、堂々と告げた。
「行こう。ここに君を留める理由はない」
「……はい」

 その手を取ると、広間を出るまで人々の視線が背に注がれた。けれど、もう怖くはなかった。宰相様の手の力強さが、すべての不安を打ち消してくれたから。

 王宮を後にし、再び馬車へ戻ると、宰相様は私を膝の上に抱き寄せた。
「よく頑張ったな」
「……私、何も……」
「黙って立っていただけでも十分だ。あの場で震えずにいられたのは、君の強さだ」

 胸が甘く痺れる。頬を彼の胸に押し当てると、温もりが全身を包み込み、涙が零れた。

「宰相様……ありがとうございます」
「礼は要らん。私は君を守ると決めたのだから」

 その言葉に、心の奥で何かがほどけていく。婚約破棄の屈辱が、少しずつ過去のものになっていくのを感じた。

――こうして私は、宰相様の膝の上で再び守られ、未来へ歩む決意を強めていったのだった。
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