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第11話 雨の日の執務室
〇
お茶会から数日後。朝から空は灰色に覆われ、しとしとと雨が降り続いていた。王都の石畳を叩く雨音が屋敷の中まで響き、空気をひんやりと湿らせる。そんな中、私はいつも通り宰相様の執務室へ向かった。
扉を開けると、窓辺に置かれたランプの光が部屋を柔らかく照らしていた。宰相様は既に机に向かい、羽ペンを走らせていたが、私の姿に気づくと手を止める。
「来たか。……こちらへ」
短い言葉に導かれるまま、私はいつものように膝の上へ抱き上げられる。外の冷気とは対照的に、宰相様の体温がすぐに伝わり、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「雨の日は嫌いか?」
「……少し、気分が沈みます」
「そうか。私は嫌いではない。雨音は余計な雑念を払う」
窓の外に目を向けた宰相様の横顔は、静謐な空気をまとっていた。
午前中の執務はいつも通り進んだ。報告書を読み、数字を確認し、私も補助として簡単な写しを任される。だが、雨音が規則正しく続くせいか、次第に眠気が襲ってきた。
膝の上で大人しくしていたつもりが、気づけば頭が傾いて宰相様の胸に触れていた。
「……眠いのか」
「っ、す、すみません!」
慌てて起き上がろうとすると、宰相様の腕が背を押さえた。
「構わん。雨の日は誰でも眠くなる。……目を閉じろ」
「で、でも……」
「私の膝の上で眠るのは君の役目だ」
冗談めかした声音に、顔が熱くなる。それでも抗えず、再び瞼を閉じた。外の雨音と宰相様の心音が重なり、心地よい子守唄のように響く。
やがて本当に意識が溶け、夢の境に落ちていった。最後に感じたのは、髪を優しく撫でる宰相様の手の温もりだった。
△
目を覚ましたとき、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。雨は止まず、街の灯りが滲むように輝いている。私は宰相様の膝の上で小さく身じろぎし、慌てて姿勢を正した。
「……あの、私、ずっと眠ってしまって……」
「気にするな」
宰相様は書類を整えながら淡々と答える。その声には咎めの色は一切なく、むしろどこか優しさが滲んでいた。
「むしろ助かった」
「え……?」
「君が眠っていたおかげで、私も心穏やかに政務を進められた」
さらりと言われ、胸が甘く痺れる。私が眠っていたことが役立ったなど、想像すらしていなかった。
宰相様は新しい茶を侍従に持ってこさせ、自らカップを取り私の唇に当てる。
「温かいうちに飲め」
「……はい」
香り高い茶が喉を潤し、冷えた身体がじんわりと温まる。頬が緩むのを隠せず、宰相様に見透かされたようでさらに顔が熱くなった。
そのとき、秘書官が緊張した面持ちで入室した。
「閣下……外では、殿下とアリシア様の噂が飛び交っております。先日の広間でのやり取りが尾を引き、殿下の評判は急落しております」
「当然だ。己の愚かさの結果だ」
宰相様は一瞥もくれずに言い切る。
「ですが一方で、エリナ様が閣下の庇護下にあると……王都中で囁かれております」
その言葉に心臓が跳ねる。再び注がれる視線の重さを思い出し、胸がざわめいた。だが宰相様は私の手を取り、しっかりと握った。
「恐れるな。どんな噂も、私が覆す」
その一言に、胸が強く震えた。彼の瞳は鋼のように揺るぎなく、私を支えてくれる。羞恥も不安も、その視線の前ではすぐに溶けてしまう。
「……宰相様。私は、こんなにも甘やかされてばかりで……本当にいいのでしょうか」
「いいに決まっている」
即答。
「君は誰よりも傷ついた。その痛みを癒すのは私の役目だ」
言葉が胸に沁みて、涙が滲む。けれど宰相様は何も言わず、ただ背を撫でてくれた。その温もりが雨音に溶け込み、心を穏やかに満たしていく。
◇
夜になっても雨は止まず、執務室の窓を叩く音が途切れることはなかった。蝋燭の炎が揺れ、暖炉の薪が静かに爆ぜる。重たい静けさの中で、私はまだ宰相様の膝の上に座っていた。
「今日は……本当に一日中ここにいましたね」
小さく呟くと、宰相様は私の髪を指で梳きながら答えた。
「当たり前だ。君の居場所は膝の上だと言っただろう」
「でも……周りの方々にどう思われているか……」
「気にする必要はない。彼らは皆、理解している。――君がここにいることで、私が安らいでいると」
その言葉に胸が甘く震えた。自分が役立っているという事実が、何よりも嬉しい。
侍従が軽食を運んできた。雨の日に合わせた温かいスープと柔らかいパン。宰相様は当然のようにパンをちぎり、スープに浸してから私の唇へ差し出す。
「……っ、やっぱり自分で……」
「拒むな」
「……はい」
口に含むと、じんわりと身体が温まっていく。周囲の視線があっても、不思議ともう恥ずかしさより安心のほうが勝っていた。
食事を終えると、宰相様は再び私を抱き寄せ、額に口づけを落とした。
「君は今日、よく耐えたな。噂に怯えることなく、私の膝にいた」
「……宰相様がいてくださったからです」
「それでいい。私の役目は、君に居場所を与えることだ」
胸が熱くなり、涙が零れる。宰相様の手が頬に触れ、親指でそっと拭い取ってくれた。
「雨の日は、君にとって嫌な思い出ではなくなるだろう」
「え……?」
「今日からは違う。雨の音を聞けば、宰相の膝で眠った日のことを思い出すはずだ」
囁かれた瞬間、胸がじんわりと温かさで満たされる。雨音はもう重苦しいものではなく、優しい子守唄のように聞こえてきた。
やがて夜も更け、宰相様は私を抱き上げて寝室へと運んだ。外の雨は止む気配がない。だが、彼の腕に抱かれているだけで、心の中は晴れ渡るように穏やかだった。
「明日もここに来い。雨でも晴れでも、君の居場所は変わらない」
「……はい」
ベッドに下ろされ、布団をかけられると、自然と瞼が落ちていった。胸に残るのは、宰相様の温もりと雨音が織りなす優しい調べ。
――こうして私は、雨の日すら安らぎに変えてくれる宰相様の膝の上で、確かな居場所を感じ続けていた。
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お茶会から数日後。朝から空は灰色に覆われ、しとしとと雨が降り続いていた。王都の石畳を叩く雨音が屋敷の中まで響き、空気をひんやりと湿らせる。そんな中、私はいつも通り宰相様の執務室へ向かった。
扉を開けると、窓辺に置かれたランプの光が部屋を柔らかく照らしていた。宰相様は既に机に向かい、羽ペンを走らせていたが、私の姿に気づくと手を止める。
「来たか。……こちらへ」
短い言葉に導かれるまま、私はいつものように膝の上へ抱き上げられる。外の冷気とは対照的に、宰相様の体温がすぐに伝わり、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「雨の日は嫌いか?」
「……少し、気分が沈みます」
「そうか。私は嫌いではない。雨音は余計な雑念を払う」
窓の外に目を向けた宰相様の横顔は、静謐な空気をまとっていた。
午前中の執務はいつも通り進んだ。報告書を読み、数字を確認し、私も補助として簡単な写しを任される。だが、雨音が規則正しく続くせいか、次第に眠気が襲ってきた。
膝の上で大人しくしていたつもりが、気づけば頭が傾いて宰相様の胸に触れていた。
「……眠いのか」
「っ、す、すみません!」
慌てて起き上がろうとすると、宰相様の腕が背を押さえた。
「構わん。雨の日は誰でも眠くなる。……目を閉じろ」
「で、でも……」
「私の膝の上で眠るのは君の役目だ」
冗談めかした声音に、顔が熱くなる。それでも抗えず、再び瞼を閉じた。外の雨音と宰相様の心音が重なり、心地よい子守唄のように響く。
やがて本当に意識が溶け、夢の境に落ちていった。最後に感じたのは、髪を優しく撫でる宰相様の手の温もりだった。
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目を覚ましたとき、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。雨は止まず、街の灯りが滲むように輝いている。私は宰相様の膝の上で小さく身じろぎし、慌てて姿勢を正した。
「……あの、私、ずっと眠ってしまって……」
「気にするな」
宰相様は書類を整えながら淡々と答える。その声には咎めの色は一切なく、むしろどこか優しさが滲んでいた。
「むしろ助かった」
「え……?」
「君が眠っていたおかげで、私も心穏やかに政務を進められた」
さらりと言われ、胸が甘く痺れる。私が眠っていたことが役立ったなど、想像すらしていなかった。
宰相様は新しい茶を侍従に持ってこさせ、自らカップを取り私の唇に当てる。
「温かいうちに飲め」
「……はい」
香り高い茶が喉を潤し、冷えた身体がじんわりと温まる。頬が緩むのを隠せず、宰相様に見透かされたようでさらに顔が熱くなった。
そのとき、秘書官が緊張した面持ちで入室した。
「閣下……外では、殿下とアリシア様の噂が飛び交っております。先日の広間でのやり取りが尾を引き、殿下の評判は急落しております」
「当然だ。己の愚かさの結果だ」
宰相様は一瞥もくれずに言い切る。
「ですが一方で、エリナ様が閣下の庇護下にあると……王都中で囁かれております」
その言葉に心臓が跳ねる。再び注がれる視線の重さを思い出し、胸がざわめいた。だが宰相様は私の手を取り、しっかりと握った。
「恐れるな。どんな噂も、私が覆す」
その一言に、胸が強く震えた。彼の瞳は鋼のように揺るぎなく、私を支えてくれる。羞恥も不安も、その視線の前ではすぐに溶けてしまう。
「……宰相様。私は、こんなにも甘やかされてばかりで……本当にいいのでしょうか」
「いいに決まっている」
即答。
「君は誰よりも傷ついた。その痛みを癒すのは私の役目だ」
言葉が胸に沁みて、涙が滲む。けれど宰相様は何も言わず、ただ背を撫でてくれた。その温もりが雨音に溶け込み、心を穏やかに満たしていく。
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夜になっても雨は止まず、執務室の窓を叩く音が途切れることはなかった。蝋燭の炎が揺れ、暖炉の薪が静かに爆ぜる。重たい静けさの中で、私はまだ宰相様の膝の上に座っていた。
「今日は……本当に一日中ここにいましたね」
小さく呟くと、宰相様は私の髪を指で梳きながら答えた。
「当たり前だ。君の居場所は膝の上だと言っただろう」
「でも……周りの方々にどう思われているか……」
「気にする必要はない。彼らは皆、理解している。――君がここにいることで、私が安らいでいると」
その言葉に胸が甘く震えた。自分が役立っているという事実が、何よりも嬉しい。
侍従が軽食を運んできた。雨の日に合わせた温かいスープと柔らかいパン。宰相様は当然のようにパンをちぎり、スープに浸してから私の唇へ差し出す。
「……っ、やっぱり自分で……」
「拒むな」
「……はい」
口に含むと、じんわりと身体が温まっていく。周囲の視線があっても、不思議ともう恥ずかしさより安心のほうが勝っていた。
食事を終えると、宰相様は再び私を抱き寄せ、額に口づけを落とした。
「君は今日、よく耐えたな。噂に怯えることなく、私の膝にいた」
「……宰相様がいてくださったからです」
「それでいい。私の役目は、君に居場所を与えることだ」
胸が熱くなり、涙が零れる。宰相様の手が頬に触れ、親指でそっと拭い取ってくれた。
「雨の日は、君にとって嫌な思い出ではなくなるだろう」
「え……?」
「今日からは違う。雨の音を聞けば、宰相の膝で眠った日のことを思い出すはずだ」
囁かれた瞬間、胸がじんわりと温かさで満たされる。雨音はもう重苦しいものではなく、優しい子守唄のように聞こえてきた。
やがて夜も更け、宰相様は私を抱き上げて寝室へと運んだ。外の雨は止む気配がない。だが、彼の腕に抱かれているだけで、心の中は晴れ渡るように穏やかだった。
「明日もここに来い。雨でも晴れでも、君の居場所は変わらない」
「……はい」
ベッドに下ろされ、布団をかけられると、自然と瞼が落ちていった。胸に残るのは、宰相様の温もりと雨音が織りなす優しい調べ。
――こうして私は、雨の日すら安らぎに変えてくれる宰相様の膝の上で、確かな居場所を感じ続けていた。
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