婚約者に捨てられた私ですが、なぜか宰相様の膝の上が定位置になっています 

さら

文字の大きさ
12 / 25

12

しおりを挟む
第12話 手を取られて



 雨の翌日。朝から青空が広がり、屋敷の庭園には雨粒を宿した薔薇が陽にきらめいていた。私はその眩しさに目を細めながら、いつものように宰相様の執務室へと足を運ぶ。

 扉を開けると、宰相様は既に机に向かっていた。だが私の姿を見るなり、羽ペンを置いて立ち上がり、すぐに歩み寄ってきた。
「来たな。……こちらへ」
 言うが早いか、当然のように腕に抱き上げられ、椅子に腰かける彼の膝の上へと下ろされる。

「……毎日こうしていただいて、慣れてしまいそうです」
「慣れろ。これから先もずっと同じだからな」
「っ……」
 胸が甘く震え、言葉を失う。

 宰相様は書類の束を机に置き、私の手に羽ペンを握らせた。
「今日は君に任せる。数字の写しだけでなく、簡単な計算もやってみろ」
「け、計算ですか?」
「恐れるな。間違えれば私が直す」

 彼の大きな掌が私の手に重なり、文字を書く導きをしてくれる。すぐ耳元で響く低い声と、背に添えられた力強い腕。緊張で震えながらも、心の奥では不思議と落ち着いていく。

 必死に数字を書き連ねるうちに、徐々に筆跡も整ってきた。宰相様は頷き、静かに言った。
「悪くない。むしろ初めてにしては上出来だ」
「ほ、本当ですか?」
「ああ。君はやはり几帳面だ」

 その一言に胸が熱くなる。自分には何の価値もないと思っていた過去が遠ざかり、今は「役に立てる」という実感に満たされる。

 けれど、そのとき私はインク瓶を傾けすぎてしまい、机に黒い雫がぽたりと落ちた。
「きゃっ……す、すみません!」
 慌てて布を取ろうとした瞬間、宰相様の手が私の手を包んだ。

「慌てるな。少しの汚れだ」
「で、でも……」
「大丈夫だ。私が拭く」

 宰相様は落ち着いた手つきで布を取り、机を丁寧に拭った。そしてそのまま、私の指先をそっと拭いながら囁く。
「……君の手は震えているな」
「ご、ごめんなさい……」
「謝るな。私はその震えさえ愛おしいと思っている」

 胸が大きく跳ねた。耳まで真っ赤になり、視線を逸らす。けれど宰相様は強く私の手を握り、言葉を続けた。
「君は一人で立とうとしなくていい。私が手を取る」

 その断言に、胸が甘く痺れた。




 宰相様に手を取られたまま、私はしばらく身じろぎもできずにいた。指先を包む温もりは大きくて頼もしく、まるで城壁に守られているような安心感を与えてくれる。

「……私は、どうしてこんなにも大切にしていただけるのでしょうか」
 思わず零した問いに、宰相様は静かに答えた。
「理由など一つで十分だ。――君が私にとって必要だからだ」
「必要……」
「そうだ。君が膝にいると、私は孤独を感じない。君が書類を見れば、誤りを見抜く。君が笑えば、私の疲れは消える」

 淡々と告げられる言葉一つひとつが胸を打つ。自分が役に立っている。居場所を与えられている。その事実に、瞳が熱を帯びた。

 そのとき、侍従がノックして入室した。
「閣下、商人組合からの報告書をお持ちしました」
「机に置け」
 書類を受け取った宰相様は、私に向き直って微笑を浮かべる。
「どうだ、やってみるか」
「えっ……わ、私がですか?」
「そうだ。数字の整合を確認してみろ」

 促されるままに報告書を手に取る。震える指で一行ずつ追い、必死に頭を働かせる。しばらくして、ある箇所で眉をひそめた。
「……こ、この部分……記された納品数と計算が合っていません」
「ほう」
 宰相様が覗き込み、羽ペンを走らせて訂正する。
「見事だ。君は確かに誤りを見抜いた」
「……っ!」

 胸が熱くなり、思わず顔を伏せた。宰相様はそんな私の顎に指先を添え、軽く上げる。
「自信を持て。君は私に必要な人間だ」
 真っ直ぐな瞳に見つめられ、羞恥と幸福で心が震えた。

 やがて午後の執務がひと段落すると、宰相様は茶を用意させた。
「休憩にしよう」
 彼は自らティーカップを持ち、再び私の唇にあてがう。
「……宰相様、どうしていつも……」
「君の手を離したくないからだ」

 あまりに率直な答えに、心臓が飛び跳ねる。頬を真っ赤に染めながらも、茶の温かさを受け入れるしかなかった。

 外は青空が広がっているのに、私の胸はそれ以上に明るく満たされていた。




 陽が傾き始め、窓から射す光が黄金色に変わる頃。執務室の空気は静まり返り、羽ペンの音だけが響いていた。私は宰相様の膝の上に座ったまま、今日の学びを胸の中で繰り返していた。数字の整合を見抜けたこと、褒めてもらえたこと、そして「必要だ」と言ってもらえたこと――すべてが夢のようで、頬が自然と緩んでしまう。

「……嬉しそうだな」
 宰相様の低い声に、私は肩をびくりと震わせた。
「そ、そんなことは……」
「嘘をつくな。表情に出ている」
 からかうでもなく、ただ淡々と事実を告げる声。それだけで心臓が大きく跳ねる。

「私は……本当に役に立てているのでしょうか」
「言ったはずだ。君はもう、私にとって欠かせぬ存在だ」
 断言する声に、胸が甘く痺れた。

 宰相様はペンを置き、私の手を取った。その掌は大きく温かく、しっかりと包み込んでくれる。
「エリナ。これから先も迷うことがあれば、必ず私の手を取れ」
「……宰相様……」
「どんな時でも、私はここにいる。君が離したくない限り、手を放すことはない」

 言葉が胸に突き刺さり、瞳が潤む。私は震える指で宰相様の手を強く握り返した。
「……私も、離したくありません」
 小さな声が広間に吸い込まれ、宰相様の瞳が一瞬だけ柔らかく揺れた。

 やがて夜が訪れ、宰相様は私を抱き上げて寝室まで運んでくれた。長い外套が揺れ、静かな廊下に二人だけの足音が響く。

「今日はよく頑張ったな」
「はい……でも、全部宰相様のおかげです」
「違う。君が努力したからだ」

 寝室に着くと、ベッドに下ろされる。その瞬間、名残惜しさに思わず彼の袖を掴んだ。
「……明日も、手を取ってくださいますか」
 宰相様はわずかに微笑し、私の額に口づけを落とした。
「当然だ。何度でも」

 胸が甘く震え、涙がこぼれそうになる。布団に包まれながら瞼を閉じると、宰相様の声と温もりが心に焼きついた。

――こうして私は、彼に「手を取られて」歩む未来を信じられるようになったのだった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】身代わりに病弱だった令嬢が隣国の冷酷王子と政略結婚したら、薬師の知識が役に立ちました。

朝日みらい
恋愛
リリスは内気な性格の貴族令嬢。幼い頃に患った大病の影響で、薬師顔負けの知識を持ち、自ら薬を調合する日々を送っている。家族の愛情を一身に受ける妹セシリアとは対照的に、彼女は控えめで存在感が薄い。 ある日、リリスは両親から突然「妹の代わりに隣国の王子と政略結婚をするように」と命じられる。結婚相手であるエドアルド王子は、かつて幼馴染でありながら、今では冷たく距離を置かれる存在。リリスは幼い頃から密かにエドアルドに憧れていたが、病弱だった過去もあって自分に自信が持てず、彼の真意がわからないまま結婚の日を迎えてしまい――

『異世界転生してカフェを開いたら、庭が王宮より人気になってしまいました』

ヤオサカ
恋愛
申し訳ありません、物語の内容を確認しているため、一部非公開にしています この物語は完結しました。 前世では小さな庭付きカフェを営んでいた主人公。事故により命を落とし、気がつけば異世界の貧しい村に転生していた。 「何もないなら、自分で作ればいいじゃない」 そう言って始めたのは、イングリッシュガーデン風の庭とカフェづくり。花々に囲まれた癒しの空間は次第に評判を呼び、貴族や騎士まで足を運ぶように。 そんな中、無愛想な青年が何度も訪れるようになり――?

【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。

朝日みらい
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。 宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。 彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。 加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。 果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?

【完結】氷の王太子に嫁いだら、毎晩甘やかされすぎて困っています

22時完結
恋愛
王国一の冷血漢と噂される王太子レオナード殿下。 誰に対しても冷たく、感情を見せることがないことから、「氷の王太子」と恐れられている。 そんな彼との政略結婚が決まったのは、公爵家の地味な令嬢リリア。 (殿下は私に興味なんてないはず……) 結婚前はそう思っていたのに―― 「リリア、寒くないか?」 「……え?」 「もっとこっちに寄れ。俺の腕の中なら、温かいだろう?」 冷酷なはずの殿下が、新婚初夜から優しすぎる!? それどころか、毎晩のように甘やかされ、気づけば離してもらえなくなっていた。 「お前の笑顔は俺だけのものだ。他の男に見せるな」 「こんなに可愛いお前を、冷たく扱うわけがないだろう?」 (ちょ、待ってください! 殿下、本当に氷のように冷たい人なんですよね!?) 結婚してみたら、噂とは真逆で、私にだけ甘すぎる旦那様だったようです――!?

25番目の花嫁 ~妹の身代わりで嫁いだら、冷徹公爵が私を溺愛し始めました~

朝日みらい
恋愛
王都の春。 貴族令嬢リリアーナ・エインズワースは、第一王子ライオネル殿下との婚約を一方的に破棄された。 涙を見せないことが、彼女に残された唯一の誇りだった。だが運命は、彼女を思いがけない方向へ導く。 「氷の公爵」と呼ばれる孤高の男、ヴァレンティーヌ公爵。 二十四人の花嫁候補を断り続けた彼の元へ、「二十五番目の花嫁」として赴いたリリアーナ。 家の体裁のための結婚――そう割り切っていたはずなのに、氷のような瞳の奥に垣間見えた孤独が、彼女の心に小さな炎を灯してゆく。

キズモノ転生令嬢は趣味を活かして幸せともふもふを手に入れる

藤 ゆみ子
恋愛
セレーナ・カーソンは前世、心臓が弱く手術と入退院を繰り返していた。 将来は好きな人と結婚して幸せな家庭を築きたい。そんな夢を持っていたが、胸元に大きな手術痕のある自分には無理だと諦めていた。 入院中、暇潰しのために始めた刺繍が唯一の楽しみだったが、その後十八歳で亡くなってしまう。 セレーナが八歳で前世の記憶を思い出したのは、前世と同じように胸元に大きな傷ができたときだった。 家族から虐げられ、キズモノになり、全てを諦めかけていたが、十八歳を過ぎた時家を出ることを決意する。 得意な裁縫を活かし、仕事をみつけるが、そこは秘密を抱えたもふもふたちの住みかだった。

離婚寸前で人生をやり直したら、冷徹だったはずの夫が私を溺愛し始めています

腐ったバナナ
恋愛
侯爵夫人セシルは、冷徹な夫アークライトとの愛のない契約結婚に疲れ果て、離婚を決意した矢先に孤独な死を迎えた。 「もしやり直せるなら、二度と愛のない人生は選ばない」 そう願って目覚めると、そこは結婚直前の18歳の自分だった! 今世こそ平穏な人生を歩もうとするセシルだったが、なぜか夫の「感情の色」が見えるようになった。 冷徹だと思っていた夫の無表情の下に、深い孤独と不器用で一途な愛が隠されていたことを知る。 彼の愛をすべて誤解していたと気づいたセシルは、今度こそ彼の愛を掴むと決意。積極的に寄り添い、感情をぶつけると――

家族から冷遇されていた過去を持つ家政ギルドの令嬢は、旦那様に人のぬくもりを教えたい~自分に自信のない旦那様は、とても素敵な男性でした~

チカフジ ユキ
恋愛
叔父から使用人のように扱われ、冷遇されていた子爵令嬢シルヴィアは、十五歳の頃家政ギルドのギルド長オリヴィアに助けられる。 そして家政ギルドで様々な事を教えてもらい、二年半で大きく成長した。 ある日、オリヴィアから破格の料金が提示してある依頼書を渡される。 なにやら裏がありそうな値段設定だったが、半年後の成人を迎えるまでにできるだけお金をためたかったシルヴィアは、その依頼を受けることに。 やってきた屋敷は気持ちが憂鬱になるような雰囲気の、古い建物。 シルヴィアが扉をノックすると、出てきたのは長い前髪で目が隠れた、横にも縦にも大きい貴族男性。 彼は肩や背を丸め全身で自分に自信が無いと語っている、引きこもり男性だった。 その姿をみて、自信がなくいつ叱られるかビクビクしていた過去を思い出したシルヴィアは、自分自身と重ねてしまった。 家政ギルドのギルド員として、余計なことは詮索しない、そう思っても気になってしまう。 そんなある日、ある人物から叱責され、酷く傷ついていた雇い主の旦那様に、シルヴィアは言った。 わたしはあなたの側にいます、と。 このお話はお互いの強さや弱さを知りながら、ちょっとずつ立ち直っていく旦那様と、シルヴィアの恋の話。 *** *** ※この話には第五章に少しだけ「ざまぁ」展開が入りますが、味付け程度です。 ※設定などいろいろとご都合主義です。 ※小説家になろう様にも掲載しています。

処理中です...