溺愛のフリから2年後は。

橘しづき

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地獄へどうぞ

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 千紗の足は軽かった。

 

 朝の空気を肺いっぱいに吸い込み、職場へ向かう。普段なら出勤の時の足取りなんて、重くてたまらないものだけれど今日は違った。朝からしっかり上げたまつ毛を少し触りながら、千紗は一人で笑う。

(今頃どうなってるんだろー? 不倫女って会社中で言われてるだろうなあ)

 旦那はあんなイケメンなのに、不倫相手の男は普通なの、想像するだけでウケる!

 これも二人が私をコケにしたせいだ。せいぜい後悔すればいい。

 千紗は例の写真をばらまくと心に決め、そして山本にそれをこっそり伝えた。『もう強硬手段に出るしかないです。愛理が他の男性と恋愛関係にあると知れば、いくら偽装婚でも湊斗はプライドが傷つけられて怒るはずです』……あの男、こんな話に乗るとは馬鹿じゃないの。

 正直なところ、あの写真一枚だけではそこまでの破壊力はなかっただろう。角度的にそう見えるだけだし、愛理が『誰かに嫌がらせで撮られた』と主張すれば、疑惑は残るものの、決定的な証拠にはならない。

 でも山本の証言があれば別だ。一気に信憑性が上がるだろう。

 ふふっと笑った直後、千紗はすぐに真顔になった。

(よくやるよ……山本も不倫してましたって発言すれば、あの男だって相当な被害を受ける。左遷されるかもしれないし、そうでなくても周りから白い目で見られるっていうのに、愛理を救うためにやるって即決だもんなあ……)

 大変馬鹿な男だが、なぜそこまでして愛理を大事に思っているのかちっともわからない。あの女にそんな価値ある?

 湊斗だってそう。顔もいいしモテまくってて凄いのに、愛理を長く想ってる。意味がわからない。どうしてどいつもこいつも愛理を選んでるんだろう。

 ぎりっと唇を嚙んだが、すぐに止めた。ああいうキツイ女が好きなどMってだけでしょ。

 何にせよもう愛理は再起不能に決まってるし、湊斗は私がかかわったことに勘づくだろうが証拠がない。だから動くに動けないはず。

 悪いのは全部山本ってことになるんだから。

 千紗は鼻歌を歌いだしそうな気持ちで歩みを進め、ようやく会社が見えてきた。

「あ、松永さん! おはようございます!」

 若い男性社員が顔をわかりやすく溶かしながら千紗に挨拶をした。千紗は高い声で答える。

「おはようございます!」

 にっこり笑うと、向こうもデレっとした。湊斗みたいないい男じゃないけど、もうこいつでも十分いいかもしれない。湊斗が手に入らないとわかった今、自分も婚活に向けて本気を出さないと。いくら可愛くても、年を取れば難しくなる。それなりに収入がよくて、こっちにべた惚れならそれでいい。

「そういえば、この前大きな契約取って来たって聞きましたあ! 凄いですねえ!」

「いやあ、たまたま……」

「よかったらお祝いさせてください。仕事のお話とかゆっくり聞いてみたくて……」

「うん! もちろん!」

 目を輝かせて喜ぶ男を、心の中で笑いながら二人で会社に入る。その瞬間、千紗の足が止まった。

 見覚えのある人間がいる。

「おはよう」

 受付に立っていたのは湊斗と愛理だった。湊斗はさわやかな顔で千紗に挨拶をしたが、愛理は強張った顔で見ているだけだった。

 ひくっと千紗の顔が引きつる。一体何をしにきたというのか?

 だがこうなるのも想定内ではあった。二人かかって自分を責めるのだろうが、それはそれで都合がいい。自分は無関係だと証明すれば、こちらは悲劇のヒロインになれる。

(SNSで写真を撒いたのは身分証の証明が必要ない、小さな漫画喫茶のオープンスペースにあったパソコンからだし……私ってばれることはまずないんだよね)

 千紗はにこりと余裕のある笑みを浮かべた。

「二人揃ってどうしたの? びっくりしちゃった」

 それに対して湊斗もにこりと笑う。

「千紗を待ってたんだ。千紗がしでかしたとんでもないことについて、話したくて。何のことかわかるよね?」

 湊斗はそう言ったが、千紗は心の中で鼻で笑った。

(湊斗ってこんな勢い任せで動く奴だったの? バカみたい。証拠だってないくせに)

 千紗は小さく首を傾げた。

「私がしたこと? 何かあったの?」

 呆れた様子で湊斗は返事をする。

「自分がよくわかってるでしょ? こんなところで話したらまずいと思うけど……」

 湊斗が意味深な様子で言ったので千紗はピンときた。

(そうやって含みのある言い方をして、私が焦るのを待ってるってわけ……残念だけど、その手には乗らない。湊斗はもっと計画性のあるやつだと思ってたなあ)

 こっちは自爆なんかするわけがない。焦らず、むしろ堂々としていれば、必ずこちらが勝つ。

「全然わからないんだけど? 何の話? 言ってくれなきゃわかんない」

 しらばっくれる千紗を見て、湊斗はすうっと目を鋭くさせた。

(この反応は予想通りだな)

 湊斗は千紗の考えを見抜いていた。でもこれで、『こちらは別室で話そうと提案を持ち掛けたのに、千紗の方が話を始めた』という構図が完成した。

 せっかくチャンスをあげたのに。

「言っていいの?」

「私には全く身に覚えがないの!」

「愛理と山本の不倫があったような写真を偽造してばらまいたよね?」

「ええ!? 待って、そんなことがあったの? 私知らなかった……愛理、大丈夫なの!?」

 隣にいた同僚の男はきょとんとして千紗と湊斗たちを見ている。千紗はわざとらしいほどに苦痛の表情を浮かべて愛理に駆け寄った。

「ばらまいたってどういうこと? それより、不倫って……そんなことしてたの?」

「……千紗」

「私びっくりして……」

 愛理は眉を顰めて、ずっと友人だと思っていた目の前の女をじっと見た。

(長い付き合いだったのになあ……全然見抜けなかった)

 愛理は悲しみを感じながら言う。

「しらばっくれるのはやめて。私と山本くんがキスしたように見える写真を、山本くんと共謀して撮ったんでしょう? そしてそれをSNSや会社に送った」

「な、なんで私にそんな疑惑が掛けられているの? 山本って愛理の会社の人だよね。前、ちょっとしたことで知り合いになって、愛理について相談は受けたことがあるの。でも私は、愛理は湊斗と結婚してるから諦めた方がいいって伝えたんだよ。もしかして、私に濡れ衣を着せようとしてるの!? 愛理、大学時代からずっと仲がよかったのに信じてくれないなんてひどいよ……!」

 千紗はぶわっと目に涙を浮かべて顔を両手で覆った。慌てた千紗の同僚男が庇うように前に出る。

「あの、部外者がすみません。でもここでは何ですし、一旦三人でゆっくり話されてはどうですか? どうも勘違いがあるようですし……」

 ちらちらと周りを見ると、騒ぎに気づいた社員たちが不思議そうに足を止めて湊斗達を見ていた。泣く千紗と、怖い顔をしている湊斗と愛理。一見、被害者は千紗だ。

 だが千紗は涙目で男性を見上げる。

「私は大丈夫です。友達なんです。きっと話せばわかってくれると思うから……」

 中途半端なままで退場すると、よからぬ噂になりかねない。だったら自分は潔白だと証明して、湊斗と愛理が尻尾を撒いて逃げ出すまでみんなに見届けてもらった方が言いに決まっている。

 湊斗は表情を崩すことなく続ける。

「ええ、部外者は黙っていてください。先日、千紗と二人で話した時に彼女は認めていたんですよ。愛理を嵌めるために山本とキスをしているような写真を撮った、とね」

「なんの話? 湊斗、どうしてそんな嘘を言うの!? ひどい、二人して私を嵌めようとしてるんでしょう!」

「山本は全部千紗の計画に乗った、って話したよ」

 あのくそ男が、使えないな。もうバレたのかよ。

 千紗は心の中で呟くが、そんな証言は証拠にならないとわかっていた。

「山本って人が、罪を軽くするために私の名前を出したんだよ……! し、信じられない。こんなのってないよ。……、二人はそんな信憑性の低い発言を信じて今日ここまで来たの? 私、山本って人に嵌められたのよりそれの方がショックだよ。長く友達だったのに、私を信じてくれないんだ……」

 人はさらに集まってきていた。受付の女性は困ったようにおろおろし、警備員に連絡を始める。それを横目で見た湊斗はあまり時間がないな、と思った。

 千紗はさらに続ける。

「そんなに私を悪者にしたいなら証拠を出してよ!」

「例の写真が撮られた時の防犯カメラを見た」

 愛理が淡々と言う。一瞬だけ、千紗の表情が強張った。だが続く湊斗のセリフにすぐ安堵する。

「でも残念ながら千紗の姿は映ってなかった」

 千紗は表情を変えないまま静かに息を吐いた。

(あぶなー……カメラのチェックまでするとかヤバいじゃん。じゃああのキスが偽造ってことはバレちゃったのか……でもまあ、私が写ってないなら万歳。神様は私の味方なんじゃん)

「ほら! 映ってないんでしょう!? むしろ私が何もしてないっていう……」

 言いかけたところに、大音量でこんな声が響いた。

『そもそも愛理のどこがいいかちっともわからないし。もっと湊斗にはお似合いの人がいると思ったから教えてあげただけじゃない……!』

 ぴたりと言葉が止まる。

 湊斗が持つスマホから放たれているのは、紛れもなく千紗の声だった。
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