うそつきΩのとりかえ話譚

沖弉 えぬ

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二章

22自覚

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「そういやヒヨクは馬に乗れるんだよな? 馬に乗って旅しようとは思わなかったのか?」
 その答えは至って簡単で、これがお忍びの旅だからだ。馬で都を抜けようとすると些か目立ち過ぎるので今回は避けた。それを伝えると、『鶏』の邑までなら都を通らずに行けるのでどこかで馬を調達したらどうかと提案された。
 確かに、馬がいると何かと便利だ。一日の移動距離が格段に伸びる上、荷物を運ばせる事も出来る。つまり寝具一式を馬の背に括りつけて休憩小屋でも快適に夜を過ごせるという事だ。トキの妙策を褒めると「寝具、ね」と意味深に呟くのみだった。
 獬から西に位置する『狼』の邑についたのは獬を発って八時間ほど歩いた頃だ。日暮れまでまだ少しゆとりがあったのでトキの案内で家畜市場を訪ねてみる。
「うちの邑で使ってる輓馬ばんばも狼のところの競りで買ってくるんだ。狼は酪農も盛んで、ヤギの乳が美味いんだ! そういやうちで食ったよな?」
「ああ、頂いた。都にはそのまま飲めるほど新鮮な乳は流通しておらぬ。貴重な経験だった」
 競りは毎日やっているというものではないようだ。普通、運搬や農耕のために馬や牛を買う時、邑で買うか或いは複数の商家や農家で金を出し合って買う。個人で一頭所有するのはよっぽどの豪農商か金持ちの酔狂なのだそう。
 市場の外に張り出してあった紙には墨で大きく一週間後の日付けが書かれている。その下には牛と書いてあるのでつまり七日後にここで牛が売られるのだろう。
「これでは馬を買えぬが、どうするつもりだ?」
「どうもこうも、正面から交渉あるのみ!」
 進入禁止を表示するための縄を容易く乗り越えてトキは厩舎の方に行ってしまう。置いていかれても困るのはヒヨクなので、ええいままよという思いで緩く張られた縄を跨ぐ。
 早足でトキを追いかけると、トキは白髪が混じり始めた中年の男性に親し気に声を掛けた。
「おじさーん! トキだよ! 久しぶり」
 男はトキの姿を認めると、応、といった雰囲気で片手を上げる。
「母さんの従兄弟なんだ」
 なるほど身内の伝手を借りるのか。それは良い手だ。
 トキは二、三、近況報告も兼ねて従伯父いとこおじと雑談を交わした後で本題を切り出す。
 馬を一頭譲ってほしい。金は十分にある。それらを伝えると、一頭の馬を引いてきてくれる。その背の高さを見てトキは声を出して驚いた。
「これ、売れなかったろ、おじさん」
 トキの見定める目は確かで「大きすぎるせいで買い手がつかなかった」という答えが返ってくる。運搬用の駄馬にしても輓馬にしても確かに大きすぎるように見える。体高がちょうどヒヨクの頭くらいあるので馬の背中が一〇七センチ近くあるという事だ。曰く、普通の輓馬よりも二十センチほど体高が高く、その分重さもあるだろうという事だ。
 買い手は体の大きなこの馬を見て持て余すと判断したようだ。しかし目元は優しげで、全体によく筋肉がついてがっしりとしていて、薄茶の背中に生えた黒いたてがみが凛々しくて勇ましくもある。従伯父が手を差し出すと頬を寄せてくるほど懐いていて、良い馬だと分かった。
「うん、買った。いいよな、ヒヨク?」
「ああ、是非この馬を引き取らせてほしい」
 一袋分の銀貨と馬一頭を交換して、翌日トキとヒヨクは狼の邑を発つ。

 馬の背に寝具を載せて運ぼうとすると一人分しか括りつけられないと分かったところでトキが「寝具、か」と呟いた理由に察しがついた。どうやら休憩小屋で寝具の取り合いが発生するとトキは考えているらしい。しかしヒヨクは取り合いにならずに済むある方法を思いついていた。
 狼の邑を発ってしばらく、途中大きな川にかかった橋を渡ったすぐのところに休憩小屋が見えてくる。そして川を境に雪景色とのお別れだった。
 遠目に見える雪山を背景に、川で水を汲んでトキが集めた枯れ木で火を熾す。一度沸騰させた湯を程よく冷まして飲んで暖を取る。
 休憩小屋には必ず石の竈があった。さしもの盗人も竈までは盗っていかないようで、携帯用の鉄で出来た取っ手付きの水筒のようなものを火にかけて湯を沸かすのに竈を使った。火があるおかげで体を清める時にも冷水に布を浸すような修行めいた事をせずに済んだ。
 パチッと火が爆ぜる音で目が覚めて、トキと話しながらうたたねしてしまっていた事に気が付いた。
「そろそろ寝るか」
 休憩小屋には珍しく壁際に寝台と呼ぶにはあまりにお粗末な木と板を組み上げただけの一段高くなった場所が誂えてあった。そこにトキがぐるぐる丸めて丸太の形にしていた布団を敷いてくれる。今こそヒヨクの考えを試す時が来たのだ。
「お主の方が体が大きいからな、先に横になってくれ」
「いや、布団はヒヨクが使えよ」
「共に使おうと言っておるのだ」
「へ?」
 途端に間抜けな顔になったトキの肩を押して強引に寝台に座らせる。
「ほら、早く詰めろトキ」
 基本的には一人用の寝台に男が二人で横になると体が密着するのは避けられない。無論、分かっていてトキを先に寝台に寝かせた。何かと言い訳を見つけて布団を譲ろうとするだろう事は予想していたので、奥に詰めさせて逃がさない作戦だ。
 自分の体で堰をするように寝台に転がって、ぱっと顔を上げた時、思いの外近いところにトキの顔があって心臓が跳ねた。
 しまった。これでは顔を上げられない。上げなくても別に構わないのだが、ちょっと上を見ればそこにトキの顔があるという意識だけで心臓が早鐘を打つ。
「あの、さ、ヒヨク。やっぱ別々で」
「駄目だ」
「……こだわるな」
「か、体を悪くする」
 言い訳めいているがしっかり休んだ方が良いというのは旅の基本だ。
 しばらく無言が続いた。さっきはうとうとと船を漕いでいたのに、今はばっちり目が冴えている。目の前で服を着ていても分かるほど厚い胸板が膨らんでは萎むのが見える。今夜は憎い事に晴天だ。
 ふ、と気を抜くとトキのアルファの匂いが空気に混じっている事を意識してしまう。体が、熱い。しかしこうなる事は分かっていて、わざとこうして密着するよう仕向けたのはヒヨクだった。ヒヨクがトキの匂いを感じているという事は、つまりトキも今同じ状況になっているという事だ。
 気付くと、何か起これ、と思っている自分が居た。
 トキの母に言われたことが頭を巡っている。これは彼女の忠告を無下にする配慮に欠けた自己満足に近い行動だ。それでも、自制がきかない。否、自制したくないのだ。
 ややあって、頭の上から溜め息が聞こえてきた。その瞬間、膨らみに膨らんでいた期待が針を刺されたようにみるみると萎んでいくのが分かる。自分の愚かな行動に呆れられてしまったのだ。我に返るとトキの事を試すような真似をした事に気付いて余計に自己嫌悪が募る。
 何故こんな浅はかな真似をしてしまったのか。名案だと思っていた共寝が独りよがりなやましい行動だったと気付かされて泣きたくなってくる。
 ヒヨクはいつからこんなに弱くなってしまったのだろう。アルファらしくせねばと懸命に意地を張ってきたおかげでヒヨクはちょっとやそっとではへこたれない精神を身につけてきたつもりだったが、トキの事になると途端に弱くなり、自分に自信がなくなる。変な形でトキの母に阿ろうとしてしまったのだと、昨晩の事や今朝の事が蘇ってきて尚更いたたまれなくなった。
 そうなると今のこの状況が本当に恥ずかしい事に思えてきて、ヒヨクは慌てて寝台を降りようとした。
「す、すまない。やはり」
「逃げんのかよ?」
 どういう意味だと思って咄嗟に上を向いた額に何か柔くてあたたかいものが触れて、離れた。
「く……そ、俺も意気地がねぇな!!」
 トキは吼えて、両手で顔を覆う。ヒヨクも自分の額に指先で触れる。何をされたのか、分からないほど初心ではない。
 ドキドキしている。胸が痛い。さっきまで自分の愚かさを恥じていたところだっというのに、何だこれは。
「ヒヨク、俺大事にしろって言ったばっかだろ……」
「トキ」
「そんで俺は……俺があんたを大事にするって宣言したんだったよなぁー……」
 顔を覆ったままトキが葛藤している。
「な、何を、悩む?」
「大事にしたいからって、言ったじゃん! また暴走してあんたの事怖がらせたくないの!」
 そうかつまり、葛藤するのはヒヨクのためなのだ。そうと分かると、言葉にしがたいものが次から次へと溢れてくる。トキはヒヨクのために必死にアルファの欲求に耐えている。
 自分を大切にしたいと思う男が耐える姿が、こんなにも愛おしい。
「ト、トキ」
 大きく呼吸を繰り返すトキの胸に手を置こうとするとトキの体が過剰に反応して大きく跳ねた。
「今、あんたを抱いちまったら俺は絶対に噛む! 噛む自信しかない!」
 それでもいい。そうしてほしい。ヒヨクの奥底にあるとても根源的な何かが震えてそう訴えている。
 だけどトキは抗っているのだ。何故ならヒヨクを大事にしたいから。
 嬉しい、嬉しい。
「うおっ、ヒヨク!?」
 もうそうする事でしか自分の中で起きている衝動のやり過ごし方が分からなかった。トキの広い胸に額をぎゅうぎゅうと押し当てて、片腕をトキの背中に巻き付ける。
「話聞いてたか!?」
「そなたなら、せぬよ。信じる。俺は、トキを信じる」
 ヒヨクの頭の上で言葉にならない呻きのような悲鳴のような奇妙な声を上げている。
 ヒヨクを大事にしてくれる事が嬉しい。だけど別にトキが本能に負けたって構わない。そう思う気持ちを表現する言葉が一つ胸の奥で見つかって、トキはその言葉を自然と舌の上に乗せていた。
「トキ、俺はお前の事が好きだぞ」
 口にしてしまうととても清々しい気分になった。
 彼には心に決めた想い人が居る。その邪魔をするつもりはないが、ヒヨクの気持ちを伝えてはならない理由はどこにもないと、今そう思ったのだ。
 答えは必要ない。どちらかと言えば聞きたくないのでトキの呼び掛ける声は寝たフリをして無視した。
 彼を好ましく思う気持ちだけで心がこんなにもあたたかい。それで十分だ。
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