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二章
23海の邑
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翌朝目が覚めるとトキは両手を万歳したような体勢で眉間に皺を寄せて眠っていた。変わった寝相だ。彼の実家で厄介になっていた時でもこんな寝相は見なかったと思うが、夢でも見ていたのだろうか。
草を食んでいた馬の食事が終わるのを待ってからその背に荷を積む。移動はヒヨクが手綱を持ち、その後ろにトキが跨る。昨夜のトキはよっぽど夢見が悪かったらしく、道中で眠たげにしていたので「落ちない程度に上手く休め」と言って肩を貸した。ぐったりとヒヨクの肩に頭を凭れさせたトキは少々気の毒になるくらい疲れて見えた。可哀想だという気持ちはあるものの、一方で顔が近付くと胸がドキドキするのを止められない。昨晩自覚した想いのせいで今日は頭も気持ちもふわふわと高揚している。おかげで落馬しないよう度々気を引き締めなくてはならなかった。
雪がなくなるとやはり旅の速度は速くなった。馬での移動の甲斐もあって、蝙蝠の邑、雉の邑をおよそ一日と半で通過し、どんどん南下してあっという間に『日の大邑』に入った。
日の大邑は水の大邑と並ぶ沿岸都市だ。造船技術が発達したおかげで近隣の島と海路を使って交易しており、様々な珍しいものが入ってくる。
しかしそこからが長かった。国の西側に位置する『土の大邑』は街道が整備され郵便や配達業のような馬を使う者たちなら必ず西側を使うほど道がほとんど真っすぐ南北に伸びているが、そこから先の道は専ら悪路だ。馬に乗って走らせると無理をするような道は二人とも背から降りて荷だけを運ばせたりという事が必要だった。
そうして実に七日目の朝、漸く『鶏』の邑に到着した。
「海だ! トキ、海が見えたぞ!!」
「これが海か……!」
ずっと遠くに見えていただけの海に漸く直に触れられる距離まで来て感動もひとしおだ。寄せては返す波によって削られた岩が上手い具合に階段のようになった所から海に降りて海水に触れてみる。川の水よりもぬるくて、風は独特の匂いがする。
「おーい落ちんなよー!」
そうは言ってもトキも海は初めてで、ヒヨクと同じように海の様子に興味津々だ。ヒヨクが岩を登って戻ってくると交代でトキも下に降りていく。
「不思議だな。山も無いのに、近くのセイシンと交易している島国が見えぬ」
「俺たちが思ってるよりも遠いんだろうな」
ふと、異国での双子やオメガがどんな風に暮らしているのか気になった。いつか機会があったらセイシンの外を見てみたい。セイシンにとってヒヨクは居ても居なくてもさほど変わらない存在なのだから、その夢は案外叶うもののような気がする。
満足行くまで海を眺めた後、まずは邑の役所を目指す。
邑で一番栄えた役所のある地域はこれまた景色が一変する。漆喰塗りの壁で出来た家が緩やかな傾斜に沿ってひしめき合うように建っており、視界が焼けそうなそうなほど一面真っ白だ。中央から北側はほとんどが曇天に覆われていたのに対して南部は冬でも空が青く雲が少ない。雪の白さとも違う漆喰壁を映した空の青さは気分を清々しくさせてくれた。
「役所を見つけたぞ、トキ」
立て札を見つけてトキを手招く。邑に入った辺りから降りていた馬に再び跨り、素焼きの粘土を敷き詰め舗装された路地を進む。
役所でカク先生の事を訊ねてみると、最初職員は首を傾げた。カクという名の人間は住民名簿には載っていないという。しかしすぐに「カクという方は分かりませんが」と続けてヒヨクが探している人物に似ている人が居る事を教えてくれる。
「数年前に邑の外れのスバルという人のところに腕の良い薬師の方が移ってこられて、邑のお年寄りはよく先生のお世話になってますよ」
「その人の年齢は?」
ヒヨクがお忍びの旅である事情を踏まえ、役所のような公共の場では基本的にトキが窓口になって話してくれる。ヒヨクは横から補足を入れるくらいにしておけと言われてその通りにしていた。何でもヒヨクからは身分の高そうな雰囲気がするから、指摘されたら誤魔化せないと言うのだ。
「五十か、それくらいだったかと。黒髪だから北部の人ですかね? 痩せっぽちで、ちょっと陰気な感じで。あ、でも腕は本当にいいみたいですよー」
「そうか。分かった、ありがとう」
「いえいえー」
南部の人柄はのんびりしていておおらかな人が多い。「何とかなるさー」の精神のおかげで邑の雰囲気が明るいのが特徴だ。しかしセイシンの邑には違いないので双子忌避はある。もしも双子が生まれたら、海沿いの邑では海を越えた先の国に双子の片割れを連れて行って引き取ってもらうそうだ。恐らくこの国で最も平和的な双子への対処法だ。
役所の人に教えてもらった情報を頼りに鶏の邑の南西にある砂浜の方へと向かう。夏になれば地元の子供たちが泳ぎにくる浜辺は入り江になっており、陸が海を囲うように緩やかな半円型になっている。
砂浜の砂はこれまで歩いてきた地面とはまったく違って靴が深く埋まっていく。雪とも違う感触で、滑りはしないが足を取られるので雪よりも歩きにくいくらいだ。
波が小石を浚って動くのが面白くて波打ち際を歩いていると、油断していたのかここまでは来ないと思っていたところまで波が押し寄せてきて靴を濡らしてしまう。
「あっ」という声がトキの方からも聞こえてきたのでお互い波を読み違えて靴を海水に浸してしまったようだ。振り返ったトキがヒヨクの足元を見て笑っている。
砂浜を抜けると邑の中央部とは打って変わってぽつ、ぽつ、と数軒の家が点在する地域に辿り着く。南部らしいソテツやヤシが海風に煽られ葉を揺らす下に家があるかと思いきや、なんと海の中に家が建っていた。何だあれはとトキが駆けて行く後ろを馬とゆっくりついていく。
どうやらこの辺りは遠浅の海になっているようで、長い杭を海水の中に打ち込んで住居を水面から離れたところに浮かせるようにして家を建てているようだ。高床式の住居の一種だが他で見るそれとはまるで趣が違って見える。
ふと、昔カク先生が「薬は湿気が大敵なんです」と言っていた事を思い出した。こんな海辺の真ん中で薬師とはやっていけるものなのだろうか。俄かに疑い始めたヒヨクだったが、水上に浮かぶ家屋から一人の男が出てきて目を瞠る。
「カク先生だ……」
ヒヨクの呟きを聞き取って、トキが馬の手綱を預かってくれる。
こんなにも早く見つかるなんて思いもしなかった。地面を蹴る足が軽い。
「先生!」
手に何か抱えた男がヒヨクを振り返る。黒い髪、ひょろりと高い背、白い肌と、緑の目。視線が交わった。
「あなたは……っ」
カク先生はヒヨクを見るなり表情を一変させ家に戻ってしまう。何故、という疑問が形を取るより早く体が動き先生を追いかける。
「待ってくれ! 俺だ、ヒヨクだ!」
「分かっていますよ! だから逃げたんです!」
カク先生が手にしていたのは重ねられた乳鉢だ。これから洗うつもりだったのだなと頭の端で考える。考えながら逃げ出された事に衝撃を受けていた。
ヒヨクが言葉を継げず黙っていると「お引き取り下さい」と静かに言われ、バタンと音を立てて目の前で扉が閉まった。しばらく、その場から動けなかった。
「ヒヨク」
名を呼ばれて振り返ると、トキは一度ぎゅっと唇を引き結んでから「出直そう」と言ってくれた。
草を食んでいた馬の食事が終わるのを待ってからその背に荷を積む。移動はヒヨクが手綱を持ち、その後ろにトキが跨る。昨夜のトキはよっぽど夢見が悪かったらしく、道中で眠たげにしていたので「落ちない程度に上手く休め」と言って肩を貸した。ぐったりとヒヨクの肩に頭を凭れさせたトキは少々気の毒になるくらい疲れて見えた。可哀想だという気持ちはあるものの、一方で顔が近付くと胸がドキドキするのを止められない。昨晩自覚した想いのせいで今日は頭も気持ちもふわふわと高揚している。おかげで落馬しないよう度々気を引き締めなくてはならなかった。
雪がなくなるとやはり旅の速度は速くなった。馬での移動の甲斐もあって、蝙蝠の邑、雉の邑をおよそ一日と半で通過し、どんどん南下してあっという間に『日の大邑』に入った。
日の大邑は水の大邑と並ぶ沿岸都市だ。造船技術が発達したおかげで近隣の島と海路を使って交易しており、様々な珍しいものが入ってくる。
しかしそこからが長かった。国の西側に位置する『土の大邑』は街道が整備され郵便や配達業のような馬を使う者たちなら必ず西側を使うほど道がほとんど真っすぐ南北に伸びているが、そこから先の道は専ら悪路だ。馬に乗って走らせると無理をするような道は二人とも背から降りて荷だけを運ばせたりという事が必要だった。
そうして実に七日目の朝、漸く『鶏』の邑に到着した。
「海だ! トキ、海が見えたぞ!!」
「これが海か……!」
ずっと遠くに見えていただけの海に漸く直に触れられる距離まで来て感動もひとしおだ。寄せては返す波によって削られた岩が上手い具合に階段のようになった所から海に降りて海水に触れてみる。川の水よりもぬるくて、風は独特の匂いがする。
「おーい落ちんなよー!」
そうは言ってもトキも海は初めてで、ヒヨクと同じように海の様子に興味津々だ。ヒヨクが岩を登って戻ってくると交代でトキも下に降りていく。
「不思議だな。山も無いのに、近くのセイシンと交易している島国が見えぬ」
「俺たちが思ってるよりも遠いんだろうな」
ふと、異国での双子やオメガがどんな風に暮らしているのか気になった。いつか機会があったらセイシンの外を見てみたい。セイシンにとってヒヨクは居ても居なくてもさほど変わらない存在なのだから、その夢は案外叶うもののような気がする。
満足行くまで海を眺めた後、まずは邑の役所を目指す。
邑で一番栄えた役所のある地域はこれまた景色が一変する。漆喰塗りの壁で出来た家が緩やかな傾斜に沿ってひしめき合うように建っており、視界が焼けそうなそうなほど一面真っ白だ。中央から北側はほとんどが曇天に覆われていたのに対して南部は冬でも空が青く雲が少ない。雪の白さとも違う漆喰壁を映した空の青さは気分を清々しくさせてくれた。
「役所を見つけたぞ、トキ」
立て札を見つけてトキを手招く。邑に入った辺りから降りていた馬に再び跨り、素焼きの粘土を敷き詰め舗装された路地を進む。
役所でカク先生の事を訊ねてみると、最初職員は首を傾げた。カクという名の人間は住民名簿には載っていないという。しかしすぐに「カクという方は分かりませんが」と続けてヒヨクが探している人物に似ている人が居る事を教えてくれる。
「数年前に邑の外れのスバルという人のところに腕の良い薬師の方が移ってこられて、邑のお年寄りはよく先生のお世話になってますよ」
「その人の年齢は?」
ヒヨクがお忍びの旅である事情を踏まえ、役所のような公共の場では基本的にトキが窓口になって話してくれる。ヒヨクは横から補足を入れるくらいにしておけと言われてその通りにしていた。何でもヒヨクからは身分の高そうな雰囲気がするから、指摘されたら誤魔化せないと言うのだ。
「五十か、それくらいだったかと。黒髪だから北部の人ですかね? 痩せっぽちで、ちょっと陰気な感じで。あ、でも腕は本当にいいみたいですよー」
「そうか。分かった、ありがとう」
「いえいえー」
南部の人柄はのんびりしていておおらかな人が多い。「何とかなるさー」の精神のおかげで邑の雰囲気が明るいのが特徴だ。しかしセイシンの邑には違いないので双子忌避はある。もしも双子が生まれたら、海沿いの邑では海を越えた先の国に双子の片割れを連れて行って引き取ってもらうそうだ。恐らくこの国で最も平和的な双子への対処法だ。
役所の人に教えてもらった情報を頼りに鶏の邑の南西にある砂浜の方へと向かう。夏になれば地元の子供たちが泳ぎにくる浜辺は入り江になっており、陸が海を囲うように緩やかな半円型になっている。
砂浜の砂はこれまで歩いてきた地面とはまったく違って靴が深く埋まっていく。雪とも違う感触で、滑りはしないが足を取られるので雪よりも歩きにくいくらいだ。
波が小石を浚って動くのが面白くて波打ち際を歩いていると、油断していたのかここまでは来ないと思っていたところまで波が押し寄せてきて靴を濡らしてしまう。
「あっ」という声がトキの方からも聞こえてきたのでお互い波を読み違えて靴を海水に浸してしまったようだ。振り返ったトキがヒヨクの足元を見て笑っている。
砂浜を抜けると邑の中央部とは打って変わってぽつ、ぽつ、と数軒の家が点在する地域に辿り着く。南部らしいソテツやヤシが海風に煽られ葉を揺らす下に家があるかと思いきや、なんと海の中に家が建っていた。何だあれはとトキが駆けて行く後ろを馬とゆっくりついていく。
どうやらこの辺りは遠浅の海になっているようで、長い杭を海水の中に打ち込んで住居を水面から離れたところに浮かせるようにして家を建てているようだ。高床式の住居の一種だが他で見るそれとはまるで趣が違って見える。
ふと、昔カク先生が「薬は湿気が大敵なんです」と言っていた事を思い出した。こんな海辺の真ん中で薬師とはやっていけるものなのだろうか。俄かに疑い始めたヒヨクだったが、水上に浮かぶ家屋から一人の男が出てきて目を瞠る。
「カク先生だ……」
ヒヨクの呟きを聞き取って、トキが馬の手綱を預かってくれる。
こんなにも早く見つかるなんて思いもしなかった。地面を蹴る足が軽い。
「先生!」
手に何か抱えた男がヒヨクを振り返る。黒い髪、ひょろりと高い背、白い肌と、緑の目。視線が交わった。
「あなたは……っ」
カク先生はヒヨクを見るなり表情を一変させ家に戻ってしまう。何故、という疑問が形を取るより早く体が動き先生を追いかける。
「待ってくれ! 俺だ、ヒヨクだ!」
「分かっていますよ! だから逃げたんです!」
カク先生が手にしていたのは重ねられた乳鉢だ。これから洗うつもりだったのだなと頭の端で考える。考えながら逃げ出された事に衝撃を受けていた。
ヒヨクが言葉を継げず黙っていると「お引き取り下さい」と静かに言われ、バタンと音を立てて目の前で扉が閉まった。しばらく、その場から動けなかった。
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