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「エマ、入れ。」
クラウス公爵の書斎の重厚な扉が、私の一歩を告げるように軋んだ。木の匂いと冷たい石床の感触が、私の鼓動をいっそう高鳴らせる。胸の奥がきりりと痛み、指先の震えが止まらない。何度も深呼吸し、絹のドレスの裾をそっと撫でる。私は、おしとやかに振る舞わねばならなかった──公爵にしては異例の“面会”なのだから。
「――エマ・セルディ。君の婚約を、ここに破棄する」
クラウスは書類を無造作に机の上に叩きつけると、冷たい瞳で私を見下ろした。言葉は短く、刃のように鋭い。
「……は?」
私の声は、まるで秘密裏に埋め込まれた爆弾のように、微かに震えた。頭が真っ白になり、しばらくは言葉が出ない。公爵と呼ばれるその男は、私を見下ろすだけで、何も弁解の余地を与えようとしない。
「理由は――些細なことだ。昨夜の舞踏会で、君は私が隣にいるにも関わらず、あの貴婦人とばかりおしゃべりに興じていた。まるで私が存在しないかのように」
彼の言葉は的外れで、どこか不自然に感じた。昨夜、私は舞踏会で何度も軽く会釈し、彼の笑顔を一目だけ追った。それなのに、たった一度の気まぐれを理由に婚約破棄とは。あまりに一方的で、理不尽な仕打ちだ。
「それだけが理由……ですか?」
言葉を絞り出すと、クラウスは鼻で笑った。
「他にもある。君の言葉遣いが、不作法に思えたことも一つだ。『公爵様』とも呼ばず、私に向かって少し馴れ馴れしかった。──私は貴族だからな。礼節をわきまえるべきだろう?」
胸の奥で何かがずたずたに引き裂かれるようだった。幼い頃から家のために、そしてこの婚約のために私は礼儀作法を学んできた。どれほど気をつけてきたか。なのに、その努力は一瞬で無価値にされる。
(なんて幼稚……。舞踏会でのおしゃべり一つで婚約を解消するなんて。あなたのほうが不作法で傲慢なくせに)
心の中で鋭い皮肉を呟く。けれど、その声は私自身にしか聞こえない。表向きは震える唇で、ゆっくりと頭を下げた。
「かしこまりました、クラウス公爵様」
言葉を口にした瞬間、自分が何をしているのか分からなくなるほど、心が凍りついた。だがそれ以上に、嘲笑が彼の瞳の奥に揺らめいているのが見えた。私の屈辱に、彼はほんの少し、嬉しそうに微笑んだ。
「では、この紙に署名を」
紙切れに朱筆で印を押す。インクの匂いが鼻をつき、指先から熱が逃げていくようだ。一文一句読まずとも内容は明白だった──婚約破棄通知。私はため息をひとつ漏らし、震える手で印を押した。
「これで正式に破棄となる。君には、今日をもって一切の権利はない」
言い放つと、クラウスは書類を持ち上げ、壁の本棚の上に投げつけた。本がいくつか滑り落ち、床で硬い音を立てる。彼は気にも留めない様子で椅子にもたれかかり、私をじっと見つめた。
「さあ、退場するといい。ここはもう、君の居場所ではない」
その言葉は、私の身体の奥底を氷のように冷たく突き刺した。けれど、表情一つ変えずに私は深くお辞儀をし、背筋を伸ばした。
「失礼いたします、クラウス公爵様」
一歩、また一歩、後ずさる。視界の隅で、先ほど落ちた本が散らばる様子が見えた。あの本の中には何が書かれているのだろう――私にはもう関係のないことだと、自分に言い聞かせる。
(こんなにも冷たい人だなんて。だけど、私の中ではもう少しだけ、あなたに期待していた自分がいる……)
胸が締めつけられる。けれどそれ以上に、怒りがゆっくりと心に渦巻いていた。クラウスの高慢で理不尽な振る舞いに対して、私の内心では冷たい笑いがこぼれている。
「――おい、エマ」
背後から呼び止められる。振り向くと、彼の表情はほんのわずかに揺らいだように見えた。
「君……本当に、これでいいのか?」
その一言に、私は小さく息を飲む。心の中でかすかな期待が生まれかける。しかし、すぐに呆れた気持ちが勝った。
(期待、なんて愚かな……自分をもっと大切にしなさい)
「はい、これで結構です」
私はきっぱりと言い切り、また一歩踏み出した。書斎の扉を背にして、私はその場に立ちすくむ。寒い廊下の空気が私を包み込むと、ようやく体温が戻ってくるように感じた。
胸に刻まれた痛みはまだ熱く、指先に残るインクの感触も消えやしない。だが、それでも私は前を向かなければならない。ここで折れるわけにはいかないのだ。
(クラウス・エーカー……貴様の名前は、もう二度と口にしない)
硬く心に誓い、私はゆっくりと廊下を歩き出した。春の柔らかな光が窓から差し込み、波紋のように床を照らす。私の新しい物語は、ここから始まるのだ──。
書斔の扉を背にして、一歩また一歩、石畳の廊下を抜けるたびに、私の心臓は鉛のように重く沈んでいった。薄暗い廊下の端々に、かすかな蝋燭の灯りが揺れている。誰も私を呼び止めず、誰も振り返らない。まるで、私は存在しないかのように――それが、何よりも痛かった。
──城門をくぐると、冷たい春の風が頬を撫でた。
「お嬢様!」
下働きのルイーザが駆け寄ってきて、驚いたように目を大きく見開いた。
「どうしたのです? お帰りになるには早すぎ――」
言葉を続けられぬまま、彼女の瞳に映ったものは――震える私の手に握られた、あの紙切れだった。
「……婚約破棄、だって?」
ルイーザの声はかすれ、息が詰まりそうだった。私は黙ってうなずくしかなかった。
「そんな……どうして? お嬢様は、公爵様の御寵愛を……」
「寵愛だなんて」
自然と、皮肉交じりに口をついて出た。ルイーザは俯き、言葉を詰まらせる。私もまた、言葉を失った。
──馬車はゆっくりと進み、家に近づくほどに、胸の奥が苦しくなる。
「エマ、帰ってきたのか?」
門をくぐると、父の姿が見えた。疲れ切った様子の背中に呼びかけるが、声はかすれて届かない。
「父上……」
震える声でそう告げると、父は振り返り、目に光るものを隠すようにそっと目を細めた。
「……婚約は、どうなった?」
冷静を装う父の声には、心配と苛立ちが入り混じっていた。私は深く息を吸い、紙切れを差し出す。
父の眉がぴくりと動く。母も慌てて駆け寄り、目を見開いた。
「これは……!」
母は紙を手に取り、読み上げる。
「『婚約破棄通知』……これは公爵様のお仕置きみたいなもの?」
胸に刺さる言葉。私は首を振る。
「理由は……『つまらないおしゃべり』と、『礼儀知らず』だそうです」
──母の顔が青ざめ、やがて俯いた。父は紙をそっと母に渡すと、深いため息をつき、静かに言った。
「お前が悪いわけではない。だが、この先どうするつもりだ?」
私は答えに窮した。家を守るための政略結婚だったはずなのに、婚約が破棄された今、私の居場所はどこにもない。
「わたしには……どうしたら」
母がそっと手を取り、優しく握った。
「まずは落ち着きなさい。城では聞こえなかったかもしれないが、最近、公爵様の周りでは妙な噂があるの──」
「噂?」
私は思わず顔を上げた。母の声は小さく、しかし確信に満ちていた。
「賄賂に手を染めているとか、惜しげもなく黄金をばら撒いているとか……まことしやかな話だけれど」
その言葉に、私の胸の奥で小さな違和感がうずいた。クラウスが汚職? まさか、そんな──。
「噂なんて信じられないわ」
私は必死に否定した。だが、母の瞳はどこか悲しげで、痛みを帯びているように見えた。
──夜が更ける頃、私の部屋では、窓辺に座る私の後ろで、かすかな物音がした。
「エマ様」
小さな声が響く。そっと振り向くと、ルイーザが忍び足で入ってきた。手には小箱を抱えている。
「これ……見てもらえますか?」
言われるまま小箱を開くと、中にはクリスタルのインク壺と、見覚えのない帳面が入っていた。表紙には、公爵家の紋章――だが、その下に細かい文字で「受領一覧」とだけ書かれている。
「これ、公爵様の書斎から……持ち出したそうです」
ルイーザの声はひそひそと、それでいて震えている。私はそっと帳面を手に取った。ページをめくるたびに、数字や日付、地名がびっしりと並び、その横には“銀貨五百”“ワイン樽十”“貴族料金千”などの文字が走っている。読み進めるほどに、胃が締めつけられるようだった。
(クラウス……あなたは、一体何をしていたの?)
胸の奥で、初めて恐怖が広がった。政略結婚の相手としてだけでなく、一人の人間として彼を見ようとした自分が、これまでどれほど愚かだったか。だが同時に、問いかけずにはいられない。
「こんなにたくさん……これは、賄賂? それとも……」
ルイーザは俯き、言葉を選ぶように口を開く。
「お嬢様……もしこれが公に晒されたら、公爵家どころか王都中が大騒ぎになります。私たち下働きですら、口を滑らせると取り返しがつかないと聞きました」
暗い部屋で、インク壺がまるで私を責めるかのように鈍く光る。私はその光に目を凝らしながら、震える声で言った。
「放っておけばいい。私は――関係ない」
自分に言い聞かせるように呟いたが、言葉には力がなかった。胸の奥では、怒りでも悲しみでもない、――形容しがたい感情が渦巻いている。
「ただ……どうやって生きていけばいいのか、まったく分からないの」
ルイーザはそっと、帳面とインク壺を抱きしめるように胸に押し当てた。
「お嬢様、一人じゃありません。わたしがいます」
その言葉に、初めて涙がこぼれ落ちた。枕を濡らすほどではない、ほのかな塩気を含んだ涙。けれど、その涙が私の心に少しだけ温もりを灯した。
クラウス公爵の書斎の重厚な扉が、私の一歩を告げるように軋んだ。木の匂いと冷たい石床の感触が、私の鼓動をいっそう高鳴らせる。胸の奥がきりりと痛み、指先の震えが止まらない。何度も深呼吸し、絹のドレスの裾をそっと撫でる。私は、おしとやかに振る舞わねばならなかった──公爵にしては異例の“面会”なのだから。
「――エマ・セルディ。君の婚約を、ここに破棄する」
クラウスは書類を無造作に机の上に叩きつけると、冷たい瞳で私を見下ろした。言葉は短く、刃のように鋭い。
「……は?」
私の声は、まるで秘密裏に埋め込まれた爆弾のように、微かに震えた。頭が真っ白になり、しばらくは言葉が出ない。公爵と呼ばれるその男は、私を見下ろすだけで、何も弁解の余地を与えようとしない。
「理由は――些細なことだ。昨夜の舞踏会で、君は私が隣にいるにも関わらず、あの貴婦人とばかりおしゃべりに興じていた。まるで私が存在しないかのように」
彼の言葉は的外れで、どこか不自然に感じた。昨夜、私は舞踏会で何度も軽く会釈し、彼の笑顔を一目だけ追った。それなのに、たった一度の気まぐれを理由に婚約破棄とは。あまりに一方的で、理不尽な仕打ちだ。
「それだけが理由……ですか?」
言葉を絞り出すと、クラウスは鼻で笑った。
「他にもある。君の言葉遣いが、不作法に思えたことも一つだ。『公爵様』とも呼ばず、私に向かって少し馴れ馴れしかった。──私は貴族だからな。礼節をわきまえるべきだろう?」
胸の奥で何かがずたずたに引き裂かれるようだった。幼い頃から家のために、そしてこの婚約のために私は礼儀作法を学んできた。どれほど気をつけてきたか。なのに、その努力は一瞬で無価値にされる。
(なんて幼稚……。舞踏会でのおしゃべり一つで婚約を解消するなんて。あなたのほうが不作法で傲慢なくせに)
心の中で鋭い皮肉を呟く。けれど、その声は私自身にしか聞こえない。表向きは震える唇で、ゆっくりと頭を下げた。
「かしこまりました、クラウス公爵様」
言葉を口にした瞬間、自分が何をしているのか分からなくなるほど、心が凍りついた。だがそれ以上に、嘲笑が彼の瞳の奥に揺らめいているのが見えた。私の屈辱に、彼はほんの少し、嬉しそうに微笑んだ。
「では、この紙に署名を」
紙切れに朱筆で印を押す。インクの匂いが鼻をつき、指先から熱が逃げていくようだ。一文一句読まずとも内容は明白だった──婚約破棄通知。私はため息をひとつ漏らし、震える手で印を押した。
「これで正式に破棄となる。君には、今日をもって一切の権利はない」
言い放つと、クラウスは書類を持ち上げ、壁の本棚の上に投げつけた。本がいくつか滑り落ち、床で硬い音を立てる。彼は気にも留めない様子で椅子にもたれかかり、私をじっと見つめた。
「さあ、退場するといい。ここはもう、君の居場所ではない」
その言葉は、私の身体の奥底を氷のように冷たく突き刺した。けれど、表情一つ変えずに私は深くお辞儀をし、背筋を伸ばした。
「失礼いたします、クラウス公爵様」
一歩、また一歩、後ずさる。視界の隅で、先ほど落ちた本が散らばる様子が見えた。あの本の中には何が書かれているのだろう――私にはもう関係のないことだと、自分に言い聞かせる。
(こんなにも冷たい人だなんて。だけど、私の中ではもう少しだけ、あなたに期待していた自分がいる……)
胸が締めつけられる。けれどそれ以上に、怒りがゆっくりと心に渦巻いていた。クラウスの高慢で理不尽な振る舞いに対して、私の内心では冷たい笑いがこぼれている。
「――おい、エマ」
背後から呼び止められる。振り向くと、彼の表情はほんのわずかに揺らいだように見えた。
「君……本当に、これでいいのか?」
その一言に、私は小さく息を飲む。心の中でかすかな期待が生まれかける。しかし、すぐに呆れた気持ちが勝った。
(期待、なんて愚かな……自分をもっと大切にしなさい)
「はい、これで結構です」
私はきっぱりと言い切り、また一歩踏み出した。書斎の扉を背にして、私はその場に立ちすくむ。寒い廊下の空気が私を包み込むと、ようやく体温が戻ってくるように感じた。
胸に刻まれた痛みはまだ熱く、指先に残るインクの感触も消えやしない。だが、それでも私は前を向かなければならない。ここで折れるわけにはいかないのだ。
(クラウス・エーカー……貴様の名前は、もう二度と口にしない)
硬く心に誓い、私はゆっくりと廊下を歩き出した。春の柔らかな光が窓から差し込み、波紋のように床を照らす。私の新しい物語は、ここから始まるのだ──。
書斔の扉を背にして、一歩また一歩、石畳の廊下を抜けるたびに、私の心臓は鉛のように重く沈んでいった。薄暗い廊下の端々に、かすかな蝋燭の灯りが揺れている。誰も私を呼び止めず、誰も振り返らない。まるで、私は存在しないかのように――それが、何よりも痛かった。
──城門をくぐると、冷たい春の風が頬を撫でた。
「お嬢様!」
下働きのルイーザが駆け寄ってきて、驚いたように目を大きく見開いた。
「どうしたのです? お帰りになるには早すぎ――」
言葉を続けられぬまま、彼女の瞳に映ったものは――震える私の手に握られた、あの紙切れだった。
「……婚約破棄、だって?」
ルイーザの声はかすれ、息が詰まりそうだった。私は黙ってうなずくしかなかった。
「そんな……どうして? お嬢様は、公爵様の御寵愛を……」
「寵愛だなんて」
自然と、皮肉交じりに口をついて出た。ルイーザは俯き、言葉を詰まらせる。私もまた、言葉を失った。
──馬車はゆっくりと進み、家に近づくほどに、胸の奥が苦しくなる。
「エマ、帰ってきたのか?」
門をくぐると、父の姿が見えた。疲れ切った様子の背中に呼びかけるが、声はかすれて届かない。
「父上……」
震える声でそう告げると、父は振り返り、目に光るものを隠すようにそっと目を細めた。
「……婚約は、どうなった?」
冷静を装う父の声には、心配と苛立ちが入り混じっていた。私は深く息を吸い、紙切れを差し出す。
父の眉がぴくりと動く。母も慌てて駆け寄り、目を見開いた。
「これは……!」
母は紙を手に取り、読み上げる。
「『婚約破棄通知』……これは公爵様のお仕置きみたいなもの?」
胸に刺さる言葉。私は首を振る。
「理由は……『つまらないおしゃべり』と、『礼儀知らず』だそうです」
──母の顔が青ざめ、やがて俯いた。父は紙をそっと母に渡すと、深いため息をつき、静かに言った。
「お前が悪いわけではない。だが、この先どうするつもりだ?」
私は答えに窮した。家を守るための政略結婚だったはずなのに、婚約が破棄された今、私の居場所はどこにもない。
「わたしには……どうしたら」
母がそっと手を取り、優しく握った。
「まずは落ち着きなさい。城では聞こえなかったかもしれないが、最近、公爵様の周りでは妙な噂があるの──」
「噂?」
私は思わず顔を上げた。母の声は小さく、しかし確信に満ちていた。
「賄賂に手を染めているとか、惜しげもなく黄金をばら撒いているとか……まことしやかな話だけれど」
その言葉に、私の胸の奥で小さな違和感がうずいた。クラウスが汚職? まさか、そんな──。
「噂なんて信じられないわ」
私は必死に否定した。だが、母の瞳はどこか悲しげで、痛みを帯びているように見えた。
──夜が更ける頃、私の部屋では、窓辺に座る私の後ろで、かすかな物音がした。
「エマ様」
小さな声が響く。そっと振り向くと、ルイーザが忍び足で入ってきた。手には小箱を抱えている。
「これ……見てもらえますか?」
言われるまま小箱を開くと、中にはクリスタルのインク壺と、見覚えのない帳面が入っていた。表紙には、公爵家の紋章――だが、その下に細かい文字で「受領一覧」とだけ書かれている。
「これ、公爵様の書斎から……持ち出したそうです」
ルイーザの声はひそひそと、それでいて震えている。私はそっと帳面を手に取った。ページをめくるたびに、数字や日付、地名がびっしりと並び、その横には“銀貨五百”“ワイン樽十”“貴族料金千”などの文字が走っている。読み進めるほどに、胃が締めつけられるようだった。
(クラウス……あなたは、一体何をしていたの?)
胸の奥で、初めて恐怖が広がった。政略結婚の相手としてだけでなく、一人の人間として彼を見ようとした自分が、これまでどれほど愚かだったか。だが同時に、問いかけずにはいられない。
「こんなにたくさん……これは、賄賂? それとも……」
ルイーザは俯き、言葉を選ぶように口を開く。
「お嬢様……もしこれが公に晒されたら、公爵家どころか王都中が大騒ぎになります。私たち下働きですら、口を滑らせると取り返しがつかないと聞きました」
暗い部屋で、インク壺がまるで私を責めるかのように鈍く光る。私はその光に目を凝らしながら、震える声で言った。
「放っておけばいい。私は――関係ない」
自分に言い聞かせるように呟いたが、言葉には力がなかった。胸の奥では、怒りでも悲しみでもない、――形容しがたい感情が渦巻いている。
「ただ……どうやって生きていけばいいのか、まったく分からないの」
ルイーザはそっと、帳面とインク壺を抱きしめるように胸に押し当てた。
「お嬢様、一人じゃありません。わたしがいます」
その言葉に、初めて涙がこぼれ落ちた。枕を濡らすほどではない、ほのかな塩気を含んだ涙。けれど、その涙が私の心に少しだけ温もりを灯した。
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