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朝の冷たい光が、絹のカーテンの隙間から差し込んでくる。瞼の裏で、昨夜の悪夢がまだくすぶっていた。重たい胸を抱えながら、私は布団を蹴り開いて立ち上がる。今日もまた、居場所のない一日が始まるのだ。
「エマ、おはよう」
母の声は、いつもの優しさを欠いていた。食卓には簡素なパンと果物、そしてほとんど冷め切ったスープが並んでいる。かつてならば、婚約者の公爵夫人としての食卓。今は、ただの貧しげな令嬢だ。
「おはようございます、母上……」
震える声で口を開くと、母は私の顔をちらりと見て、すぐに目をそらした。
「もう朝のお祈りはいい。仕事に行きなさい。今日は市場で野菜を売る手伝いだ」
母の言葉はあっさりとしている。私の婚約破棄がどれほど家計を圧迫したか、母は肌で感じているのだろう。だが、それでも――胸が締めつけられる。
父が食卓に現れた。眉間には深い皺が寄り、言葉を選ぶように口を開く。
「エマ。お前の未来はどうなると思っている?」
私の言葉は、そこで引き留められた。声が喉の奥でむせ返る。
「……わかりません」
答えにならない返事に、父はため息をついた。
「お前は政略結婚の道具だった。今やその価値はゼロだ。家の資産も減り、借金だけが残った。せめて家業の手伝いをしてくれ」
(そう、私はもう“お嬢様”ではないんだ……)
私の胸の中で、少しの誇りが崩れ落ちる。父も母も、私をかつてのようには見ていない。愛情はあるだろうが、期待はもうないのだ。
「わかりました。市場に行きます」
声が小さくて、自分でも驚いた。これ以上、家族に心配をかけたくない。そう思って立ち上がろうとした瞬間、妹のエリスがふらりと現れた。
「ねえ、エマ。あの噂、本当なの? お兄様が賄賂を取って……」
エリスの言葉に、私はたじろいだ。
「それは……まだ確かじゃないわ」
エリスは困惑した顔で私を見つめる。母が言っていた帳面のことが、頭の中でぐるぐると回る。クラウス公爵の汚職――そんな話に、私がどう答えればいいのか。
「でも、お兄様はそんなことなさらないって……」
エリスの声に、私は微かな苦笑を浮かべた。
「誰も、本当のことは知らないのよ。わたしも……何もわからない」
言葉を濁して、私は家を飛び出した。門をくぐると、町のざわめきが耳に入る。石畳を踏む靴音、商人の呼び声、子どもたちの笑い声。すべてが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
「お嬢様、お買い物ですか?」
見慣れた八百屋の老人が声をかける。私は小さく頷き、籠を差し出した。
「トマトを二つと、じゃがいもを三つください」
籠を渡すと、八百屋の眉がひそめられた。
「お支払いは?」
私は一瞬、言葉を失う。財布に残っている硬貨は、ほんの数枚だけだ。
「……すみません、今日は家の事情で支払えなくて。後日必ず――」
老人は固い表情で首を振る。
「それは困るな。お嬢様だって言われてもな……」
私は涙をこらえながら、トマトとじゃがいもを返した。籠は空のまま。胸の奥で何かがぷつりと切れた。町のみんなが、かつての私ではなくなった私を見捨てる。そんな気がした。
「やっぱり、わたしには何も残らないのかもしれない」
重い足取りで足場の悪い路地に入り込むと、影のように誰かが近づいてきた。
「エマ様……」
懐かしい声に振り返ると、ルイーザが駆け寄ってきた。
「わたしがついています。お食事だけでもどうですか?」
私は頭を振った。
「ごめんなさい、わたしにはもう、人を頼る資格さえない」
それでも、ルイーザは優しく手を差し伸べる。私はその手をそっと握った。
「ありがとう……でも、わたし、自分の足で立ちたいの」
彼女の大きな瞳が、私をじっと見つめる。しばらく沈黙が続いたあと、ルイーザは小さく頷いた。
「わかりました。エマ様の決意を尊重します」
私は彼女に向かって微笑みかけた。ほんの少しだけだが、心の奥で温かさが広がった。
──夕暮れ時、再び家に戻ると、家の正門扉は固く閉ざされていた。父も母も、もう私に話しかけることはなかった。私はそっと扉に耳をつけたが、内部からは何の音もしない。
(わたし、本当にここにいる意味はあるのだろうか)
仕方なく裏の勝手口から入り、そう呟いて、自室の狭いベッドに腰を下ろす。窓からは橙色の夕陽が漏れ、部屋を柔らかく染め上げる。夏の終わりを思わせる風が、髪をそっと撫でた。
「どうしよう……」
ぽつりと、誰にも聞こえない声でつぶやく。心の奥底では、不安と絶望が渦巻いている。これから先、私は何を拠り所に生きていけばいいのだろう。
(でも……)
胸の内に、小さな火種が宿っていた。これまで誰かの影に隠れて生きてきたけれど、今こそ、自分自身の力を信じるべきなのかもしれない。そう思うと、まぶたの奥が熱くなる。
「わたし、負けない」
小さく、しかし確かな声で言い切ってから、私は枕にもたれかかった。夜の帳が降りるころ、どうかこの決意が揺らぎませんように――そう祈りながら、まぶたを閉じた。
数日後。
夕暮れの空が茜色に染まる頃、私はいつもの公園のベンチに腰を下ろしていた。足元に落ち葉が堆く積まれ、小鳥のさえずりも夕日が沈む前の静けさにかき消されている。冷たい秋の風が肩を撫で、私はひとり、震える手で頬を覆った。
「どうして、こうなってしまったんだろう……」
ぽつりと、自分でも驚くほど小さな声が漏れる。数日前までは、公爵の婚約者として誰よりも幸せになるはずだった。なのに今は、家族にも見放され、社会的な居場所さえ失い、家計の足しにもならない――まるで存在価値を問われているみたいだ。
涙が頬を伝い落ちる。私は、そのまま俯いて嗚咽をこらえた。肺が痛むほど胸が締めつけられる。公爵クラウスの冷笑と、汚職の帳面を抱えたルイーザの震えた声。全てが私を闇の底へ突き落とした。
──そのとき、遠くから足音が聞こえた。甲高い馬蹄の響きと、ゆったりとした革靴の音。私は顔を上げ、薄暮に浮かぶ人影をじっと見つめた。
「エマ様……」
静かな声が聞こえた。見覚えのある声……心臓が、跳ね上がる。
「ディーン……?」
驚きで、私は思わず顔を上げた。そこに立っていたのは、ディーン・グラスフィット卿。高位の貴族として知られる彼は、いつも清潔な軍服のような装いで、風格と誠実さを纏っている。淡い金色の髪が夕日に照らされ、まるで聖なる光を放っているかのようだった。
「……なぜ、ここに?」
私は声を震わせた。ディーンは少し微笑んで、ベンチの端にそっと腰を下ろした。
「君の姿を見かけてから、ずっと心配で仕方がなかったんだ。城でも噂は流れていたけれど、君自身の声を聞きたくて……どうしても、君のそばにいたかったんだよ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。ディーンは皇室の舞踏会で何度か私に微笑みかけてくれたが、私はクラウスとの婚約のために、その微笑みに応えることはできなかった。身分が違うと知りつつも、彼の優しさに一瞬心が揺れたこともあった。
「ずっと、見てくれていたの?」
私が震える声で問いかけると、ディーンは強く頷いた。
「君が苦しんでいると知って、生きた心地がしなかった。だけど、君がクラウス公爵と婚約している以上、身を引くしかなかったんだ。君の幸せを願うなら、邪魔はできない――そう思っていたから」
ディーンの瞳に真摯な光が宿る。その眼差しは、誰よりも私を見つめ、誰よりも私を信じているようだった。
「でも、もう婚約は破棄された。君は一人じゃない――僕がいる」
ディーンは真剣な響きでそう言い、そっと私の手を取った。冷たい風の中、彼の掌は暖かかった。
「恐れないでほしい。君がこれからどう生きるべきか、まだわからないかもしれない。でも、どんな時も君の味方でいる。君が笑顔を取り戻すまで、僕はそばを離れない」
胸の奥で、長い間凍りついていた何かが溶け始める。涙が止まらなくなり、私はディーンの胸に顔を埋めた。
「ディーン……ありがとう」
嗚咽交じりでそう言うと、ディーンは優しく髪を撫で、肩を抱き寄せてくれた。その温もりに、私は初めて心から安心できる気がした。
「君は価値のある人間だ。誰かの道具でも、捨てられるものでもない。君自身の人生を歩く権利があるんだ」
その言葉に、私はそっと顔を上げた。ディーンの眼差しには揺るぎない強さがあった。クラウスとはまるで違う――あの冷酷で自己中心的な笑みはなく、私を一人の人間として尊重し、守ろうとしている。
「でも、どうして私を……そんなに大事に思ってくれるの?」
私は戸惑いながら尋ねた。ディーンは少し照れたように笑う。
「君を初めて見かけたときから、ずっとそうだよ。君が誰かと婚約していると知って、身を引いたけれど、心の中では君の幸せをずっと願っていた。自分にできることは何か、ずっと考えてたんだ」
ディーンの目には誠実さと温もりが満ちている。私はその瞳に見つめられながら、ゆっくりと頷いた。
「ディーン……私、怖いの。何をしていいのか、本当にわからなくて」
涙を拭い、私は弱々しく呟いた。ディーンはそっと手のひらで私の頬に触れ、優しく撫でた。
「怖くていい。僕も怖い。でも、君となら、どんな困難も乗り越えられると思う。まずは、安全な場所に君を連れて行きたい。実家に帰るという選択肢もあるけれど、君には新しいスタートが必要だと思うんだ」
「新しいスタート……」
私はぼんやりと呟いた。ディーンの言葉は、私の心に小さな光を灯した。
「もし君が許してくれるなら、僕の屋敷に来てほしい。そこなら誰にも邪魔されず、君の意見が尊重される場所がある。君が自分らしくいられる場所を、僕が用意したい」
ディーンの申し出に、私は驚きと感動で胸がいっぱいになった。自分の意志で選び、そこに住まう――そんな未来が現実になるなんて、信じられないほどに幸せだった。
「ありがとう、ディーン……本当に、ありがとう」
私は精一杯の笑顔を返し、そっとディーンの手を握り返した。夕闇が降りる公園に、二人の小さな希望の光がぽっと灯ったようだった。
「エマ、おはよう」
母の声は、いつもの優しさを欠いていた。食卓には簡素なパンと果物、そしてほとんど冷め切ったスープが並んでいる。かつてならば、婚約者の公爵夫人としての食卓。今は、ただの貧しげな令嬢だ。
「おはようございます、母上……」
震える声で口を開くと、母は私の顔をちらりと見て、すぐに目をそらした。
「もう朝のお祈りはいい。仕事に行きなさい。今日は市場で野菜を売る手伝いだ」
母の言葉はあっさりとしている。私の婚約破棄がどれほど家計を圧迫したか、母は肌で感じているのだろう。だが、それでも――胸が締めつけられる。
父が食卓に現れた。眉間には深い皺が寄り、言葉を選ぶように口を開く。
「エマ。お前の未来はどうなると思っている?」
私の言葉は、そこで引き留められた。声が喉の奥でむせ返る。
「……わかりません」
答えにならない返事に、父はため息をついた。
「お前は政略結婚の道具だった。今やその価値はゼロだ。家の資産も減り、借金だけが残った。せめて家業の手伝いをしてくれ」
(そう、私はもう“お嬢様”ではないんだ……)
私の胸の中で、少しの誇りが崩れ落ちる。父も母も、私をかつてのようには見ていない。愛情はあるだろうが、期待はもうないのだ。
「わかりました。市場に行きます」
声が小さくて、自分でも驚いた。これ以上、家族に心配をかけたくない。そう思って立ち上がろうとした瞬間、妹のエリスがふらりと現れた。
「ねえ、エマ。あの噂、本当なの? お兄様が賄賂を取って……」
エリスの言葉に、私はたじろいだ。
「それは……まだ確かじゃないわ」
エリスは困惑した顔で私を見つめる。母が言っていた帳面のことが、頭の中でぐるぐると回る。クラウス公爵の汚職――そんな話に、私がどう答えればいいのか。
「でも、お兄様はそんなことなさらないって……」
エリスの声に、私は微かな苦笑を浮かべた。
「誰も、本当のことは知らないのよ。わたしも……何もわからない」
言葉を濁して、私は家を飛び出した。門をくぐると、町のざわめきが耳に入る。石畳を踏む靴音、商人の呼び声、子どもたちの笑い声。すべてが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
「お嬢様、お買い物ですか?」
見慣れた八百屋の老人が声をかける。私は小さく頷き、籠を差し出した。
「トマトを二つと、じゃがいもを三つください」
籠を渡すと、八百屋の眉がひそめられた。
「お支払いは?」
私は一瞬、言葉を失う。財布に残っている硬貨は、ほんの数枚だけだ。
「……すみません、今日は家の事情で支払えなくて。後日必ず――」
老人は固い表情で首を振る。
「それは困るな。お嬢様だって言われてもな……」
私は涙をこらえながら、トマトとじゃがいもを返した。籠は空のまま。胸の奥で何かがぷつりと切れた。町のみんなが、かつての私ではなくなった私を見捨てる。そんな気がした。
「やっぱり、わたしには何も残らないのかもしれない」
重い足取りで足場の悪い路地に入り込むと、影のように誰かが近づいてきた。
「エマ様……」
懐かしい声に振り返ると、ルイーザが駆け寄ってきた。
「わたしがついています。お食事だけでもどうですか?」
私は頭を振った。
「ごめんなさい、わたしにはもう、人を頼る資格さえない」
それでも、ルイーザは優しく手を差し伸べる。私はその手をそっと握った。
「ありがとう……でも、わたし、自分の足で立ちたいの」
彼女の大きな瞳が、私をじっと見つめる。しばらく沈黙が続いたあと、ルイーザは小さく頷いた。
「わかりました。エマ様の決意を尊重します」
私は彼女に向かって微笑みかけた。ほんの少しだけだが、心の奥で温かさが広がった。
──夕暮れ時、再び家に戻ると、家の正門扉は固く閉ざされていた。父も母も、もう私に話しかけることはなかった。私はそっと扉に耳をつけたが、内部からは何の音もしない。
(わたし、本当にここにいる意味はあるのだろうか)
仕方なく裏の勝手口から入り、そう呟いて、自室の狭いベッドに腰を下ろす。窓からは橙色の夕陽が漏れ、部屋を柔らかく染め上げる。夏の終わりを思わせる風が、髪をそっと撫でた。
「どうしよう……」
ぽつりと、誰にも聞こえない声でつぶやく。心の奥底では、不安と絶望が渦巻いている。これから先、私は何を拠り所に生きていけばいいのだろう。
(でも……)
胸の内に、小さな火種が宿っていた。これまで誰かの影に隠れて生きてきたけれど、今こそ、自分自身の力を信じるべきなのかもしれない。そう思うと、まぶたの奥が熱くなる。
「わたし、負けない」
小さく、しかし確かな声で言い切ってから、私は枕にもたれかかった。夜の帳が降りるころ、どうかこの決意が揺らぎませんように――そう祈りながら、まぶたを閉じた。
数日後。
夕暮れの空が茜色に染まる頃、私はいつもの公園のベンチに腰を下ろしていた。足元に落ち葉が堆く積まれ、小鳥のさえずりも夕日が沈む前の静けさにかき消されている。冷たい秋の風が肩を撫で、私はひとり、震える手で頬を覆った。
「どうして、こうなってしまったんだろう……」
ぽつりと、自分でも驚くほど小さな声が漏れる。数日前までは、公爵の婚約者として誰よりも幸せになるはずだった。なのに今は、家族にも見放され、社会的な居場所さえ失い、家計の足しにもならない――まるで存在価値を問われているみたいだ。
涙が頬を伝い落ちる。私は、そのまま俯いて嗚咽をこらえた。肺が痛むほど胸が締めつけられる。公爵クラウスの冷笑と、汚職の帳面を抱えたルイーザの震えた声。全てが私を闇の底へ突き落とした。
──そのとき、遠くから足音が聞こえた。甲高い馬蹄の響きと、ゆったりとした革靴の音。私は顔を上げ、薄暮に浮かぶ人影をじっと見つめた。
「エマ様……」
静かな声が聞こえた。見覚えのある声……心臓が、跳ね上がる。
「ディーン……?」
驚きで、私は思わず顔を上げた。そこに立っていたのは、ディーン・グラスフィット卿。高位の貴族として知られる彼は、いつも清潔な軍服のような装いで、風格と誠実さを纏っている。淡い金色の髪が夕日に照らされ、まるで聖なる光を放っているかのようだった。
「……なぜ、ここに?」
私は声を震わせた。ディーンは少し微笑んで、ベンチの端にそっと腰を下ろした。
「君の姿を見かけてから、ずっと心配で仕方がなかったんだ。城でも噂は流れていたけれど、君自身の声を聞きたくて……どうしても、君のそばにいたかったんだよ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。ディーンは皇室の舞踏会で何度か私に微笑みかけてくれたが、私はクラウスとの婚約のために、その微笑みに応えることはできなかった。身分が違うと知りつつも、彼の優しさに一瞬心が揺れたこともあった。
「ずっと、見てくれていたの?」
私が震える声で問いかけると、ディーンは強く頷いた。
「君が苦しんでいると知って、生きた心地がしなかった。だけど、君がクラウス公爵と婚約している以上、身を引くしかなかったんだ。君の幸せを願うなら、邪魔はできない――そう思っていたから」
ディーンの瞳に真摯な光が宿る。その眼差しは、誰よりも私を見つめ、誰よりも私を信じているようだった。
「でも、もう婚約は破棄された。君は一人じゃない――僕がいる」
ディーンは真剣な響きでそう言い、そっと私の手を取った。冷たい風の中、彼の掌は暖かかった。
「恐れないでほしい。君がこれからどう生きるべきか、まだわからないかもしれない。でも、どんな時も君の味方でいる。君が笑顔を取り戻すまで、僕はそばを離れない」
胸の奥で、長い間凍りついていた何かが溶け始める。涙が止まらなくなり、私はディーンの胸に顔を埋めた。
「ディーン……ありがとう」
嗚咽交じりでそう言うと、ディーンは優しく髪を撫で、肩を抱き寄せてくれた。その温もりに、私は初めて心から安心できる気がした。
「君は価値のある人間だ。誰かの道具でも、捨てられるものでもない。君自身の人生を歩く権利があるんだ」
その言葉に、私はそっと顔を上げた。ディーンの眼差しには揺るぎない強さがあった。クラウスとはまるで違う――あの冷酷で自己中心的な笑みはなく、私を一人の人間として尊重し、守ろうとしている。
「でも、どうして私を……そんなに大事に思ってくれるの?」
私は戸惑いながら尋ねた。ディーンは少し照れたように笑う。
「君を初めて見かけたときから、ずっとそうだよ。君が誰かと婚約していると知って、身を引いたけれど、心の中では君の幸せをずっと願っていた。自分にできることは何か、ずっと考えてたんだ」
ディーンの目には誠実さと温もりが満ちている。私はその瞳に見つめられながら、ゆっくりと頷いた。
「ディーン……私、怖いの。何をしていいのか、本当にわからなくて」
涙を拭い、私は弱々しく呟いた。ディーンはそっと手のひらで私の頬に触れ、優しく撫でた。
「怖くていい。僕も怖い。でも、君となら、どんな困難も乗り越えられると思う。まずは、安全な場所に君を連れて行きたい。実家に帰るという選択肢もあるけれど、君には新しいスタートが必要だと思うんだ」
「新しいスタート……」
私はぼんやりと呟いた。ディーンの言葉は、私の心に小さな光を灯した。
「もし君が許してくれるなら、僕の屋敷に来てほしい。そこなら誰にも邪魔されず、君の意見が尊重される場所がある。君が自分らしくいられる場所を、僕が用意したい」
ディーンの申し出に、私は驚きと感動で胸がいっぱいになった。自分の意志で選び、そこに住まう――そんな未来が現実になるなんて、信じられないほどに幸せだった。
「ありがとう、ディーン……本当に、ありがとう」
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