婚約破棄されましたが、今さら後悔されても困ります

有賀冬馬

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薄紫色に染まった空の下、ディーン卿の庭園は幻想的な雰囲気を纏っていた。薄暮の光に照らされた薔薇のアーチをくぐると、小さな噴水の子音が優しく耳に届く。私は一歩一歩、緊張で胸が高鳴る足取りを確かめながら、ディーンの隣を歩いていた。

「エマ、ここはどうだろう?」
ディーンがそっと私の手を取り、手のひらに指先を乗せる。彼の手は暖かく、柔らかい。クラウスと違って、乱暴に力を誇るような熱さではない。安心感をくれる、優しいぬくもりだった。

「とても、綺麗……」
私は息をのみ、薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。花びらの一つ一つが、まるで私のために咲いているかのように思えて、胸がじんわりと熱くなる。

ディーンはにこりと笑い、少しだけ離れた石畳の小さな円形テラスへ私を誘った。そこにはキャンドルが何本も灯され、柔らかな銀色の光を放っている。

「ここに座ろう」
言われるままベンチに腰を下ろすと、ディーンは私と向かい合って座った。その視線は真剣そのものだった。

「エマ、君と――もっと近くで話がしたい」
ディーンの声は穏やかだが、胸に直接訴えかけるように響いた。私は小さく頷き、手を膝の上に重ねた。

「……私で、よろしいのですか?」
言葉を絞り出すように問いかけると、ディーンは真っ直ぐに私の目を見つめ返した。

「もちろんだよ。君以上の人を、僕は知らない。君と過ごす時間が、僕の心の支えだった。でも、君がクラウス公爵と婚約している間、僕はただ傍観するしかなかった。君の幸せを願って――でも、本当は、君のそばにいたかった」

ディーンの瞳に揺れる光に、私は胸が震えた。あの冷たい笑みと無慈悲な言葉で私を傷つけたクラウスとは、まるで別世界の人間のようだった。

「クラウス卿は、ただ……自分の欲望のままに僕らを振り回した。でも、君は違う。君はいつも凛としていて、優しさも強さも持っている。そんな君を、心から愛しているんだ」

ディーンはゆっくりと立ち上がり、私の手を引いてテラスの中心へと歩み寄った。キャンドルの光が彼の横顔を柔らかに照らす。乾いた風が頬を撫で、遠くで小鳥が一羽、さえずっている。

「僕は君を守りたい。傷ついた君の心を癒し、君がまた笑顔を取り戻すその瞬間を、何よりも大切に思う。エマ、僕と……結婚してほしい」

その言葉は、まるで奇跡のように私の胸を満たした。頬を伝う自然な涙が、キャンドルの柔らかい灯りに輝く。私は何度もまばたきして、声が震れながらも言葉を紡いだ。

「ディーン……」
一呼吸置く。心の中で、クラウスの冷徹な言葉が蘇る。でも今は、すべてを忘れさせてくれるこの瞬間のために――。

「あなたとなら、もう二度と怖くない。あなたのそばで、生きていきたい」

私の言葉に、ディーンは満面の笑みを浮かべた。そして、その笑顔のままひざまずき、私の手に自らの指輪をそっとはめてくれた。柔らかな光を帯びた金の指輪は、いびつなラインながらも温もりに満ち、私の指に優しく寄り添った。

「ありがとう、エマ。君のすべてを愛すると、ここに誓うよ」

ディーンはそっと立ち上がり、私を包み込むように両腕で抱きしめた。頬を預けると、彼の胸の鼓動が確かに伝わってくる。私は目を閉じ、胸いっぱいにこの未来への希望を刻み込んだ。

──あの冷酷なクラウスのことなど、もう遠い記憶の中のひとコマに過ぎない。私を傷つけ、一方的に放り出した彼とは異なり、ディーンは私を大切にしてくれる。尊重し、支え、愛してくれる。

「ディーン……ありがとう」
私は涙を拭いながら、そっと囁いた。ディーンは優しく頬に口づけを落とし、笑い声が小さな夜空に溶けていった。

「これからは、君の幸せだけを考える。君の笑顔が、僕のすべてだから」

その言葉は、私の新しい一歩を力強く後押ししてくれる魔法のようだった。手を取り合ったまま、私たちは夜空に輝く星を見上げた。闇の中で瞬く無数の光が、二人の未来を祝福しているかのように――。







夜も更けた書斎の窓から、月明かりが机の上の帳面を淡く照らしていた。私はそっと扉を押し開け、ディーンの後ろ姿を見つめる。彼の肩越しに見えるのは、数々の領収書や金銭の出入りを書き付けた帳面、そして秘密裏に手に入れた通信文の束だった。

「……こんな量の賄賂が、公爵家に流れていたなんて」

私は息を詰めて呟いた。ディーンは振り返らず、ただ静かに書類を指さす。

「エマ、この帳面は公爵家の会計係が密かに書き残したものだ。ルイーザが危険を冒して持ち出してくれた」

ディーンの声には、怒りと悲しみ、そして強い決意が混じっていた。私は胸が熱くなり、そっと彼の袖を握る。

「でも、これだけじゃ……証拠として不十分かもしれない。クラウス公爵は権力を使って証拠を隠滅してしまう可能性が高い」

ディーンはそう言い、窓の外を見つめる。その瞳には、くっきりとした意志が宿っている。

「だからこそ、今日は王都に行く。高位貴族の評議会で、この帳面と取引記録、さらには目撃者の証言を提出しようと思う。君を傷つけた男を、必ず公の場で裁かせる」

私はその言葉に思わず顔を上げた。頬に伝う熱いものを手の甲で拭いながら、震える声で尋ねる。

「王都まで……? お願いです、危険は犯さないで」

ディーンは私の手を取り、ぎゅっと握りしめた。

「君を守るためなら、僕は何だってする。クラウスの汚職を公に晒さなければ、君は永遠に怯え続ける。僕はもう――引き下がるわけにはいかないんだ」

その夜、私ははじめディーンの馬車に同乗することを拒もうとした。正装を整えた彼の横顔を見ていると、あまりにも切なくて、自分の弱さを痛感したからだ。

「エマ、君は僕の心の支えだ。君の笑顔があるから、僕は恐怖を乗り越えられる。だから、傍にいてほしい」

ディーンの言葉に、私はつい頷き、席へと腰を下ろした。冷たい馬車の扉が閉まると、夜風が吹き込んで私の頬を撫でた。





――王都。高い石造りの門をくぐったとき、私は足が震えた。華やかな街灯と噴水が輝く大通りの向こうに、評議会所の巨大な建物がそびえている。

「ここが……」
私は息を呑み、人々の視線が私たちに注がれるのを感じた。噂に聞く、政治の中枢。それでも、私はディーンの隣に立ち、彼が持つ革鞄を見つめた。

「これが、すべての証拠だ」
ディーンは深呼吸し、重い扉を押し開けた。中は円形の大広間で、高位貴族や王都の役人たちが集まっている。

「ディーン卿、今日は何のご用件です?」
重職を担う評議員の一人が声をかけてくる。ディーンは丁寧に挨拶を交わし、鞄から帳面と書類一式を慎重に取り出した。

「実は、クラウス・エーカー公爵に関する重大な報告がございます。こちらの帳面と通信記録、さらに数名の証人の証言をもとに、公爵の汚職を正式に告発いたします」

広間がざわつき、一瞬の静寂の後、評議員たちの間で囁き声が走る。私はその中で、ディーンの真剣な横顔を見つめた。彼は一切の躊躇なく、毅然と書類を評議長に差し出す。

「この証拠をご覧いただき、審議の対象として取り上げていただきたい。王国の法と正義のために」

評議長はゆっくりと書類を広げると、帳面の隅々まで目を通し始めた。その間、私は祈るようにディーンの手を握りしめた。




――数刻後。評議長が口を開く。

「……ディーン卿、この報告は極めて重い。クラウス・エーカー公爵は王国を揺るがす汚職に手を染めている可能性がある。ここに示された証拠と証言をもとに、正式な調査委員会を設置いたします。異議なき者は手を挙げよ」

評議員たちが次々と手を挙げる。私は胸が高鳴り、思わず涙が溢れそうになった。ディーンは静かに私を見つめ、目で「大丈夫だ」と伝えてくれる。

「ありがとう……」
私は声にならない声で囁いた。ディーンはそっと私の頬に口づけを落とし、微笑んだ。

「まだ道は長い。でも、これでクラウスの悪行は公の場で裁かれる。君のための戦いは、僕が必ず最後まで戦う」
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