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朝の光が、ステンドグラス越しに差し込んでいた。きらきらと揺れる色とりどりの光は、とてもきれいで、私はほんの少しだけ、ほっとしていた。
「リュシア=エルフォード。王国の聖女として神に仕えるその身……今日、あなたに神託が下るでしょう」
神官長の落ち着いた声が、神殿の奥に響く。私は祭壇の前にひざまずいて、静かに目を閉じた。聖女になってから三年目の春。ようやく私にも、正式な神託が下される日が来たのだ。
少し緊張していたけれど、大丈夫。今まで、私はずっと神の声を感じてきた。傷を癒やす力も、植物を育てる力も、誰かを助けたいって心から思った時にだけ、ふわっと現れる不思議な光が、それを証明してくれた。だから、今日もきっと……。
けれど。
「神の声は告げる。――リュシアは、偽りの聖女であると」
その言葉を聞いた瞬間、時間が止まったような気がした。
……え?
神官たちがざわめき、見守っていた貴族たちが声をあげた。私のまわりから、何か冷たいものが引いていくのを感じた。まるで、見えない手で心臓を握られたようだった。
「偽り……って、そんな……!」
思わず声をあげた私に、神官長はまるで死人でも見るような目で言った。
「この神託は、聖なる光の神・レイフ様からの絶対の啓示です。そなたの罪は重く、聖女の名を語った罪は赦されません」
罪? わたしが、罪人……?
王族席から降りてきたのは、私の婚約者である王太子・レオニスだった。銀色の髪が神々しくて、やっぱり彼は王になるべき人だと、そう思った。けれど、その口から出てきた言葉は、信じられないものだった。
「リュシア。お前には失望した。婚約は、破棄する」
それは、剣で刺されたような痛みだった。
「レオニス様……っ、でも、私……信じてください、私は……!」
「黙れ。偽りの者に、神の言葉など届くはずがない」
あんなにやさしかった笑顔が、冷たい氷みたいになって私を見下ろしていた。
まるで悪夢の中にいるみたいだった。まわりの誰もが、私をにらんでいた。今まで手を差し伸べてくれた神官も、やさしい言葉をくれた侍女も、全部――全部、私から離れていった。
その日のうちに、私は「偽りの聖女」として断罪され、王都から追放されることになった。
処罰は「追放」で済んだけど、それはきっと、神託に逆らえないけれど死刑にするのは面倒だ、とか、そんな理由だと思う。
城の正門から歩かされる間、誰かが私に石を投げた。小さな子どもが、お母さんの後ろから「うそつきー!」って叫んだ。
私はただ、黙って歩いた。うそなんて、言ってないのに。
大好きだった王都の景色が、全部にじんで見えた。涙が止まらなかった。悔しくて、悲しくて、寂しくて、何もかも信じられなくて――。
それでも、私は歩き続けた。
誰も、助けてくれない。
神様も、もういないのなら。
それでも。
歩き続けるしか、なかったから。
***
あれから、どのくらい経ったのか、よくわからない。
足元はもう、ふらふらで、靴の底はとっくに破れていた。おなかはぺこぺこで、喉もカラカラ。頭もぼーっとして、世界がぐらぐら揺れている。
誰もいない荒野。草も生えていない、乾いた大地。
「ここで、死ぬのかな……」
そんなことを思った時だった。
ぱか、ぱか、と馬の足音が聞こえた。
……幻かもしれない、と思った。でも、次の瞬間――その人は私の前に、現れた。
黒いマントをなびかせ、鋭い瞳でこちらを見下ろす男の人。黒髪、黒い瞳、まるで影みたいな姿。けれど、その人は馬から降りると、私に近づいて、しゃがみこんだ。
「……おい、大丈夫か」
その声は、低くて、でもやさしかった。
私はもう、何も考えられなくて、ただその人の胸にしがみついた。
「た、すけて……」
ぼろぼろの声でそう言った時、彼はわたしを抱き上げた。
その腕は、信じられないくらいあたたかくて――私はそのまま、気を失った。
目を開けたとき、私は知らない天井を見上げていた。
ふわふわしたベッドに寝かされていて、顔の横には冷たい濡れ布巾が置かれている。外からは、鳥の鳴き声と風の音が聞こえてきた。ここは……どこ?
体を起こそうとして、すぐにやめた。全身が痛くて力が入らなかった。口の中は乾いていて、喉がひりひりする。けれど、それでも――私は、生きていた。
あの時、たしか私は……荒野で倒れて……。
そうだ、馬に乗った黒い人。黒髪の男の人が、私を抱き上げてくれた。
「起きたのか」
不意に、低くて落ち着いた声が部屋に響いた。私ははっとして声のする方を向いた。
扉の前に立っていたのは、あのときの人だった。
黒髪に、黒い服。大きな体と鋭い目つきで、まるで戦場から来たみたいな雰囲気。けれどその人の手には、蒸気の立つ木の皿とスープが乗っていた。とても、不思議な光景だった。
「無理に動くな。おまえ、死にかけてたんだからな」
「……っ、ごめんなさい」
なぜか、すぐに謝ってしまった。きっと、それしか言えなかったのだと思う。私の存在が迷惑じゃなかったか、怒っていないか、怖くて心がぎゅっとなっていた。
でもその人は、少しだけ目を細めて、ベッドのそばに椅子を引き寄せた。
「何を謝るんだ。おまえは……助けを求めた。それでいい」
そう言って、木のスプーンでスープをすくい、私の口元に差し出した。
「ほら、飲めるか?」
「……自分でできます」
そう言って手を動かそうとしたけれど、ほんの少し動かしただけで腕がぷるぷる震えてしまった。
結局、私は彼にスプーンでスープを飲ませてもらう羽目になった。
少し恥ずかしかったけれど、体にあたたかいスープが入ってくると、心までほぐれていくような気がした。とても、優しい味だった。涙が出そうになるくらい。
「……おいしい、です」
「そうか。それはよかった」
その人は、それきり黙ってまたスープをすくってくれた。部屋の中に響くのは、スプーンが皿に当たる小さな音と、私がスープを飲む音だけ。なのに、どこか安心できる時間だった。
全部飲み終えたあと、私は少しだけ勇気を出して、彼に聞いてみた。
「あの、助けてくださって……ありがとうございます。わたし……あなたに助けられなければ、きっと……」
「礼はいらん。放っておける状態じゃなかっただけだ」
「……でも、助けてくれたのは事実です。お名前を、教えていただけますか?」
そう尋ねると、男の人はほんの少しだけ眉を動かして、それからゆっくりと答えた。
「――ディラン・ヴェルト。北方辺境、ヴェルト領の当主だ」
私は、その名前を聞いた瞬間、思わず息をのんだ。
ディラン・ヴェルト。
その名は、王都でも噂になっていた。勇敢で恐れ知らず、戦では無敗。けれど冷酷無慈悲で、敵には情けをかけず、味方にも笑わないという――鬼の辺境伯。
「……あの、鬼の、辺境伯様……?」
「その呼び名は嫌いだがな。まぁ、そう呼ばれてるのは事実だ」
私は思わず身を縮めた。あの恐ろしい戦の英雄に、こんな風に看病してもらっていたなんて……。
「な、なんで、私なんかを助けてくださったんですか?」
「理由がいるのか?」
「えっ、でも……わたし、今、王都から……追放されて」
そこまで言って、言葉が詰まった。
“偽りの聖女”だと、言われたこと。誰にも信じてもらえなかったこと。大好きだった人に裏切られて、石を投げられたこと。まだ、うまく言葉にできなかった。
だけどディラン様は、無理に聞こうとはしなかった。ただ、まっすぐに私を見て、こう言った。
「……おまえが、誰に追われていようと、どう思われていようと。ここでは関係ない」
「…………っ」
「ここは、王都から遠く離れた北の果て。おまえの過去なんて、どうでもいい。生きたいと思うなら、生きろ。俺はそれを手伝っただけだ」
その言葉は、とても強くて、でもやさしかった。
王都では、誰も私の言い分を聞いてくれなかったのに。この人は、私を責めなかった。
涙が、こぼれそうになった。でも、私は必死で我慢した。泣いたら、全部が崩れてしまいそうだったから。
そのあと、ディラン様は「無理はするな」と言って部屋を出ていった。
私は、がらんとした部屋の中で、一人ベッドに横たわりながら、ぽつりとつぶやいた。
「生きても……いいのかな」
その言葉が、静かに部屋に落ちた。
***
それから、何日か経った。
最初のうちは寝ている時間が多かったけれど、少しずつ体が動くようになって、ベッドからも起きられるようになった。
窓の外には、広い草原と森が広がっていて、王都では見られなかった大きな鳥が空を飛んでいた。空気は冷たかったけれど、とても澄んでいて、深呼吸すると胸の奥まできれいになるような気がした。
「お嬢さん、起きてらっしゃるの? お湯を持ってきたわよ」
部屋に入ってきたのは、やさしそうな中年の女性だった。カーラさんという名前で、この館の家政婦をしているらしい。
「ありがとうございます、カーラさん」
「ほほほ、礼なんていらないのよ。うちの旦那様があんたを連れてきた時には、もうびっくりしたわよ。『この子を助けろ』なんて、あの人が言うなんてねぇ」
「……ディラン様って、そんなに冷たい方なんですか?」
「冷たいというか……感情を見せないのよね。でも、根は悪い人じゃないわ。信じた相手には、命をかけて守るような、そんなところがあるの」
カーラさんの言葉を聞いて、少しだけ心があたたかくなった。
あの日、私を助けてくれたあの手のぬくもりが、うそじゃなかったんだと、そう思えた。
「それにしても……ずいぶん傷んだ服ね。あらまあ、ここなんか裂けてるわよ」
「あっ……!」
カーラさんは私の服を見て、びっくりしたように言った。
そう、私は追放されるとき、ほとんど何も持たせてもらえなかった。服も、身につけていたものだけ。魔石のペンダントも、聖女の証のローブも、全部取り上げられた。
「もう少し元気になったら、新しい服を作ってあげるわ。私、針仕事は得意なのよ」
「えっ、でも……そんな、申し訳ないです」
「お礼なんていいの。うちの旦那様が助けた子だもの。気にしなくていいわ」
私は、何度も頭を下げた。感謝してもしきれないくらい、みんながあたたかくしてくれた。
それは、王都にいた頃には感じられなかったものだった。
偽りの聖女なんて、言われることもなくて。
誰かの道具じゃなくて。
ちゃんと、“一人の人間”として見てもらえる。
――ここでなら、もしかしたら私は。
もう一度、生きていけるかもしれない。
そう思えた、その日だった。
ディラン様が、私に「散歩に出るぞ」と言ったのは。
森の中の風は冷たくて、でもとても清らかだった。
あの日、ディラン様が「散歩に出るぞ」と言ったのは、朝日がのぼってすぐのことだった。私はまだ体の調子が万全じゃなかったけれど、あの人の目を見たら、なぜだか「はい」と答えていた。
黒い外套を羽織ったディラン様と一緒に、私は屋敷の裏にある小道を歩いた。まだ雪が残る道だったけれど、所々に春の花が咲き始めていて、小さな命の芽吹きを感じさせてくれた。
「この森は、ヴェルト領の中でも聖域に近い場所だ。魔物もあまり寄りつかん。安全だ」
「……そうなんですね。なんだか空気が澄んでいて、王都とはまるで違います」
王都の空気は、きらびやかで美しかったけれど、その美しさの下には冷たい視線や、押しつぶされそうなほどの期待が渦巻いていた。私はいつも息苦しかった。
でも、ここでは深呼吸できる。目を閉じれば、心の奥まで風が通り抜けていくみたいだった。
「……おまえは、王都の人間だろう。どうしてこんな場所まで来た」
ディラン様の声は低く、でも優しかった。無理に問いただす感じではなくて、ただ、私の心に触れようとしてくれているような……そんな声だった。
私は、少し迷ってから、ゆっくりと口を開いた。
「わたしは、“聖女”でした。神の声を聞く力があると言われて、祝福を与える存在として選ばれたんです。でも……」
足元の小石を見ながら、言葉を続ける。
「ある日、神殿で神託が下ったと告げられました。“この女は偽りの聖女である”って……。それだけで、すべてを失いました。信じてくれた人たちも背を向けて、大切な人にまで……」
声が震えた。けれどディラン様は何も言わず、ただじっと聞いてくれていた。それだけで、私はどこか安心して、ぽつりぽつりと話し続けた。
「理由も知らされずに、牢に入れられて、数日後には“追放”されて……。何も持たされず、着の身着のままで荒野に放り出されました。もう、生きてるのが苦しくて……」
「…………」
しばらくの沈黙が流れた。
でも、木々のざわめきや鳥の声がその沈黙を優しく包んでくれて、私はそれをつらく感じなかった。
そしてディラン様が、ぽつりと小さな声で言った。
「……誰かに信じられるというのは、時に、呪いにもなる」
私は顔を上げて彼を見た。その横顔には、影のような悲しみが浮かんでいて、私はなぜだか胸が締めつけられる気がした。
けれど、それ以上は聞けなかった。彼にも、きっと過去があるのだろう。でも、それを言う義務なんて、誰にもない。
その日から、私は少しずつ、辺境伯の館での生活に慣れていった。
朝はカーラさんが焼いてくれるパンの香りで目覚めて、昼は屋敷の中を歩き回って少しずつ体力を戻して、夜には書庫で本を読む時間をもらった。
ディラン様とは、毎日ではないけれど、時々食事を一緒にした。
彼は無口で、食事中もあまり喋らなかったけれど、ときどき「スープはどうだった?」とか、「寒くないか?」とか、さりげなく私を気づかってくれた。
その一言が、私にとっては何よりも嬉しかった。
「リュシア=エルフォード。王国の聖女として神に仕えるその身……今日、あなたに神託が下るでしょう」
神官長の落ち着いた声が、神殿の奥に響く。私は祭壇の前にひざまずいて、静かに目を閉じた。聖女になってから三年目の春。ようやく私にも、正式な神託が下される日が来たのだ。
少し緊張していたけれど、大丈夫。今まで、私はずっと神の声を感じてきた。傷を癒やす力も、植物を育てる力も、誰かを助けたいって心から思った時にだけ、ふわっと現れる不思議な光が、それを証明してくれた。だから、今日もきっと……。
けれど。
「神の声は告げる。――リュシアは、偽りの聖女であると」
その言葉を聞いた瞬間、時間が止まったような気がした。
……え?
神官たちがざわめき、見守っていた貴族たちが声をあげた。私のまわりから、何か冷たいものが引いていくのを感じた。まるで、見えない手で心臓を握られたようだった。
「偽り……って、そんな……!」
思わず声をあげた私に、神官長はまるで死人でも見るような目で言った。
「この神託は、聖なる光の神・レイフ様からの絶対の啓示です。そなたの罪は重く、聖女の名を語った罪は赦されません」
罪? わたしが、罪人……?
王族席から降りてきたのは、私の婚約者である王太子・レオニスだった。銀色の髪が神々しくて、やっぱり彼は王になるべき人だと、そう思った。けれど、その口から出てきた言葉は、信じられないものだった。
「リュシア。お前には失望した。婚約は、破棄する」
それは、剣で刺されたような痛みだった。
「レオニス様……っ、でも、私……信じてください、私は……!」
「黙れ。偽りの者に、神の言葉など届くはずがない」
あんなにやさしかった笑顔が、冷たい氷みたいになって私を見下ろしていた。
まるで悪夢の中にいるみたいだった。まわりの誰もが、私をにらんでいた。今まで手を差し伸べてくれた神官も、やさしい言葉をくれた侍女も、全部――全部、私から離れていった。
その日のうちに、私は「偽りの聖女」として断罪され、王都から追放されることになった。
処罰は「追放」で済んだけど、それはきっと、神託に逆らえないけれど死刑にするのは面倒だ、とか、そんな理由だと思う。
城の正門から歩かされる間、誰かが私に石を投げた。小さな子どもが、お母さんの後ろから「うそつきー!」って叫んだ。
私はただ、黙って歩いた。うそなんて、言ってないのに。
大好きだった王都の景色が、全部にじんで見えた。涙が止まらなかった。悔しくて、悲しくて、寂しくて、何もかも信じられなくて――。
それでも、私は歩き続けた。
誰も、助けてくれない。
神様も、もういないのなら。
それでも。
歩き続けるしか、なかったから。
***
あれから、どのくらい経ったのか、よくわからない。
足元はもう、ふらふらで、靴の底はとっくに破れていた。おなかはぺこぺこで、喉もカラカラ。頭もぼーっとして、世界がぐらぐら揺れている。
誰もいない荒野。草も生えていない、乾いた大地。
「ここで、死ぬのかな……」
そんなことを思った時だった。
ぱか、ぱか、と馬の足音が聞こえた。
……幻かもしれない、と思った。でも、次の瞬間――その人は私の前に、現れた。
黒いマントをなびかせ、鋭い瞳でこちらを見下ろす男の人。黒髪、黒い瞳、まるで影みたいな姿。けれど、その人は馬から降りると、私に近づいて、しゃがみこんだ。
「……おい、大丈夫か」
その声は、低くて、でもやさしかった。
私はもう、何も考えられなくて、ただその人の胸にしがみついた。
「た、すけて……」
ぼろぼろの声でそう言った時、彼はわたしを抱き上げた。
その腕は、信じられないくらいあたたかくて――私はそのまま、気を失った。
目を開けたとき、私は知らない天井を見上げていた。
ふわふわしたベッドに寝かされていて、顔の横には冷たい濡れ布巾が置かれている。外からは、鳥の鳴き声と風の音が聞こえてきた。ここは……どこ?
体を起こそうとして、すぐにやめた。全身が痛くて力が入らなかった。口の中は乾いていて、喉がひりひりする。けれど、それでも――私は、生きていた。
あの時、たしか私は……荒野で倒れて……。
そうだ、馬に乗った黒い人。黒髪の男の人が、私を抱き上げてくれた。
「起きたのか」
不意に、低くて落ち着いた声が部屋に響いた。私ははっとして声のする方を向いた。
扉の前に立っていたのは、あのときの人だった。
黒髪に、黒い服。大きな体と鋭い目つきで、まるで戦場から来たみたいな雰囲気。けれどその人の手には、蒸気の立つ木の皿とスープが乗っていた。とても、不思議な光景だった。
「無理に動くな。おまえ、死にかけてたんだからな」
「……っ、ごめんなさい」
なぜか、すぐに謝ってしまった。きっと、それしか言えなかったのだと思う。私の存在が迷惑じゃなかったか、怒っていないか、怖くて心がぎゅっとなっていた。
でもその人は、少しだけ目を細めて、ベッドのそばに椅子を引き寄せた。
「何を謝るんだ。おまえは……助けを求めた。それでいい」
そう言って、木のスプーンでスープをすくい、私の口元に差し出した。
「ほら、飲めるか?」
「……自分でできます」
そう言って手を動かそうとしたけれど、ほんの少し動かしただけで腕がぷるぷる震えてしまった。
結局、私は彼にスプーンでスープを飲ませてもらう羽目になった。
少し恥ずかしかったけれど、体にあたたかいスープが入ってくると、心までほぐれていくような気がした。とても、優しい味だった。涙が出そうになるくらい。
「……おいしい、です」
「そうか。それはよかった」
その人は、それきり黙ってまたスープをすくってくれた。部屋の中に響くのは、スプーンが皿に当たる小さな音と、私がスープを飲む音だけ。なのに、どこか安心できる時間だった。
全部飲み終えたあと、私は少しだけ勇気を出して、彼に聞いてみた。
「あの、助けてくださって……ありがとうございます。わたし……あなたに助けられなければ、きっと……」
「礼はいらん。放っておける状態じゃなかっただけだ」
「……でも、助けてくれたのは事実です。お名前を、教えていただけますか?」
そう尋ねると、男の人はほんの少しだけ眉を動かして、それからゆっくりと答えた。
「――ディラン・ヴェルト。北方辺境、ヴェルト領の当主だ」
私は、その名前を聞いた瞬間、思わず息をのんだ。
ディラン・ヴェルト。
その名は、王都でも噂になっていた。勇敢で恐れ知らず、戦では無敗。けれど冷酷無慈悲で、敵には情けをかけず、味方にも笑わないという――鬼の辺境伯。
「……あの、鬼の、辺境伯様……?」
「その呼び名は嫌いだがな。まぁ、そう呼ばれてるのは事実だ」
私は思わず身を縮めた。あの恐ろしい戦の英雄に、こんな風に看病してもらっていたなんて……。
「な、なんで、私なんかを助けてくださったんですか?」
「理由がいるのか?」
「えっ、でも……わたし、今、王都から……追放されて」
そこまで言って、言葉が詰まった。
“偽りの聖女”だと、言われたこと。誰にも信じてもらえなかったこと。大好きだった人に裏切られて、石を投げられたこと。まだ、うまく言葉にできなかった。
だけどディラン様は、無理に聞こうとはしなかった。ただ、まっすぐに私を見て、こう言った。
「……おまえが、誰に追われていようと、どう思われていようと。ここでは関係ない」
「…………っ」
「ここは、王都から遠く離れた北の果て。おまえの過去なんて、どうでもいい。生きたいと思うなら、生きろ。俺はそれを手伝っただけだ」
その言葉は、とても強くて、でもやさしかった。
王都では、誰も私の言い分を聞いてくれなかったのに。この人は、私を責めなかった。
涙が、こぼれそうになった。でも、私は必死で我慢した。泣いたら、全部が崩れてしまいそうだったから。
そのあと、ディラン様は「無理はするな」と言って部屋を出ていった。
私は、がらんとした部屋の中で、一人ベッドに横たわりながら、ぽつりとつぶやいた。
「生きても……いいのかな」
その言葉が、静かに部屋に落ちた。
***
それから、何日か経った。
最初のうちは寝ている時間が多かったけれど、少しずつ体が動くようになって、ベッドからも起きられるようになった。
窓の外には、広い草原と森が広がっていて、王都では見られなかった大きな鳥が空を飛んでいた。空気は冷たかったけれど、とても澄んでいて、深呼吸すると胸の奥まできれいになるような気がした。
「お嬢さん、起きてらっしゃるの? お湯を持ってきたわよ」
部屋に入ってきたのは、やさしそうな中年の女性だった。カーラさんという名前で、この館の家政婦をしているらしい。
「ありがとうございます、カーラさん」
「ほほほ、礼なんていらないのよ。うちの旦那様があんたを連れてきた時には、もうびっくりしたわよ。『この子を助けろ』なんて、あの人が言うなんてねぇ」
「……ディラン様って、そんなに冷たい方なんですか?」
「冷たいというか……感情を見せないのよね。でも、根は悪い人じゃないわ。信じた相手には、命をかけて守るような、そんなところがあるの」
カーラさんの言葉を聞いて、少しだけ心があたたかくなった。
あの日、私を助けてくれたあの手のぬくもりが、うそじゃなかったんだと、そう思えた。
「それにしても……ずいぶん傷んだ服ね。あらまあ、ここなんか裂けてるわよ」
「あっ……!」
カーラさんは私の服を見て、びっくりしたように言った。
そう、私は追放されるとき、ほとんど何も持たせてもらえなかった。服も、身につけていたものだけ。魔石のペンダントも、聖女の証のローブも、全部取り上げられた。
「もう少し元気になったら、新しい服を作ってあげるわ。私、針仕事は得意なのよ」
「えっ、でも……そんな、申し訳ないです」
「お礼なんていいの。うちの旦那様が助けた子だもの。気にしなくていいわ」
私は、何度も頭を下げた。感謝してもしきれないくらい、みんながあたたかくしてくれた。
それは、王都にいた頃には感じられなかったものだった。
偽りの聖女なんて、言われることもなくて。
誰かの道具じゃなくて。
ちゃんと、“一人の人間”として見てもらえる。
――ここでなら、もしかしたら私は。
もう一度、生きていけるかもしれない。
そう思えた、その日だった。
ディラン様が、私に「散歩に出るぞ」と言ったのは。
森の中の風は冷たくて、でもとても清らかだった。
あの日、ディラン様が「散歩に出るぞ」と言ったのは、朝日がのぼってすぐのことだった。私はまだ体の調子が万全じゃなかったけれど、あの人の目を見たら、なぜだか「はい」と答えていた。
黒い外套を羽織ったディラン様と一緒に、私は屋敷の裏にある小道を歩いた。まだ雪が残る道だったけれど、所々に春の花が咲き始めていて、小さな命の芽吹きを感じさせてくれた。
「この森は、ヴェルト領の中でも聖域に近い場所だ。魔物もあまり寄りつかん。安全だ」
「……そうなんですね。なんだか空気が澄んでいて、王都とはまるで違います」
王都の空気は、きらびやかで美しかったけれど、その美しさの下には冷たい視線や、押しつぶされそうなほどの期待が渦巻いていた。私はいつも息苦しかった。
でも、ここでは深呼吸できる。目を閉じれば、心の奥まで風が通り抜けていくみたいだった。
「……おまえは、王都の人間だろう。どうしてこんな場所まで来た」
ディラン様の声は低く、でも優しかった。無理に問いただす感じではなくて、ただ、私の心に触れようとしてくれているような……そんな声だった。
私は、少し迷ってから、ゆっくりと口を開いた。
「わたしは、“聖女”でした。神の声を聞く力があると言われて、祝福を与える存在として選ばれたんです。でも……」
足元の小石を見ながら、言葉を続ける。
「ある日、神殿で神託が下ったと告げられました。“この女は偽りの聖女である”って……。それだけで、すべてを失いました。信じてくれた人たちも背を向けて、大切な人にまで……」
声が震えた。けれどディラン様は何も言わず、ただじっと聞いてくれていた。それだけで、私はどこか安心して、ぽつりぽつりと話し続けた。
「理由も知らされずに、牢に入れられて、数日後には“追放”されて……。何も持たされず、着の身着のままで荒野に放り出されました。もう、生きてるのが苦しくて……」
「…………」
しばらくの沈黙が流れた。
でも、木々のざわめきや鳥の声がその沈黙を優しく包んでくれて、私はそれをつらく感じなかった。
そしてディラン様が、ぽつりと小さな声で言った。
「……誰かに信じられるというのは、時に、呪いにもなる」
私は顔を上げて彼を見た。その横顔には、影のような悲しみが浮かんでいて、私はなぜだか胸が締めつけられる気がした。
けれど、それ以上は聞けなかった。彼にも、きっと過去があるのだろう。でも、それを言う義務なんて、誰にもない。
その日から、私は少しずつ、辺境伯の館での生活に慣れていった。
朝はカーラさんが焼いてくれるパンの香りで目覚めて、昼は屋敷の中を歩き回って少しずつ体力を戻して、夜には書庫で本を読む時間をもらった。
ディラン様とは、毎日ではないけれど、時々食事を一緒にした。
彼は無口で、食事中もあまり喋らなかったけれど、ときどき「スープはどうだった?」とか、「寒くないか?」とか、さりげなく私を気づかってくれた。
その一言が、私にとっては何よりも嬉しかった。
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