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しおりを挟むその日、私は朝からなんだか落ち着かなくて、何度も窓の外を見ていた。
理由は、わかっていた。
ディラン様――じゃなくて、「ディラン」が、今日、城下町まで出かけていたからだ。
「すぐ戻る」と言っていたし、彼が無事じゃないはずがないって、頭ではわかっていた。でも、なぜだか心がそわそわしてしまって……胸の中が風に煽られるカーテンみたいに、ふわふわと落ち着かなかった。
カーラさんには「恋のはじまりだねえ」と言われたけれど、私はその言葉を聞いて、ますます顔が熱くなってしまった。
「こ、こい……!? い、いえ、そんな……っ!」
「ははは、否定すればするほど怪しいもんだよ、リュシアちゃん」
カーラさんはにこにこと笑っていたけれど、私はもうそれ以上、何も言えなかった。
ディランのことを考えると、心が温かくなった。
彼の少し低くて落ち着いた声、ふいに優しくなる眼差し、不器用な手つきで差し出してくれるマント……。
どんなことでも、すぐに思い出してしまう。
――私は、きっともう、彼のことが好きになってる。
はっきりと気づいたのは、あの星の湖での夜だった。
あの時、名前で呼んでくれたこと。
そして、私にも名前で呼んでいいって言ってくれたこと。
そのひとつひとつが、私の心をやさしく溶かしてくれた。
午後、私は中庭で洗濯物を干していた。春の風がやさしくて、空には白い雲がふわふわと浮かんでいる。私の心も、それに似ていた。
ふいに、足音がした。
「……リュシア」
「――!」
その声を聞いた瞬間、私の手からシーツが風に飛ばされた。
「あっ、ま、待って……!」
私はあわててシーツを追いかけて、駆け出した。風は思いのほか強くて、布はふわふわと空を舞う。
それを――ディランが片手でぱしっと受け止めた。
「……おまえは、ほんとに落ち着きがないな」
「えへへ、ごめんなさい。でも……ありがとう」
私はシーツを受け取りながら、彼の顔を見上げた。
彼は少しだけ目を細めて、私の髪にかかった小さな草を取ってくれた。
「……戻ったぞ」
「おかえりなさい。待ってました」
その言葉に、彼は少しだけ目を丸くしたあと、ふっと息を吐いて「そうか」と呟いた。
その日の夕食は、カーラさんが特別なスープを作ってくれた。
「ディランが帰ってきた祝いだよ」と言いながら、香草とお肉をたっぷり使った贅沢な一品だった。
「うまい」
ディランがそう言って、私の方を見た。
私は「でしょ?」とにっこり笑って、パンをちぎった。ディランの口元が、少しだけ緩んだ気がして、私はまた胸があったかくなった。
「今日、町では何をしてたんですか?」
「……馬の蹄鉄の交換と、武器屋の視察。それと……これを買ってきた」
そう言って、彼は何かを机の上に置いた。
それは、小さな包みだった。私が手に取って開いてみると、中からは……。
「……手袋?」
「その……おまえが、よく手をかじかませてたから。少しでも寒さがやわらげばと思って」
「…………」
私は一瞬、言葉が出なかった。
深緑の毛糸で編まれた手袋は、小さな花の刺繍がほどこされていて、とても丁寧なつくりだった。
「わ、わたしに……?」
「ああ」
「うれしい……です。ありがとう、ディラン」
ぎゅっと手袋を抱きしめた私は、たぶんそのとき、少し泣きそうな顔をしていたと思う。
だって、あんな風に優しくしてもらったのは、久しぶりだったから。
私が“聖女”と呼ばれていた頃は、たくさんの人が頭を下げて、言葉を選んで接してきた。
でもその優しさは、表面だけだった。
私という人間を見てくれていたわけじゃない。誰も、私の寒さなんて気にしてくれなかった。
――でも、ディランは違った。
彼は、私の手が冷たいことに気づいてくれた。私が言葉にしなくても、ちゃんと見てくれていた。
それだけで、もう十分すぎるほど、うれしかった。
食後、私は手袋をはめたまま中庭に出た。
星がまた、空いっぱいに輝いていた。
静かな夜の風に吹かれていると、どこか遠い場所で聞いた、昔の祈りの言葉が思い出される。
――どうか、光が再びこの身に宿りますように。
私の隣に、静かにディランが立った。
「……星が、きれいですね」
「ああ」
「前はね。こんなに星がきれいだって、気づかなかったんです。きっと、心に余裕がなかったからだと思う」
「…………」
「でも、今は……こうして見ていられる。あなたが、ここにいてくれるから」
その言葉を言ったあと、私は、どきどきして胸が痛いほどだった。
こんなふうに、誰かに自分の気持ちを伝えたのは初めてだったから。
ディランは、しばらく黙っていた。
でもその手が、私の肩にそっと触れて。
「俺も……おまえがここに来てくれて、よかったと思ってる」
小さな声だったけど、その言葉は、何よりも温かかった。
この人のそばに、もっといたい。
この優しさを、私も返したい。
それが恋だってことを、私はようやくはっきりと理解した。
こうして、私の心は少しずつ、少しずつ、ほころんでいったのだった。
春の光が、やさしく窓をたたいていた。
鳥の声が高く響き、空は、まるで絵に描いたように澄んでいる。
私は小さな花壇の前に座って、膝の上で手を重ねた。
数日前、ディランからもらった手袋は、もう必要なくなっていた。けれど私は、それを丁寧に箱にしまって、毎晩そっと触れてから眠っていた。
まるでおまもりみたいに。
――こんな日々が、ずっと続けばいい。
そう思っていた。けれど、現実はそれを許してくれなかった。
「リュシア」
低く、重い声が背後からした。
ディランだった。
彼はいつも通り冷静に見えたけれど、その眉の奥に、何かを押し隠しているのがわかった。
「どうか……したんですか?」
私がそうたずねると、ディランは一枚の手紙を私に差し出した。
王都の印が押された封筒だった。
胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
「王都から……?」
「ああ。王宮直属の使者が今朝、到着した」
私はそっと封を切った。手が、少し震えていた。
便箋には、硬くて冷たい文字が並んでいた。
《聖女リュシアの行方が判明したとの報を受け、改めて王宮は彼女を召喚することを決定した。主神庁の神託に基づき、彼女の処遇について再審議を行う。聖女としての真実を明かす機会を与える。直ちに王都へ連行されたし》
――なにそれ。
胸の奥に、黒く重たい何かが落ちていく。
「再審議……? いまさら……?」
言葉が、唇からもれた。
「……冗談じゃない」
私は手紙を握りしめた。
あのとき、神託によって私は「偽りの聖女」と呼ばれ、裏切られ、追放された。
それなのに、いまさら真実を明かす機会だなんて――まるで私に恩を施すみたいに。
「リュシア。おまえの意思を聞かせてくれ。……行くか? 行かないか?」
ディランがそう言った。
私は彼を見上げる。
真っ直ぐなそのまなざしが、私の目を捉えて離さなかった。
「わたしは……」
一瞬だけ、迷った。
でも――答えは、すぐに出た。
「行きません。あんな人たちに、私の人生をまた踏みにじられるなんて、まっぴらです」
ディランは小さく頷いた。
「そうか。それなら、俺の屋敷にとどまっていていい。誰にも、おまえを渡したりしない」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
「……守ってくれるんですか?」
「ああ。俺の剣にかけて、誓う」
その声は、いつものように静かだったけれど、不思議と心が温かくなった。
けれどその日の夜。
別の報せが届いた。
カーラさんが血相を変えてやってきた。
「大変だよ、ディラン様! 王都からの兵が、すでに国境を越えたって!」
「何だと……?」
ディランの目が鋭く細められる。
カーラさんの話によれば、王都から派遣された“特別任務部隊”が、リュシアの身柄を確保するために強行で進軍しているという。
「そんな……! 話し合いもしないで……!」
「最初から“話し合い”なんてする気、なかったんだよ、あの人たちは」
カーラさんがきっぱりと言う。
私は、ぎゅっと胸元を押さえた。
ああ、やっぱり……。
王都は、まだ私を「聖女」なんかじゃなくて、「利用できる道具」としか見ていない。
その夜。
私はディランの部屋をたずねた。
彼は机に向かって、戦略図を眺めていた。
「ディラン」
「……リュシアか」
彼はゆっくりと振り向いて、私の顔を見た。
「どうした?」
私は静かに、彼の前に立つ。
「お願いがあります」
「……何だ」
「王都へ行きます」
その言葉に、彼の目が鋭くなった。
「なぜだ。おまえはあれほど……」
「ええ、怖いです。行きたくありません。でも、私がここにいるせいで、ディランや、カーラさんや、みんなが危険な目に遭うのはもっと嫌です」
彼は黙っていた。
私は続けた。
「私が、聖女だったこと。それが“偽り”だったのか“真実”だったのか。それをはっきりさせたい。今度こそ、私自身の言葉で」
沈黙が、部屋を包む。
でもやがて、彼は立ち上がった。
「……わかった」
「……!」
「ただし、おまえひとりでは行かせない。俺が護る。王都まで、ずっと一緒だ」
私は目を見開いたまま、動けなかった。
そして、涙がぽろぽろとこぼれてきた。
「ありがとう……」
「礼はいい。……俺はおまえを、信じてるから」
こうして、私とディランは再び、王都への旅路へ向かうことになった。
聖女という名のもとにすべてを奪われた私が。
今度は自分の足で、すべてを取り戻すために。
朝の光が、しんと静かな空を照らしていた。
まだ夜の名残が残る薄暗い空の下、私はディランとともに馬車に揺られていた。
窓の外には、広い草原と遠くの山々が見える。
旅は順調だった。けれど、心の中にはずっと、小さなとげが刺さったまま。
「……王都、近づいてきましたね」
私はぽつりとつぶやいた。
「緊張してるか?」
ディランがそっと聞いてくる。
私は、こくんとうなずいた。
「はい。でも、覚悟はできています。たとえまた、誰かに罵られても。逃げません」
するとディランは、ほんの少しだけ笑った。
「それでこそ、俺の好きになった女だ」
私はびっくりして、ディランの顔を見た。
けれど彼は、すでに視線を外の景色に向けていた。
「そ、そんな……いきなり……!」
頬が熱くなって、私はあわてて窓の外を見た。
ディランって、本当にずるい人だ。
数日後、私たちは王都近くの宿場町に到着した。
人々の顔には疲れが見え、町の空気もどこか重たい。
王都に近づくにつれて、心がざわざわしてくる。
そんな中、ひとつの屋台の前で、私たちは思わぬ人と再会した。
「リュ、リュシア……?」
震える声がして、振り返ると、そこにいたのは――ミレイナだった。
彼女は、私が王宮にいたころ一緒に修道院で学んだ、友人……だった人。
「ミレイナ……」
その名前を口に出すのは、何年ぶりだろう。
「ほんとに……ほんとにリュシアなの……!? 生きてたのね……!」
ミレイナは、目に涙を浮かべながら駆け寄ってきた。
けれど私は、一歩後ろに下がってしまった。
その瞬間、ミレイナの顔が悲しそうにゆがむ。
「……ごめんなさい。私、あの時、何もできなかった。リュシアが追放されるって聞いて、こわくて、なにも言えなくて……」
私は黙っていた。
頭ではわかってる。あのとき、彼女もまた神託を信じるしかなかったのだって。
でも、心は――まだ追いついていなかった。
「どうして、いま私のところに来たの?」
そう聞くと、ミレイナは小さく息をのんでから、こう言った。
「主神庁の神官長が……近いうちに、聖女の再審議をするって聞いたの。だから、どうしても伝えたくて……」
「伝える?」
「うん。あの神託、ほんとは……」
そのときだった。
――バンッ!
大きな音がして、私たちの周囲を黒いフードの兵士たちが囲んだ。
「リュシア様、身柄を確保いたします。主神庁より正式な命令です」
ミレイナが青ざめて叫ぶ。
「やめて! リュシアは……!」
「下がれ! 関係のない者は巻き込まれるぞ!」
そのときだった。
ディランの剣が抜かれる音が、空気を切り裂いた。
「この女に、指一本触れてみろ。貴様ら全員、切り伏せる」
低い、鋭い声。
兵士たちは一瞬ひるんだ。
「こ、これは王都の正式な命令だ!」
「だったら、その命令状を見せろ。まさか口だけじゃあるまいな」
そう言って、ディランは一歩、また一歩と前に出た。
兵士たちは互いに顔を見合わせ、やがて悔しそうに剣を収めていった。
「……本件は上に報告する。辺境伯ディラン、あなたもただではすまないぞ」
「何度でも報告するがいい。俺は、彼女を守ると決めたんだ」
兵士たちが去ったあと、私はへなへなとその場に座り込んでしまった。
ミレイナがそっと私の手を握る。
「リュシア……怖かったね。でも、よかった、無事で」
「うん……ありがとう」
私は、ミレイナの手を握り返した。
まだ心の奥の痛みは残っていたけど、それでも――この再会には、少し救われた気がした。
その夜、私たちは宿場町の外れにある小さな宿に泊まった。
ディランはずっと、窓の外を見ていた。
「敵がここまで動いているということは、王都で何かが起きているな」
「……何かって?」
「主神庁の中に、何かを隠している奴がいる可能性が高い」
私は思い出した。あの神託の日。
誰もが突然、私を責め、聖女の称号を奪った。
まるで、最初から決められていたかのように。
「まさか、神託が……嘘だった、なんて」
「それを証明するのが、おまえの役目だ。いや――おまえだけが、それをできる」
私は、そっとうなずいた。
「怖いけど……でも、今度は負けたくない。真実を、はっきりさせたい」
ディランは、私の髪をそっと撫でた。
「おまえなら、できる。……だから俺は、ずっとそばにいる」
その言葉が、何よりの力になった。
私は眠る前に、そっと祈った。
あのとき失ったものを、もう一度取り戻せますように。
そして、誰かのためじゃなく、自分の意志で、聖女として歩けますように。
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