私を捨てた婚約者へ――あなたのおかげで幸せです

有賀冬馬

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カーター様の姿を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。

 でも、もう逃げたりはしない。だって、わたしには――もう、セシル様がいてくださるから。

 「……どうしてここに」

 わたしは、しっかりと顔を上げて、カーター様を見つめた。

 「会いにきたんだよ、アンナ」

 彼は相変わらずの、自信たっぷりの笑みを浮かべていた。

 その笑顔が、昔は怖かった。何をされるか分からないって、いつもおびえてた。

 でも今は――ただ、うすっぺらく見えた。

 「ふーん……おまえ、ずいぶん綺麗になったじゃないか。オレと別れてから何かあったのか?」

 「……わたしは、あなたと別れて、初めて笑えるようになりました」

 「……っ!」

 カーター様の表情が一瞬ひきつった。

 だけど、すぐに取り繕うように笑って、わたしの方へ一歩近づく。

 「まあ、いろいろあったよな。オレも、ちょっと反省してるっていうか……悪かったよ。昔のことはさ。だから、もう一度やり直さないか?」

 「……はい?」

 耳を疑った。

 今、なんて言ったの?

 「やり直す……って、誰と誰が?」

 「決まってるだろ? オレとおまえだよ、アンナ」

 ……ほんとうに、信じられない。

 この人は、何も変わってない。何も分かってない。

 「ふざけないでください」

 わたしの声が、思ったよりも冷たかった。

 「あなたがどれだけわたしを傷つけたか、分かってますか? 毎日のように冷たい言葉を浴びせられて、馬鹿にされて、侍女よりもひどい扱いをされて……」

 「そんなのは、ちょっとしたじゃれあい、みたいなもんじゃないか?」

 「じゃれあい?」

 わたしの声が震える。

 「……あのとき、わたしは、毎晩泣いてたんです。部屋で、誰にも聞かれないように、声を殺して……!」

 カーター様は言葉を失ったように、口をぱくぱくとさせている。

 だけど、もう遅い。

 どんな言い訳も、どんな謝罪も、わたしの心には届かない。

 だって――

 「わたしには、セシル様がいます」

 その言葉を口にしたとたん、胸の奥がすうっと軽くなった。

 「セシル様は、わたしの話をちゃんと聞いてくださいます。わたしのことを、まっすぐに見てくださいます。あなたとは、違います」

 「お、おまえ……オレよりあんな地味なやつを選ぶってのか? オレは金もある、地位もある、顔だって――」

 「でも、心がない」

 ぴしゃりと、その言葉を突きつけた。

 カーター様は、まるで殴られたかのように後ずさった。

 「……信じられない。オレが……振られるなんて……!」

 「あなたは、いつも自分のことばかりでした。わたしのことなんて、ただの飾りみたいに思ってた。そんなあなたに、わたしはもう一度笑いかけることなんて、できません」

 「アンナ……!」

 カーター様が手を伸ばしてきた。

 でも、その手が触れるより先に――

 「彼女に、指一本触れさせませんよ」

 背後から、聞き慣れたやさしい声が響いた。

 セシル様が、わたしの前にすっと立ちはだかる。

 「セシル様……」

 「彼女は、もうあなたのものではない。……いえ、もともと、あなたのものだったことなど一度もない」

 カーター様が言葉を失い、その場に立ち尽くす。

 「……覚えておけ。誰かを本当に手に入れたいと思うなら、まずはその人を大切にすることだ。さもなければ、全てを失うだけだ」

 その声は、冷たくもあたたかかった。

 カーター様は、唇をかみしめて、無言のまま背を向けた。

 そして――そのまま、何も言わずに去っていった。

 

***


 「アンナ嬢、大丈夫ですか?」

 セシル様が、わたしの手をそっと取ってくださる。

 その手があたたかくて、思わず、わたしの目から涙がこぼれた。

 「はい……今度こそ、本当に終わったんですね」

 「ええ。あなたの過去は終わりました。これからは、未来だけを見て歩いていきましょう」

 わたしは、うなずく。

 心の中にあった重い鎖が、ぱらぱらとほどけていく。

 セシル様の手を、きゅっと握り返して、わたしは小さく笑った。

 「わたし……ちゃんと前に進めますか?」

 「もちろんです。あなたは、もう一人じゃありません」

 ――そう。わたしは、もう、ひとりじゃない。

 もう、涙を隠して生きることもない。

 これからは、やさしい光の中で。

 そして、愛されながら、生きていける。




***




 朝の陽ざしが、やさしくカーテンのすき間から差しこんできて――わたしは、そっと目を開けた。

 「……あ、もう朝なんだ……」

 夢のような時間が過ぎて、あれから数日。

 カーター様との再会は、まるで嵐みたいだったけど、終わったあとは不思議なくらい、心がすっきりしていた。

 なにより――セシル様の、あのやさしい言葉とぬくもりが、わたしをまるごと包んでくれたから。

 「……アンナ嬢、起きていますか?」

 部屋の外から、ノックとともに聞こえるセシル様の声に、わたしはぱっと跳ね起きた。

 「は、はいっ、起きてますっ!」

 「よかった。朝食をご一緒しませんか?」

 「……よ、喜んでっ!」

 寝ぐせを手ぐしでどうにかしながら、わたしは慌てて鏡の前に立つ。よし、顔は……ちょっと赤いけど、大丈夫、大丈夫!

 今日のドレスは、昨日セシル様が選んでくださった、白とラベンダーのやさしい色合いのもの。袖にちょこんと付いた小さなレースが、ちょっとだけお姫様っぽくて、着るだけでどきどきする。

 ――でも、これを着ると、セシル様がすごく嬉しそうな顔をしてくれるの。

 だから、わたし、がんばって似合うようにしたいんだ。

 お部屋を出ると、セシル様がいつものように、廊下の向こうで待っていてくださった。

 その姿を見ただけで、胸がきゅんってなる。

 「アンナ嬢、今日もとても綺麗ですね」

 「そ、そんな……お、おはようございます……」

 「ふふ。照れている顔も素敵ですよ」

 やさしい声に、思わず顔を隠したくなっちゃう。けど、なんだかうれしくて、自然と笑顔になれた。

 朝食の席では、お屋敷の大きな窓から、お庭の花たちが見えていた。春の陽気に誘われて、小鳥たちが楽しそうにさえずってる。

 「ねぇ、セシル様。今日はお庭を歩いてもいいですか?」

 「もちろん。アンナ嬢が望むことなら、なんでも」

 「え、えっと……じゃあ、いっしょに……」

 「はい。ご一緒しましょう」

 わたしの手に、そっと重なるあたたかい指。

 心臓が跳ねたみたいに、どきどきする。

 こんな時間が、ずっと続いたらいいのに――そう思った。

 

***



 お庭のベンチに腰かけて、風にゆれる花を見つめながら、わたしはぽつりとつぶやいた。

 「……なんだか、不思議です」

 「何がですか?」

 「ついこの前まで、毎日泣いてばかりだったのに。今は、こんなに穏やかで……あたたかくて……」

 「……それは、アンナ嬢が頑張ったからですよ」

 「でも、わたし、ほとんど何もしてません。助けてもらってばかりで……」

 セシル様は、わたしのほうをじっと見て、そしてやさしく笑った。

 「誰かに甘えることも、ちゃんと生きる力になるんですよ」

 「……生きる力、ですか?」

 「ええ。苦しいときに、誰かに助けを求めること。支えてもらうこと。そして、笑顔を取り戻すこと。それが、どれだけ強いか……アンナ嬢は、ちゃんと証明してくれました」

 「……セシル様」

 胸があつくなる。あたたかい言葉が、心の奥に染みわたっていく。

 わたし、ずっと「変わらなきゃ」って思ってた。

 でも、セシル様は「変わらなくてもいい」って、言ってくれる。

 わたしがわたしのままで、幸せになっていいって――

 「ねぇ、セシル様」

 「はい?」

 「……わたし、これからもずっと、あなたといっしょにいても、いいですか?」

 言葉が震えてしまったのは、緊張してたからじゃない。

 本気だったから。

 セシル様は、少し目を細めて、わたしの手をぎゅっと握りなおした。

 「もちろんです。ずっと、ずっと……あなたのそばにいます」

 その言葉に、涙がこぼれた。

 でも、今度の涙は、悲しさじゃなくて――うれしさの涙。

 「ありがとう……ございます……」

 

***


 季節は少しずつ、春から初夏へと移り変わっていく。

 お屋敷のお庭には、あたらしい花が咲き、わたしの心にもまた、ひとつ新しい想いが芽を出す。

 わたしはもう、泣いてばかりのアンナじゃない。

 誰かに笑いかけることも、自分の気持ちを伝えることも、少しずつだけどできるようになってきた。

 「セシル様、今日は何をしましょう?」

 「ふふ。今日はですね、アンナ嬢の笑顔を一日中見られたら、それで満足ですよ」

 「もう……からかわないでください」

 「本気ですよ?」

 そう言って笑うその人が、わたしの世界でいちばん大切な人。

 だから、これからは、わたしもこの人の幸せを守りたいって――そう、思えたの。

 これは、泣き虫で弱虫だったわたしの、ちいさな恋の物語。

 でも、誰よりも、まっすぐで――しあわせな、わたしだけの物語。

 そして今、わたしの心は、やさしい光に包まれている。

 
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