平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第5話 「微笑みの種」

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 朝露の残る庭で、カイルは剣を拭いていた。
 庵の庇の下、陽が板壁で一度柔らかく砕け、刃にだけ細い光が乗る。彼は膝に布を敷き、鞘と剣を水平に置くと、油の染みた綿で粒子の流れをそっと整えた。拭く、ことより、撫でる、に近い。刃の背から腹へ、腹から峰へ。呼吸と同じ速度で。

「……丁寧だね」

 思わず声がこぼれた。火の番をしようと外へ出た私は、その手付きに足を止めていた。
 剣の手入れをする人は何人も見たことがある。衛兵、騎士、父の下で働く護衛――彼らの動きは実利的で、時に乱暴だ。けれど、カイルのそれは違う。刃と対話をしているような、余白を怖れない時間の使い方。

「丁寧じゃないやり方をすると、あとで倍、苦労する」

 彼は視線を刃から外さないまま、短く言う。
 切っ先を布で包み、柄の鉄環を指の腹で一周なぞる。音はほとんど出ない。出ないけれど、そこに音楽があるような、調子の整い方だった。

 違和感は、その滑らかさから来た。
 腕の運び。肘の角度。肩の無駄のなさ。
 どれも私の知る“騎士”の動きに似ているのに、どこか一段抽象的で、洗練が過ぎるのだ。
 ――王城の中庭。
 訓練を見学させてもらった日、王族のみが学ぶと言われた古い剣筋を、遠くから一度だけ見たことがある。型というより、呼吸のリズム。美しさを実利に落とす、あの奇妙な均整。
 カイルの手首がひとつ返り、刃が日を吸った瞬間、記憶の中の庭が重なった。

「カイル」

「ん」

「それ、どこで覚えたの」

「歩きながら」

「歩きながら、ね」

 私は笑って誤魔化す。追い詰める気はない。問いを投げて、跳ね返ってくる“重み”だけを確かめる。
 彼は答えない。けれど、沈黙が固くなりすぎないように、手元の油を瓶から一滴、布へ落とした。会話のかわりに、油の点が光る。

「今日は市場、早めに行くのがいい」

「どうして」

「昨夜、知らない顔が多かった。今朝は人出が増える」

 私たちは目を合わせずに、情報だけを置き合う。
 庵の戸を閉めるとき、壁際の棚に目が触れた。古い木箱が一つ。いつもは布切れの下に隠れているそれが、今日は半分だけ顔を出している。
 ほんの、好奇心の角度。
 木箱の蓋は、釘ではなく小さな回し留めで固定されていた。主の癖が出る細工だ。私は視線を逸らし、戸に閂をかける。

     ◇

 市場は、祈りの後のざわめきで満ちていた。
 パンの皮が割れる音、野菜の水気が木箱に滲む音、露店の布が柱でこすれる音。
 私は店主たちの求めに応じて値札を書き、子どもたちにひらがなを教える。昨日“り”を覚えた子は、今日は“み”を書けるようになった。
「“み”は、みみみって、耳が三つ、みたいな形」
「みっつ耳?」
「そう、耳が元気すぎる感じ」
 笑いながら炭筆を動かすと、背後で控えめな咳払いがした。

「ミリア」

 振り向けば、乾物屋の老婆。
「こっちで帳付け、見ておくれ」
「はい」

 帳場の隅に座り、紙の端のしみを避けながら数字を揃える。老婆の視線は厳しいが、指先は震えていた。
「最近、目が逃げるのさ。あんたの目は若い。まっすぐ」

 若い――若さは、今の私にとって褒め言葉か罰か、まだ決められない。
 真っすぐ、の方は、たぶん無意識の強がりだ。
 数字を積み上げて合計を出し、誤差を指で追う。人の暮らしは、数字と匂いでできている。そう思いながら、私は炭筆の粉で少し黒くなった指をこすった。

 昼に近づくにつれ、空気がわずかにささくれた。
 買い物の声の調子が荒く、笑いの陰が薄い。
 広場の端で、見慣れない男たちが三人、馬を繋いでいた。粗い革鎧、刃こぼれした短剣。目が笑わない。
 市場をふらりと一周し、値段を聞いては舌打ちをし、子どもたちの肩にぶつかっても謝らない。
 嫌な形の波だ。
 私は炭板を抱え直し、子どもに言う。「今日はここまで。昼の鐘が鳴る前に、家に帰って」
「えー」
「約束。帰ったら、今日の字を家の人に見せて」
 しぶしぶ散っていく背中を見送り、私は乾物屋の軒先で短く息を整えた。

 男たちのうちの一人が、蜂蜜パンの露店で店主に絡んでいる。
「高いじゃねえか」
「朝から値は変えとらんよ」
「さっきは一銅貨だって言ったろうが」
「二切れで一銅貨」
「聞こえねえなぁ」
 肩で押され、店主の女がたたらを踏む。周りの視線が集まるが、誰も踏み出せない。
 踏み出したら、争いは形になる。形になったものは、誰かが止めなきゃいけなくなる。
 みんな、家族がいる。
 みんな、守るものがある。
 だから、踏み出せない。
 それは責められることじゃない。私は知っている。痛いほど。

 「おい、手を離せ」
 その声は大きくも太くもないのに、広場の空気を一箇所で折った。
 カイルだ。
 いつの間にか、彼は男の肩の斜め後ろに立っていた。立ち方すら簡潔だ。足幅、肩の角度、視線の高さ――“やるならここ”を全部、先に決めている。
 男が振り向く。「なんだお前」
「客」
「なら黙ってろ」
「客は、殴られる店より、殴られない店で買う」
 言葉は平板だが、意味は鋭い。
 男の口角が吊り上がる。「気に食わねえな、その顔」
「顔は直せない」
「なら、骨を曲げてやるよ」

 先に手を出したのは、男だった。
 振り上げられた拳を、カイルは半歩だけ下がってやり過ごす。距離が紙一重で再構成され、次の瞬間には男の手首が空を掴んでいた。
 返す手は最小限。肩は上がらない。肘は閉じる。
 打たない。崩す。
 男の膝が勝手に折れて、土埃が舞う。
 別の男がナイフを抜いた。
 ――抜いた、のに、私は刃を見なかった。カイルの体の線が、刃と私の視界の間にすっと入ったからだ。
 短い金属音。
 何が起きたのか、音だけが先に理解する。
 ナイフは手の中で方向を失い、男の指から離れて、石畳を転がった。
 カイルは踏み込みもせず、ただ“右ではなく左”、を選び続けているように見えた。
 王族の剣筋――としか言いようがない、あの呼吸の均整。美しさに意味がある使い方。
 私は、見惚れた。
 怖さではない。
 救いに、見惚れた。

「やめておけ」
 最後の男が腰の剣に手を伸ばしかけた瞬間、カイルの声が落ちた。
 落ちただけで、響いた。
 男の手が止まる。止まることができる相手でよかった、と心底思う。
 止まれない奴なら――血が、出る。
 止まった男は舌打ちをして、倒れた仲間を蹴って立たせ、馬の方へ引きずる。
「誰だよ、お前」
「客」
「……二度と来ねえ」
「それが、いい」

 馬の蹄が石を叩いて去り、広場の音が戻ってくるまでに、少し時間がかかった。
 パンの店主が震える指で棚を直し、蜂蜜がこぼれた紙を拭く。
 周りから、遅れて拍手が起きた。
 それは感謝より安堵の音で、誰もヒーローをつくりたくない、という願いが添えられていた。
 カイルがそれを受け取らず、ただ頷いたことに、私はやっと呼吸を思い出す。

「大丈夫?」
 駆け寄ると、彼は肩をすくめただけだ。
「誰も怪我はない」
「……あなたは」
「ない」

 私は胸の前で手を握りしめ、ゆっくり開いた。
 尊敬、という言葉は軽い気がして、口から出せない。
 感謝、という言葉は近すぎて、逆に逃げ出した。
 代わりに、無意味な言葉が喉まで上がる。危なかった、よかった、すごかった。
 どれも違う。
 私は深く息を吸い、短く言った。
「ありがとう」
 簡単すぎる言葉。それでも、今の胸の形に、いちばん合った。

 カイルは「うん」と目で答え、落ちたナイフを足先で遠くへ弾いた。
 乾物屋の老婆が杖をついて近づき、ふんと鼻で笑う。「やるもんだねぇ、放浪の騎士さん」
「放浪してるだけです」
「見りゃわかるよ。あんた、足の置き場を知ってる。偉い家の庭で覚える歩き方だ」
 私は思わず老婆を見た。
 彼女は目を細め、カイルの肩から靴先までを見て、何も言わずに踵を返した。
 市場は賢い。見て、覚えて、必要な分だけ忘れる。

     ◇

 夕方、小屋に戻ると、私は水桶に写る自分の顔を見た。
 頬に赤みが残り、目が少し広い。
 驚きと、安堵と、誇りと――それから、困ったことに、嬉しさが混じっている。
 嬉しい。
 誰かが、私のいる場所を守ってくれたことが。
 私の知る“力”とは違う形で。
 命令ではなく、見せびらかしでもなく、必要な分だけ。

 カイルは庭で手を洗い、指の間まで水を通していた。
「手、見せて」
「大丈夫だ」
「見せて」
 彼は苦笑して手を差し出す。指に新しい傷はない。掌の皮は固いが、どこも割れていない。
「ほんとに、強いんだね」
「強い、より、迷わないを先にやる」
「迷わない?」
「迷ってる間に、誰かが怪我をする」
 言い切った声は、固くない。自分にだけ言ってるような響き。
 私はうなずくしかなかった。

「晩は、俺が作る」
「今日は私が――」
「包丁、握るな」
「……はい」
 このやりとりも、もう形になっている。私は笑って、薪を整える役に戻った。

 火が育ち、鍋が湯気を上げる。
 静かになった庵の中で、私の視線は勝手にあの木箱へ滑っていった。
 さっきよりも、さらに少し、布がずれている。
 ――気になる。
 何かを確かめたい気持ちと、確かめたくない気持ちが、胸の中で押し合う。
 彼の剣筋。歩き方。今日の距離の取り方。
 王城の庭。
 訓練の呼吸。
 私は立ち上がり、薪の影を踏まないように棚へ近づいた。

 木箱の留め具は簡単な作りで、壊さなくても開けられる。
 私は息を止め、指先でそっと回し、蓋を持ち上げた。
 中には、布に包まれた小さなものが一つ。
 掌の上に乗せるほどの重さ。
 布をほんの少しだけめくる。
 銀の円――指輪だ。
 光を吸いすぎない、古い銀の色。
 正面に、細かい彫り。二つの獣が盾を支え、その上に小さな王冠。
 紋章。
 この国の、王族の紋章。

 指が固くなった。
 ――やっぱり。
 胸の中で、何かが音を立てる。崩れるのではない。
 組み上がる音。
 散らばっていた小さなピースが、ひとつの絵になる。

「何を、見た」

 背中で、カイルの声がした。
 驚かなかった。足音が最初から静かだったからだ。
 私はゆっくり振り向く。指輪は布で包み直し、箱の中に戻してある。
「ごめんなさい」
「怒ってない」
「でも、開けたのは私」
「怒ってない」
 彼は棚と私の間に立った。目は穏やかだが、視線は深くない。こちらの顔色を、無理に覗き込もうとしない。

「それ、あなたの?」

 問うと、ほんの短い沈黙。
 彼はきちんとうなずいた。
「借り物だ」
「誰から」
「……昔の自分から」

 私の口から、息が抜けた。笑っていいのか迷って、笑わなかった。
 彼は木箱の蓋をそっと閉じ、留め具を戻した。
「見たものは、見たもの。俺は隠し通すのが上手くない」
「上手だと思う」
「本当に隠す人は、箱を持たない」
 そう言って、彼は台所に戻った。
 私は自分の胸に手を当て、革袋の硬さを確かめる。
 鍵。
 彼の指輪。
 どちらも、過去と未来をつないでしまう形。

「……教えてほしいことが、いっぱいある」

 私が言うと、彼は鍋を見たまま答えた。
「いまは、晩飯が先だ」
「そうだね」
 火が“ぱち”と笑う。
 私は火の番に戻り、呼吸を合わせる。
 問いは逃げない。
 でも、いまは“温かい”を、温かいうちに。

     ◇

 夜、外は風が出た。
 庵は低く唸り、屋根の影が壁をかすめる。
 私は寝床に横になり、天井の節穴と、炎の残りが作る影の揺れを見ていた。
 胸の中には、今日の出来事が重なっている。
 市場のざわめき。
 ナイフの落ちる短い音。
 カイルの「やめておけ」。
 そして、木箱の中の銀の冷たさ。

 怖くない、と言えば嘘になる。
 私はまた、嘘と本当の境界に立っている。
 でも、今日はその境界が、昨日より少し、やわらかい。
 問いは、追い詰める刃ではなく、微笑みの種にもなる。
 撒いたら、いつか芽が出る。
 今日の私には、芽が出るまで待てる余裕が、ほんの少しだけある。

 眠る前、扉の向こうで、彼の足音がした。
「眠れ」
「眠れるよ」
「なら、よかった」

 短い会話。
 それで十分だ。
 目を閉じる。
 火の匂い。
 風の音。
 胸の奥で、まだ小さな、微笑みの種が土を押し上げようとしていた。
 それがいつ芽吹くのか、誰にもわからない。
 でも、今夜は、土が温かい。
 それだけで、私は眠れた。

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