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第4話 「生きることの意味」
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朝は、鍋の湯気と鳥の声で始まった。
カイルの小屋の前には小さな畑があって、短い葱の葉が雨上がりの光を弾いている。包帯は薄くなり、手の痛みは輪郭を失いはじめていた。
私はゆっくり拳を握って開く。まだ痺れるけれど、動く。――動ける。
「今日は、どうする」
外套の紐を結びながらカイルが訊く。
「歩けるなら、市場まで一緒に。帰りに薪の束を小分けにして運ぼう」
「……働いて返すって、言ったから」
「返す相手は、俺じゃない。君の心だ」
「言い回しが、ちょっとずるい」
「実用的だ」
短い受け答えに、薪の火みたいな温度が宿る。私は頷き、靴紐を固く結び直した。
村の市場は、朝一番の匂いで満ちていた。焼いたパンの皮の香ばしさ、樽からこぼれる林檎の甘い香り、干し草の乾いた匂い、皮を剥いたばかりの玉ねぎの鋭さ。人いきれに混じって、遠くの川風が冷たく頬を撫でる。
露店の女主人がカイルを見ると、顎で私を指した。
「新しい子かい」
「手が治るまで。重い物は俺が」
「なら良かった。あたしの店、値札を書き直したいのさ。字がきれいな人、いない?」
カイルの視線が小さくこちらへ滑る。
「……やってみる」
私は紙と炭筆を受け取り、値札に“林檎 二個一銅貨”“蜂蜜パン 一切れ二銅貨”と書いていく。
女主人は覗き込み、目を丸くした。
「読み書きできるのかい。助かるねぇ。昼過ぎ、子どもらが店の前で暇してるから、ついでに字を教えておくれよ」
「え……子どもに?」
「三つ指まで覚えりゃ十分さ。数字と名前。できるかい」
「……やってみます」
午前は値札、午後は荷運び。手の負担にならない範囲で、軽い籠を運ぶ。合間に子どもたちが集まってくる。
「ねぇ、これ“二”って書いてある?」「こっちは“いちご”?」
「違う、これは“林檎”。“り・ん・ご”。ここ、丸く書くの」
炭筆を握った小さな手は、思った以上に力が強い。紙がぐしゃりと音を立てるたび、私は手首をそっと支えた。
「上手。ちゃんと“り”になってる」
「ほんとに?」
「ほんと。見て、この形なら誰が見ても“り”ってわかるよ」
子どもの顔がぱっと明るくなって、胸の奥のどこかが一緒に灯る。
気づけば、店先の木箱が黒板代わりになり、ひらがなと数字が並びはじめていた。
「“三”はこう。横線三つ。でもね、まっすぐ引くの、案外難しいの。肩の力、抜いて」
「こう?」
「そう。上から下へ、息を吐きながら――上手!」
いつの間にか、通りがかった大人たちも立ち止まって覗いている。
「ミリアちゃん、字が綺麗だねぇ」「うちの子にも頼むよ」
名前を呼ばれて、私はわずかに戸惑う。偽名が、人の口のなかで温度を持ち始める。不思議な重みだった。
カイルは店の端で麻袋を担ぎながら、こちらを一度だけ見た。視線は短く、けれどやわらかい。
何も言わないその“無言の評価”が、胸のどこかをじんわり温めた。
その日から、私は市場の隅で小さな書き付け教室を開くようになった。紙は貴重だから、板に炭を塗って何度も消して使う。
「“お”は難しい。丸の中に尾っぽがいるみたいに書く」「“七”は長い縦に短い横、逆にすると“十”」
正しく書けた子には、店の手伝いから出た小さなパンくずを分ける。
夕方、親が迎えに来る頃には、板は白い手跡でいっぱいだ。
「先生、また明日!」
“先生”。
その言葉に、胸の奥がくすぐったくなった。私のための称号じゃない気がして、慌てて手を振る。
「ミリアでいいよ。明日もここでね」
日が傾くと、風が川の湿り気を連れてくる。市場の喧噪はゆっくり薄まり、店の灯りがひとつ、またひとつと落ちていった。
帰り道、二人で歩く。ときどきすれ違う荷馬車の車輪が、濡れた石を鳴らす。
「少し、顔色が戻った」
カイルが言う。
「子ども、好きなのか」
「……嫌いじゃない。賑やかなのも。前は、こういう音が家にもあったから」
「家、って」
彼はそこから先を訊かなかった。詮索の手は伸びてこない。
胸の深いところに沈めていた記憶が、形だけ浮かぶ。食卓の音、笑い声、パンを切る母の手、父の椅子の軋み。
音は風景より先に戻ってくる。戻ってくるぶん、痛い。
小屋に戻ると、火を起こす。松ぼっくりに火を移し、細い枝、太い枝の順に。教わった通りに手を動かしているだけなのに、炎は素直に育った。
「晩は俺が作る」
「手伝う」
「包丁、握るな」
「……はい」
素直に答えると、カイルが少しだけ口元で笑った。「素直だ」
「毎回素直じゃないみたいに言わないで」
「事実だ」
反論しようとして、火の跳ねる音に言葉を飲む。こんな軽口を、最後に誰と交わしただろう。
鍋に葱、玉ねぎ、刻んだ芋。塩と少しの胡椒。香りが立つと、目がしみる。
私は薪の番をしながら、外の風を聞いた。
夜の匂いは、昼よりも正直だ。湿った土、生乾きの藁、遠くの焚き火。どれも、小屋の中の音と混ざって、胸の奥にある空洞をゆっくり埋めていく。
夕食を食べ終わる頃には、身体の緊張がほどけて、言葉がひとつ、またひとつと口をついて出た。
「市場の女の子、今日、自分の名前を初めて書けたの。目が、本当に光るのね。字って、こんなに顔を変えるんだって思った」
「力が、自分の手に戻ってくるときの顔を、してたろう」
「うん。――それで、私も、ちょっとだけ。戻ってきた気がした」
戻る場所はもうない。けれど、戻る“感覚”はある。
それに気づいた瞬間、喉の奥で熱が弾けた。
「……ごめん」
「何が」
「泣くつもりじゃなかったのに」
「泣いてもいい」
カイルは火を見たまま、湯の入った椀を差し出す。
私はそれを両手で受け、火に背を向けて息を整えた。
涙は、音を立てない。なのに、薪が“ぱち”と笑う。自分の弱さをからかわれているみたいで、でも不思議と、責められている気はしなかった。
その夜は、眠る前に小屋の裏で空を見た。雲がほどけて、星が少しだけ戻っている。
私の髪に、風が通り抜けた。水を含んだ葦の匂いが遠くでして、夜の冷たさが耳を澄ませるみたいに肌の上を撫でる。
――日常。
それは、こんな匂いと音でできていた。
何も起きない時間。起きないからこそ、身体がやっと自分を感じられる時間。
それを私は、どこかで“当たり前”と呼び、雑に扱っていた。
失ってはじめて、こんなにも尊いと知る。
呼吸の仕方を、もう一度覚え直すみたいに、胸を膨らませる。
横で足音がした。カイルだ。背中合わせに立って、彼も空を見ている。
「星、出た」
「出た」
「明日は晴れる」
「洗濯の順番、教えて。冷たい川は、ひとりじゃ嫌だから」
「順番より、靴」
「靴?」
「干す。明日は干し日和」
「……そういうところ、ほんと騎士っぽくない」
「実用的だ」
静かな笑いが、夜の草に落ちて、すぐに消える。
◇
翌日から、私は“市場のミリア”として少しずつ役目を持った。
朝は値札と簡単な帳付け、昼は子どもたちの読み書き、夕方は焚き火の番。
男たちが薪を運ぶ合間、私は子どもに火の育て方を教える。
「細い枝からね。急に大きい薪をのせると、火がいじけちゃうの」
「いじける?」
「空気が通れなくなるから、ふてくされるの。人と同じ」
子どもたちは笑い、真剣な顔で枝を並べる。ちいさな炎が上がるたび、歓声が上がった。
焚き火の音は、昼の喧噪と違って、耳の奥に静かに沈む。
パンの生地を叩く音、木樽の栓が抜ける音、犬の爪が石畳を弾く音。
それらが重なって、村の一日が織られる。
私はその織り目の上を、すこしずつ、歩けるようになった。
ときどき、影も来る。
王都からの噂を持ってくる旅人、剣を帯びたよそ者、宰相の手の者かもしれない灰色の目。
そんな日、カイルは何も言わずに距離を詰めて立つ。
背中合わせの距離、半歩分。
それ以上でも、それ以下でもない。
私は板書の手を止めず、炭筆を動かし続ける。
やり過ごし方を、火から学ぶ。強くしすぎない。弱くしすぎない。空気を通す。燃やすべきものだけ燃やす。
ある夕暮れ、焚き火がよく育ったので、私は小屋に細い薪を一本持ち帰った。
「お裾分け」
「薪のお裾分けは初めて聞いた」
「今日の火は、よく笑ってたの。わけてあげたい気分」
カイルはそれを受け取り、囲炉裏の脇に立てかけた。
「君の顔も」
「え?」
「笑ってた」
言葉は短いのに、胸の真ん中にまっすぐ刺さる。
火の光が彼の瞳に宿って、柔らかい影が頬に落ちる。
見てはいけないと思うほど、目が離せなくなる。
「……どうした」
「なんでもない」
視線を外すのに、少し時間がかかった。心が、氷から水へ、さらに温度を持つものへと変わっていく過程に、身体が追いつかない。
怖い。
でも、その怖さは、壊される怖さではなくて――溶けてしまう怖さだった。
夜、寝床に入っても、焚き火の残り香が髪に残っていた。
天井の節穴を数えながら、私は静かに泣いた。
泣く理由は一つじゃない。
失ったものの重さ。
今日の子どもたちの笑顔。
“先生”と呼ばれた、くすぐったさ。
そして、火を見つめるカイルの、言葉の奥にある優しさ。
それら全部が胸の奥に重なって、こぼれてくる。
泣き終わるころ、外で小さな足音がした。
扉の向こうから、囁く声。「水、ここに置く」
私は返事をしない。彼も、開けない。
扉の隙間が、心の隙間に似ていた。
開けすぎない。閉めきらない。
風が通って、火が消えないだけの、ちょうどいい幅。
――生きること。
それは、今日を何度も選び直すこと。
市場の匂い、風の匂い、焚き火の音。
それらを頼りに、明日をまた選ぶこと。
私は胸の上に手を置き、縫い付けた革袋の硬さを確かめた。
鍵は、まだここにある。
真実へ向かう道は、まだ遠い。
でも、歩く足は戻ってきた。
そう思えた夜、私はやっと、眠りに落ちた。
火がぱち、と笑う音を、夢の向こうで聞いた気がした。
その笑い声は、もう私を責めない。
生きていることを、ただ確かめてくれるだけだった。
カイルの小屋の前には小さな畑があって、短い葱の葉が雨上がりの光を弾いている。包帯は薄くなり、手の痛みは輪郭を失いはじめていた。
私はゆっくり拳を握って開く。まだ痺れるけれど、動く。――動ける。
「今日は、どうする」
外套の紐を結びながらカイルが訊く。
「歩けるなら、市場まで一緒に。帰りに薪の束を小分けにして運ぼう」
「……働いて返すって、言ったから」
「返す相手は、俺じゃない。君の心だ」
「言い回しが、ちょっとずるい」
「実用的だ」
短い受け答えに、薪の火みたいな温度が宿る。私は頷き、靴紐を固く結び直した。
村の市場は、朝一番の匂いで満ちていた。焼いたパンの皮の香ばしさ、樽からこぼれる林檎の甘い香り、干し草の乾いた匂い、皮を剥いたばかりの玉ねぎの鋭さ。人いきれに混じって、遠くの川風が冷たく頬を撫でる。
露店の女主人がカイルを見ると、顎で私を指した。
「新しい子かい」
「手が治るまで。重い物は俺が」
「なら良かった。あたしの店、値札を書き直したいのさ。字がきれいな人、いない?」
カイルの視線が小さくこちらへ滑る。
「……やってみる」
私は紙と炭筆を受け取り、値札に“林檎 二個一銅貨”“蜂蜜パン 一切れ二銅貨”と書いていく。
女主人は覗き込み、目を丸くした。
「読み書きできるのかい。助かるねぇ。昼過ぎ、子どもらが店の前で暇してるから、ついでに字を教えておくれよ」
「え……子どもに?」
「三つ指まで覚えりゃ十分さ。数字と名前。できるかい」
「……やってみます」
午前は値札、午後は荷運び。手の負担にならない範囲で、軽い籠を運ぶ。合間に子どもたちが集まってくる。
「ねぇ、これ“二”って書いてある?」「こっちは“いちご”?」
「違う、これは“林檎”。“り・ん・ご”。ここ、丸く書くの」
炭筆を握った小さな手は、思った以上に力が強い。紙がぐしゃりと音を立てるたび、私は手首をそっと支えた。
「上手。ちゃんと“り”になってる」
「ほんとに?」
「ほんと。見て、この形なら誰が見ても“り”ってわかるよ」
子どもの顔がぱっと明るくなって、胸の奥のどこかが一緒に灯る。
気づけば、店先の木箱が黒板代わりになり、ひらがなと数字が並びはじめていた。
「“三”はこう。横線三つ。でもね、まっすぐ引くの、案外難しいの。肩の力、抜いて」
「こう?」
「そう。上から下へ、息を吐きながら――上手!」
いつの間にか、通りがかった大人たちも立ち止まって覗いている。
「ミリアちゃん、字が綺麗だねぇ」「うちの子にも頼むよ」
名前を呼ばれて、私はわずかに戸惑う。偽名が、人の口のなかで温度を持ち始める。不思議な重みだった。
カイルは店の端で麻袋を担ぎながら、こちらを一度だけ見た。視線は短く、けれどやわらかい。
何も言わないその“無言の評価”が、胸のどこかをじんわり温めた。
その日から、私は市場の隅で小さな書き付け教室を開くようになった。紙は貴重だから、板に炭を塗って何度も消して使う。
「“お”は難しい。丸の中に尾っぽがいるみたいに書く」「“七”は長い縦に短い横、逆にすると“十”」
正しく書けた子には、店の手伝いから出た小さなパンくずを分ける。
夕方、親が迎えに来る頃には、板は白い手跡でいっぱいだ。
「先生、また明日!」
“先生”。
その言葉に、胸の奥がくすぐったくなった。私のための称号じゃない気がして、慌てて手を振る。
「ミリアでいいよ。明日もここでね」
日が傾くと、風が川の湿り気を連れてくる。市場の喧噪はゆっくり薄まり、店の灯りがひとつ、またひとつと落ちていった。
帰り道、二人で歩く。ときどきすれ違う荷馬車の車輪が、濡れた石を鳴らす。
「少し、顔色が戻った」
カイルが言う。
「子ども、好きなのか」
「……嫌いじゃない。賑やかなのも。前は、こういう音が家にもあったから」
「家、って」
彼はそこから先を訊かなかった。詮索の手は伸びてこない。
胸の深いところに沈めていた記憶が、形だけ浮かぶ。食卓の音、笑い声、パンを切る母の手、父の椅子の軋み。
音は風景より先に戻ってくる。戻ってくるぶん、痛い。
小屋に戻ると、火を起こす。松ぼっくりに火を移し、細い枝、太い枝の順に。教わった通りに手を動かしているだけなのに、炎は素直に育った。
「晩は俺が作る」
「手伝う」
「包丁、握るな」
「……はい」
素直に答えると、カイルが少しだけ口元で笑った。「素直だ」
「毎回素直じゃないみたいに言わないで」
「事実だ」
反論しようとして、火の跳ねる音に言葉を飲む。こんな軽口を、最後に誰と交わしただろう。
鍋に葱、玉ねぎ、刻んだ芋。塩と少しの胡椒。香りが立つと、目がしみる。
私は薪の番をしながら、外の風を聞いた。
夜の匂いは、昼よりも正直だ。湿った土、生乾きの藁、遠くの焚き火。どれも、小屋の中の音と混ざって、胸の奥にある空洞をゆっくり埋めていく。
夕食を食べ終わる頃には、身体の緊張がほどけて、言葉がひとつ、またひとつと口をついて出た。
「市場の女の子、今日、自分の名前を初めて書けたの。目が、本当に光るのね。字って、こんなに顔を変えるんだって思った」
「力が、自分の手に戻ってくるときの顔を、してたろう」
「うん。――それで、私も、ちょっとだけ。戻ってきた気がした」
戻る場所はもうない。けれど、戻る“感覚”はある。
それに気づいた瞬間、喉の奥で熱が弾けた。
「……ごめん」
「何が」
「泣くつもりじゃなかったのに」
「泣いてもいい」
カイルは火を見たまま、湯の入った椀を差し出す。
私はそれを両手で受け、火に背を向けて息を整えた。
涙は、音を立てない。なのに、薪が“ぱち”と笑う。自分の弱さをからかわれているみたいで、でも不思議と、責められている気はしなかった。
その夜は、眠る前に小屋の裏で空を見た。雲がほどけて、星が少しだけ戻っている。
私の髪に、風が通り抜けた。水を含んだ葦の匂いが遠くでして、夜の冷たさが耳を澄ませるみたいに肌の上を撫でる。
――日常。
それは、こんな匂いと音でできていた。
何も起きない時間。起きないからこそ、身体がやっと自分を感じられる時間。
それを私は、どこかで“当たり前”と呼び、雑に扱っていた。
失ってはじめて、こんなにも尊いと知る。
呼吸の仕方を、もう一度覚え直すみたいに、胸を膨らませる。
横で足音がした。カイルだ。背中合わせに立って、彼も空を見ている。
「星、出た」
「出た」
「明日は晴れる」
「洗濯の順番、教えて。冷たい川は、ひとりじゃ嫌だから」
「順番より、靴」
「靴?」
「干す。明日は干し日和」
「……そういうところ、ほんと騎士っぽくない」
「実用的だ」
静かな笑いが、夜の草に落ちて、すぐに消える。
◇
翌日から、私は“市場のミリア”として少しずつ役目を持った。
朝は値札と簡単な帳付け、昼は子どもたちの読み書き、夕方は焚き火の番。
男たちが薪を運ぶ合間、私は子どもに火の育て方を教える。
「細い枝からね。急に大きい薪をのせると、火がいじけちゃうの」
「いじける?」
「空気が通れなくなるから、ふてくされるの。人と同じ」
子どもたちは笑い、真剣な顔で枝を並べる。ちいさな炎が上がるたび、歓声が上がった。
焚き火の音は、昼の喧噪と違って、耳の奥に静かに沈む。
パンの生地を叩く音、木樽の栓が抜ける音、犬の爪が石畳を弾く音。
それらが重なって、村の一日が織られる。
私はその織り目の上を、すこしずつ、歩けるようになった。
ときどき、影も来る。
王都からの噂を持ってくる旅人、剣を帯びたよそ者、宰相の手の者かもしれない灰色の目。
そんな日、カイルは何も言わずに距離を詰めて立つ。
背中合わせの距離、半歩分。
それ以上でも、それ以下でもない。
私は板書の手を止めず、炭筆を動かし続ける。
やり過ごし方を、火から学ぶ。強くしすぎない。弱くしすぎない。空気を通す。燃やすべきものだけ燃やす。
ある夕暮れ、焚き火がよく育ったので、私は小屋に細い薪を一本持ち帰った。
「お裾分け」
「薪のお裾分けは初めて聞いた」
「今日の火は、よく笑ってたの。わけてあげたい気分」
カイルはそれを受け取り、囲炉裏の脇に立てかけた。
「君の顔も」
「え?」
「笑ってた」
言葉は短いのに、胸の真ん中にまっすぐ刺さる。
火の光が彼の瞳に宿って、柔らかい影が頬に落ちる。
見てはいけないと思うほど、目が離せなくなる。
「……どうした」
「なんでもない」
視線を外すのに、少し時間がかかった。心が、氷から水へ、さらに温度を持つものへと変わっていく過程に、身体が追いつかない。
怖い。
でも、その怖さは、壊される怖さではなくて――溶けてしまう怖さだった。
夜、寝床に入っても、焚き火の残り香が髪に残っていた。
天井の節穴を数えながら、私は静かに泣いた。
泣く理由は一つじゃない。
失ったものの重さ。
今日の子どもたちの笑顔。
“先生”と呼ばれた、くすぐったさ。
そして、火を見つめるカイルの、言葉の奥にある優しさ。
それら全部が胸の奥に重なって、こぼれてくる。
泣き終わるころ、外で小さな足音がした。
扉の向こうから、囁く声。「水、ここに置く」
私は返事をしない。彼も、開けない。
扉の隙間が、心の隙間に似ていた。
開けすぎない。閉めきらない。
風が通って、火が消えないだけの、ちょうどいい幅。
――生きること。
それは、今日を何度も選び直すこと。
市場の匂い、風の匂い、焚き火の音。
それらを頼りに、明日をまた選ぶこと。
私は胸の上に手を置き、縫い付けた革袋の硬さを確かめた。
鍵は、まだここにある。
真実へ向かう道は、まだ遠い。
でも、歩く足は戻ってきた。
そう思えた夜、私はやっと、眠りに落ちた。
火がぱち、と笑う音を、夢の向こうで聞いた気がした。
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「貴様のような下劣な女を、王家に迎え入れるわけにはいかぬ」
広間は、再び深い静寂に沈んだ。
「よって、貴様との婚約は破棄。さらに──」
王子は、無慈悲に言葉を重ねた。
「国外追放を命じる」
その宣告に、エリーゼの膝が崩れた。
「そ、そんな……!」
桃色の髪が広間に広がる。
必死にすがろうとするも、誰も助けようとはしなかった。
「王の不在時に|謀反《むほん》を企てる不届き者など不要。王国のためにもな」
シャルルの隣で、カリーナがくすりと笑った。
まるで、エリーゼの絶望を甘美な蜜のように味わうかのように。
なぜ。
なぜ、こんなことに──。
エリーゼは、震える指で自らの胸を掴む。
彼女はただ、幼い頃から姉に憧れ、姉に尽くし、姉を支えようとしていただけだったのに。
それが裏切りで返され、今、すべてを失おうとしている。
兵士たちが進み出る。
無骨な手で、エリーゼの両手を後ろ手に縛り上げた。
「離して、ください……っ」
必死に抵抗するも、力は弱い。。
誰も助けない。エリーゼは、見た。
カリーナが、微笑みながらシャルルに腕を絡め、勝者の顔でこちらを見下ろしているのを。
──すべては、最初から、こうなるよう仕組まれていたのだ。
重い扉が開かれる。
貴族令嬢、転生十秒で家出します。目指せ、おひとり様スローライフ
凜
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞にて奨励賞を頂きました。ありがとうございます!
貴族令嬢に転生したリルは、前世の記憶に混乱しつつも今世で恵まれていない環境なことに気が付き、突発で家出してしまう。
前世の社畜生活で疲れていたため、山奥で魔法の才能を生かしスローライフを目指すことにした。しかししょっぱなから魔物に襲われ、元王宮魔法士と出会ったり、はては皇子までやってきてと、なんだかスローライフとは違う毎日で……?
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