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第6話 「雨音の距離」
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雨は最初から怒っていた。
夕方にはぽつ、ぽつと静かな顔をしていたのに、夜の口が開いた途端、屋根を叩き割るみたいな音に変わった。庵の壁は薄く唸り、窓枠は震え、囲炉裏の炎が一度だけ怯えたように小さくなる。
「戸を強めに留める」
カイルが立ち上がり、閂を一段下に落とした。
外の闇は雨に厚みをもらって、いつもより近い。風が回り込んで、庵の隙間を指で探るみたいに冷気を差し込んでくる。
「今夜は市場、誰も来ないね」
「来ない。それでも、火は落としすぎないほうがいい」
私はうなずき、細い薪を一本足す。湿気が強すぎる夜は、炎の呼吸が浅くなる。濡れた枝を少しだけ添えて、火の歩みを遅らせる。強すぎない、弱すぎない――前に習った通りに。
庵がぐらりと揺れた。風向きが変わったのだろう。扉の下から一筋、水が忍び込んでくる。私は布切れを手に取り、隙間に押し当てた。
「明日の朝、土で目張りしよ」
「する」
短い返事のあと、カイルは外套を肩にかけた。
「ちょっと見てくる」
「え、どこへ」
「井戸。縁が緩いと危ない。桶も倒す」
「今?」
「今だ」
戸口に立つ彼の肩に、雨の白い線が斜めに宿る。
「私も――」
「すぐ戻る。鍵を閉めて、開けない」
「……わかった。気をつけて」
戸が閉まり、鉄の音が短く鳴る。
雨は一段と強くなった。屋根の上で跳ね、地面で砕け、庵の周りはたちまち水の輪に囲まれる。私は囲炉裏の前で膝を抱え、耳だけを外に向けた。雨は全ての音を飲み込む。飲み込みながら、ときどき、誰かの足音を返す。
――その“返す”のを、待つ。
どれぐらい待っただろう。
閂が外れる音。戸がひらき、冷気といっしょにカイルが滑り込んでくる。外套は袖の先から滴っている。
「ただいま」
「おかえり。無事?」
「ああ。井戸は括った。桶は倒した。……渡し板が一枚、流れた」
「明日、探そう」
「明日はやむ」
彼は外套を壁にかけ、肩で息をした。髪の先から落ちる雫が床に音符みたいに点を打つ。私は布を手渡し、火の側に座るよう促した。
「着替えて。寒いでしょ」
「平気だ」
「平気じゃない顔」
少し言い返しかけて、彼は黙って濡れたシャツを脱いだ。背中に雨の線が残っている。私は目を逸らし、囲炉裏の熱を手で掬って彼の方へ送る。
彼は乾いた布に腕を通し、火に背を向けるように座った。呼吸が浅い。喉の奥で小さく詰まる音がする。
「……咳、出る?」
「少し」
「温かいもの作る。座ってて」
鍋に水を張り、刻んだ葱と生姜を落とした。塩と、昨日の残りの鶏の骨を少し。湯気が立ち上がる頃には、庵の中の空気がやわらかく変わる。
椀に注ぎ、差し出す。
「熱いよ。ゆっくり」
カイルは受け取り、一口すすると目を少し細めた。
「うまい」
「それはよかった」
「喉が楽だ」
「もっと飲んで」
彼は素直に従った。普段なら「自分でできる」と言いそうなところを、何も言わない。湯気の向こうで、頬の色がわずかに引いていく。
私は、薪を一本足して、火の輪郭を整えた。炎が“ぱち”と笑い、雨音がひと呼吸だけ遠ざかる。
夜は長い。
雨の夜は、とくに。
彼の肩が小さく震えた。
「寒気?」
「……少し」
私は毛布を取って、彼の肩にかける。布の端を喉の前まで引き上げ、指で落ち着かせる。
額に触れると、熱。
「出てる。寝て」
「まだ大丈夫」
「いいから寝て。私、起きてるから」
カイルは抵抗しなかった。囲炉裏から少し離れた寝床に横になり、浅い呼吸を落ち着けようとする。私は鍋の火を弱め、椀に湯を足しておいた。
雨が壁を叩き続ける。
庵はこの夜を、まるごと背負って立っている。
私は毛布の端を直し、濡れた髪の先を布で拭った。彼の睫毛は雨で少し重く、目を閉じると影が長く落ちる。
「ミリア」
「なに」
「扉の鍵、掛けたか」
「掛けた。二重に」
「よかった」
短い安心のあと、彼の喉が咳を一つこぼした。体温が少し上がる。
「悪化したら、薬を煎じる。……草の束、棚の上」
「わかった。眠っていいよ」
「君は」
「起きてる。火を見てる。雨の相手ができるの、今夜は私だけ」
彼はそれ以上、何も言わなかった。瞼が落ち、呼吸がゆっくりとした波に変わる。
私は湯をすすり、火の息を合わせる。薪の配置を少し変え、炎の舌が天井に触れすぎないように低く整える。
雨の音は、最初の怒りを忘れ、ただ重たく降る音に戻っていた。
しばらくして、彼の呼吸が少し荒くなった。額に触れると、火照りが強い。
私は薬草の束を取り、薄く煎じる。苦い匂いが庵に広がる。
「これ、まずいの。我慢してね」
目を閉じたまま、彼は小さく笑った気がした。
「知ってる味だ」
「なら話が早い」
匙で少しずつ口に運び、喉を通すたびに水を一口。
しばらくすると、熱の輪郭がほんの少し緩んだ。汗が髪の生え際に滲む。私は布を絞って額を冷やし、手を止めない。
火の向こうの壁に、二人分の影が揺れた。
雨音は途切れない。
途切れないからこそ、言葉が、出てきた。
「……ねえ、カイル」
「ん」
「眠ってても、聞こえる?」
「ときどき」
「なら、独り言だと思って聞いて」
私は毛布の端を握りしめ、喉の奥の鍵をひとつ外す。
あの夜から、初めて。
「私、家が燃えた夜の匂い、忘れられない。焦げた木と、濡れた絨毯と、壊れた香水の匂い。耳の奥で、ずっと鳴ってる。……母の声も。階段の上から、呼ぶ声。届かないの、分かってたのに、足が勝手に動きそうになった。だから、振り返らなかった。振り返らないって、何度も何度も自分に言い聞かせた」
火が小さく息をのむ。
私は続ける。
「父の机の引き出し。赤い封蝋。“明朝に弁明を”の丁寧な手紙。夜には兵。言葉と刃が別々の舌で書かれてるって、そのときやっと理解した。遅いよね」
「遅くない」
「……ありがと。そう言ってくれる人、いなかった」
言いながら、胸の奥の冷たい石が溶けていくのを感じた。雨の音が、私の言葉の上に、薄い布みたいに降り積もっていく。
「逃げる途中、私は誰かに背負われた。雨の夜。匂いは違うけど、温度は似てた。……あなたね」
「そうだ」
「助けてくれて、ありがとう」
「うん」
「あなたのような人が、あの頃そばにいてくれたら――たぶん、私は、もう少し上手に泣けた。上手に助けを求められた。上手に、誰かを信じられた」
言ってから、怖くなった。
自分で自分の氷を割ってしまった音が、はっきり聞こえたから。
でも、割れたところから、暖かいものがじわじわ滲み出してくる。涙に似た、でも涙だけじゃない、何か。
カイルは目を閉じたまま、手を伸ばした。
迷いのない動きで、私の指先を探り当てる。
包帯の上から、やわらかく握る。
火の光が、彼の指を淡く染め、影が指の間を渡る。
私はその手を握り返した。
握った瞬間、胸の鍵のひとつが外れ、音をたてずに落ちた。
「眠れ」
掠れた声で、彼が言う。
「君が起きてるなら、俺は眠れる」
「ずるい」
「実用的だ」
笑って、涙がひと粒、手の甲に落ちた。
彼は眠りに沈み、その呼吸はさっきより穏やかだ。熱はまだある。けれど、危うい山は越えた。
私は手を離さず、火の番に戻る。薪を少し足し、炎の背を撫でる。
雨音はまだ続く。
でも、さっきより遠い。
距離ができた。
“雨”と“私”のあいだに、手の温度が橋をかける。
どれぐらいそうしていたのか、分からない。
火の赤が薄くなり、外の黒がわずかに淡くなる頃、彼の指が一度だけ私の手を確かめるように強くなった。
「……ミリア」
「なに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
短い言葉を交換して、また静かになる。
私は額の布を取り換え、彼の髪に指を通して汗を拭った。
その指先が、木箱の方向へふと向きかけて、やめる。
知っている。箱の中に、銀の冷たい輪があること。
今夜は、触れない。
問いは生き物だ。温かい場所で育てなければ、すぐに棘だけが残る。
外の雨が、ようやく呼吸を覚えた。
屋根の上の音が軽くなり、夜の重さが一枚、剥がれていく。
私は小さくあくびをして、肩を回した。自分の体温が戻ってくる。
眠りは、私の肩にもそっと手を置いてくる。
けれど、私はもう少し起きていたい。
「ねぇ、カイル」
眠りの縁にいる彼へ、そっと話しかける。
「私、明日も市場で字を教えるよ。多分、雨が止んだら、子どもたち、外に飛び出す。今日書けなかった“お”を、明日書けるように一緒に練習する。……いい?」
「ああ」
「それで、帰ってきたら、渡し板、拾いに行こう。流れたやつ」
「君は、靴」
「うん、干す。忘れない」
彼は眠っている。返事は、夢の向こうで反響しただけかもしれない。
それでも、心は不思議に軽かった。
言葉は、誰かの胸で形を持つと、温かくなる。
今夜の言葉は、雨にも負けない温度を持って、私の中に残った。
火を少しだけ落とす。
指をほどくと、彼の手が名残惜しそうに空気を掴んで、また布の上に静かに沈んだ。
私は自分の寝床へ戻り、横になる。
天井の節穴の向こうに、灰色の朝がわずかに滲む。
目を閉じる前、胸の上の革袋にそっと触れる。
鍵はまだここに。
けれど、今夜、もうひとつ手に入れたものがある。
“雨音の距離”を測れる、手の温度。
それがあれば、きっと、次の夜も渡っていける。
最後に、火が“ぱち”と笑った。
私はその音を合図に、眠りへ落ちた。
雨は、もう怒っていない。
ただ、屋根を優しく撫でていた。
夕方にはぽつ、ぽつと静かな顔をしていたのに、夜の口が開いた途端、屋根を叩き割るみたいな音に変わった。庵の壁は薄く唸り、窓枠は震え、囲炉裏の炎が一度だけ怯えたように小さくなる。
「戸を強めに留める」
カイルが立ち上がり、閂を一段下に落とした。
外の闇は雨に厚みをもらって、いつもより近い。風が回り込んで、庵の隙間を指で探るみたいに冷気を差し込んでくる。
「今夜は市場、誰も来ないね」
「来ない。それでも、火は落としすぎないほうがいい」
私はうなずき、細い薪を一本足す。湿気が強すぎる夜は、炎の呼吸が浅くなる。濡れた枝を少しだけ添えて、火の歩みを遅らせる。強すぎない、弱すぎない――前に習った通りに。
庵がぐらりと揺れた。風向きが変わったのだろう。扉の下から一筋、水が忍び込んでくる。私は布切れを手に取り、隙間に押し当てた。
「明日の朝、土で目張りしよ」
「する」
短い返事のあと、カイルは外套を肩にかけた。
「ちょっと見てくる」
「え、どこへ」
「井戸。縁が緩いと危ない。桶も倒す」
「今?」
「今だ」
戸口に立つ彼の肩に、雨の白い線が斜めに宿る。
「私も――」
「すぐ戻る。鍵を閉めて、開けない」
「……わかった。気をつけて」
戸が閉まり、鉄の音が短く鳴る。
雨は一段と強くなった。屋根の上で跳ね、地面で砕け、庵の周りはたちまち水の輪に囲まれる。私は囲炉裏の前で膝を抱え、耳だけを外に向けた。雨は全ての音を飲み込む。飲み込みながら、ときどき、誰かの足音を返す。
――その“返す”のを、待つ。
どれぐらい待っただろう。
閂が外れる音。戸がひらき、冷気といっしょにカイルが滑り込んでくる。外套は袖の先から滴っている。
「ただいま」
「おかえり。無事?」
「ああ。井戸は括った。桶は倒した。……渡し板が一枚、流れた」
「明日、探そう」
「明日はやむ」
彼は外套を壁にかけ、肩で息をした。髪の先から落ちる雫が床に音符みたいに点を打つ。私は布を手渡し、火の側に座るよう促した。
「着替えて。寒いでしょ」
「平気だ」
「平気じゃない顔」
少し言い返しかけて、彼は黙って濡れたシャツを脱いだ。背中に雨の線が残っている。私は目を逸らし、囲炉裏の熱を手で掬って彼の方へ送る。
彼は乾いた布に腕を通し、火に背を向けるように座った。呼吸が浅い。喉の奥で小さく詰まる音がする。
「……咳、出る?」
「少し」
「温かいもの作る。座ってて」
鍋に水を張り、刻んだ葱と生姜を落とした。塩と、昨日の残りの鶏の骨を少し。湯気が立ち上がる頃には、庵の中の空気がやわらかく変わる。
椀に注ぎ、差し出す。
「熱いよ。ゆっくり」
カイルは受け取り、一口すすると目を少し細めた。
「うまい」
「それはよかった」
「喉が楽だ」
「もっと飲んで」
彼は素直に従った。普段なら「自分でできる」と言いそうなところを、何も言わない。湯気の向こうで、頬の色がわずかに引いていく。
私は、薪を一本足して、火の輪郭を整えた。炎が“ぱち”と笑い、雨音がひと呼吸だけ遠ざかる。
夜は長い。
雨の夜は、とくに。
彼の肩が小さく震えた。
「寒気?」
「……少し」
私は毛布を取って、彼の肩にかける。布の端を喉の前まで引き上げ、指で落ち着かせる。
額に触れると、熱。
「出てる。寝て」
「まだ大丈夫」
「いいから寝て。私、起きてるから」
カイルは抵抗しなかった。囲炉裏から少し離れた寝床に横になり、浅い呼吸を落ち着けようとする。私は鍋の火を弱め、椀に湯を足しておいた。
雨が壁を叩き続ける。
庵はこの夜を、まるごと背負って立っている。
私は毛布の端を直し、濡れた髪の先を布で拭った。彼の睫毛は雨で少し重く、目を閉じると影が長く落ちる。
「ミリア」
「なに」
「扉の鍵、掛けたか」
「掛けた。二重に」
「よかった」
短い安心のあと、彼の喉が咳を一つこぼした。体温が少し上がる。
「悪化したら、薬を煎じる。……草の束、棚の上」
「わかった。眠っていいよ」
「君は」
「起きてる。火を見てる。雨の相手ができるの、今夜は私だけ」
彼はそれ以上、何も言わなかった。瞼が落ち、呼吸がゆっくりとした波に変わる。
私は湯をすすり、火の息を合わせる。薪の配置を少し変え、炎の舌が天井に触れすぎないように低く整える。
雨の音は、最初の怒りを忘れ、ただ重たく降る音に戻っていた。
しばらくして、彼の呼吸が少し荒くなった。額に触れると、火照りが強い。
私は薬草の束を取り、薄く煎じる。苦い匂いが庵に広がる。
「これ、まずいの。我慢してね」
目を閉じたまま、彼は小さく笑った気がした。
「知ってる味だ」
「なら話が早い」
匙で少しずつ口に運び、喉を通すたびに水を一口。
しばらくすると、熱の輪郭がほんの少し緩んだ。汗が髪の生え際に滲む。私は布を絞って額を冷やし、手を止めない。
火の向こうの壁に、二人分の影が揺れた。
雨音は途切れない。
途切れないからこそ、言葉が、出てきた。
「……ねえ、カイル」
「ん」
「眠ってても、聞こえる?」
「ときどき」
「なら、独り言だと思って聞いて」
私は毛布の端を握りしめ、喉の奥の鍵をひとつ外す。
あの夜から、初めて。
「私、家が燃えた夜の匂い、忘れられない。焦げた木と、濡れた絨毯と、壊れた香水の匂い。耳の奥で、ずっと鳴ってる。……母の声も。階段の上から、呼ぶ声。届かないの、分かってたのに、足が勝手に動きそうになった。だから、振り返らなかった。振り返らないって、何度も何度も自分に言い聞かせた」
火が小さく息をのむ。
私は続ける。
「父の机の引き出し。赤い封蝋。“明朝に弁明を”の丁寧な手紙。夜には兵。言葉と刃が別々の舌で書かれてるって、そのときやっと理解した。遅いよね」
「遅くない」
「……ありがと。そう言ってくれる人、いなかった」
言いながら、胸の奥の冷たい石が溶けていくのを感じた。雨の音が、私の言葉の上に、薄い布みたいに降り積もっていく。
「逃げる途中、私は誰かに背負われた。雨の夜。匂いは違うけど、温度は似てた。……あなたね」
「そうだ」
「助けてくれて、ありがとう」
「うん」
「あなたのような人が、あの頃そばにいてくれたら――たぶん、私は、もう少し上手に泣けた。上手に助けを求められた。上手に、誰かを信じられた」
言ってから、怖くなった。
自分で自分の氷を割ってしまった音が、はっきり聞こえたから。
でも、割れたところから、暖かいものがじわじわ滲み出してくる。涙に似た、でも涙だけじゃない、何か。
カイルは目を閉じたまま、手を伸ばした。
迷いのない動きで、私の指先を探り当てる。
包帯の上から、やわらかく握る。
火の光が、彼の指を淡く染め、影が指の間を渡る。
私はその手を握り返した。
握った瞬間、胸の鍵のひとつが外れ、音をたてずに落ちた。
「眠れ」
掠れた声で、彼が言う。
「君が起きてるなら、俺は眠れる」
「ずるい」
「実用的だ」
笑って、涙がひと粒、手の甲に落ちた。
彼は眠りに沈み、その呼吸はさっきより穏やかだ。熱はまだある。けれど、危うい山は越えた。
私は手を離さず、火の番に戻る。薪を少し足し、炎の背を撫でる。
雨音はまだ続く。
でも、さっきより遠い。
距離ができた。
“雨”と“私”のあいだに、手の温度が橋をかける。
どれぐらいそうしていたのか、分からない。
火の赤が薄くなり、外の黒がわずかに淡くなる頃、彼の指が一度だけ私の手を確かめるように強くなった。
「……ミリア」
「なに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
短い言葉を交換して、また静かになる。
私は額の布を取り換え、彼の髪に指を通して汗を拭った。
その指先が、木箱の方向へふと向きかけて、やめる。
知っている。箱の中に、銀の冷たい輪があること。
今夜は、触れない。
問いは生き物だ。温かい場所で育てなければ、すぐに棘だけが残る。
外の雨が、ようやく呼吸を覚えた。
屋根の上の音が軽くなり、夜の重さが一枚、剥がれていく。
私は小さくあくびをして、肩を回した。自分の体温が戻ってくる。
眠りは、私の肩にもそっと手を置いてくる。
けれど、私はもう少し起きていたい。
「ねぇ、カイル」
眠りの縁にいる彼へ、そっと話しかける。
「私、明日も市場で字を教えるよ。多分、雨が止んだら、子どもたち、外に飛び出す。今日書けなかった“お”を、明日書けるように一緒に練習する。……いい?」
「ああ」
「それで、帰ってきたら、渡し板、拾いに行こう。流れたやつ」
「君は、靴」
「うん、干す。忘れない」
彼は眠っている。返事は、夢の向こうで反響しただけかもしれない。
それでも、心は不思議に軽かった。
言葉は、誰かの胸で形を持つと、温かくなる。
今夜の言葉は、雨にも負けない温度を持って、私の中に残った。
火を少しだけ落とす。
指をほどくと、彼の手が名残惜しそうに空気を掴んで、また布の上に静かに沈んだ。
私は自分の寝床へ戻り、横になる。
天井の節穴の向こうに、灰色の朝がわずかに滲む。
目を閉じる前、胸の上の革袋にそっと触れる。
鍵はまだここに。
けれど、今夜、もうひとつ手に入れたものがある。
“雨音の距離”を測れる、手の温度。
それがあれば、きっと、次の夜も渡っていける。
最後に、火が“ぱち”と笑った。
私はその音を合図に、眠りへ落ちた。
雨は、もう怒っていない。
ただ、屋根を優しく撫でていた。
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クーリアは伯爵令嬢として生まれた。
貴族は生まれながらに魔力、そして属性の適性が多いとされている。
そんな中で、クーリアは無属性の適性しかなかった。
無属性しか扱えない者は『白』と呼ばれる。
その呼び名は貴族にとって屈辱でしかない。
だからクーリアは出来損ないと呼ばれた。
そして彼女はその通りの出来損ない……ではなかった。
これは彼女の本気を引き出したい彼女の周りの人達と、絶対に本気を出したくない彼女との攻防を描いた、そんな物語。
そしてクーリアは、自身に隠された秘密を知る……そんなお話。
設定揺らぎまくりで安定しないかもしれませんが、そういうものだと納得してくださいm(_ _)m
※←このマークがある話は大体一人称。
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