平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第7話 「花祭りの約束」

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 朝いちばんの風が、畑の葱の先を指で撫でた。
 雨は嘘みたいに上がり、村の空は洗われた色を取り戻している。石畳はまだところどころ濡れているけれど、陽が当たる場所から順に乾いていく。空気に草の匂いが濃く、どこを見ても花がいつもより鮮やかだ。今日が「花祭り」だから、みんなが昨日のうちに水をやり、埃を払って、花の名を呼んだからだ。

「冠の土台は、柳がいい」
 カイルが短い刃物で柳の枝をしならせ、輪にして渡してくれる。
「固くしすぎると頭が痛い。緩すぎると落ちる」
「ちょうどいいは、難しいね」
「火と同じ」

 庵の前の庇の下で、私は子どもたちと一緒に花飾りを作っていた。
 市場の女主人たちが束ねてくれた小花――白いかすみ草、薄紫の野すみれ、金色の菜の花。そこに紅い小さな実をアクセントに挟み、ところどころに葱の細い葉を一本加えると、香りがやさしく混ざる。

「先生、ここ、刺さらない!」
「“先生”じゃなくてミリアでいいよ。ほら、ここは茎の向きを逆にしてみて。枝が嫌がらない角度があるの」
「枝が嫌がる?」
「うん、私たちみたいにね。嫌がらない向きを探してあげるの」

 小さな指が、私の真似をして茎を少しだけ回す。するりと入った瞬間、子どもの顔がぱっと明るくなる。
「できた!」
「上手。じゃあ、次は色の順番。黄色の次に白を置くと光が続いて、紫で休む、みたいに」
「なんでそんなこと、わかるの」
「教えてもらったの。昔、家で。……ね、次はあなたの番」

 胸の奥に疼くものがあるけれど、痛みは小さかった。祭りの音がすでに始まっていたからだ。
 村の中心の広場から、太鼓の低い音が、お腹の底に届く。パン屋は朝早くから蜂蜜パンを焼き、樽屋は新しい栓を並べ、花屋は今日だけ“屋”になって、通りに色を撒いた。
 風が運ぶのは、酵母と油の匂い、切りたての草の青さ、そして人々の笑いの粒。

「ミリア」
 背後から名を呼ばれ、振り向くと、カイルが柳をさらに二輪持って立っていた。髪は昨日の熱の名残で少しだけ乱れ、額の色もまだ薄い。
「……まだ本調子じゃない顔」
「歩くには足りる。走るのは、やめておく」
「走らないで。今日は祭りなんだから」
「実用的だ」
「それ、便利な言い訳だよ」
「便利な言葉は、役に立つ」

 やりとりに子どもたちが笑う。
「ねぇカイル、これ見て!」
 男の子が見せた冠は、黄色だけでぐるりと回っていた。
「太陽みたい」
「じゃあ、君は今日この村の太陽係だ」
「係? やる!」
 太陽係は冠を抱えて、もう走って行った。カイルが「走るな」と言い終える前に。
 私は手を拭い、カイルの顔を覗き込んだ。
「ほんとに大丈夫? 熱は?」
「下がった。君が作った葱の粥、効いた」
「私が作ったって言い方、変。葱が効いたの」
「じゃあ、葱に礼を言う」

 私は肩で笑いながら、柳の輪に花を挿し続けた。
 矢車菊の青を手に取った瞬間、指がふっと止まる。青は、あの指輪の銀を思い出させる。木箱の中の冷たい輪。昨日の夜、わざと見ないふりをしたもの。
 視線が一瞬、庵の壁の棚へ滑り、すぐ戻った。
 祭りの朝には、問いはしまっておく。棘ではなく、土の中の種として。

     ◇

 昼前、広場へ向かう道は花の匂いで満ちた。
 家々の戸口や窓に編まれた花輪がかけられ、犬の首にも小さな飾りが揺れている。教え子たちは頭に冠、手に花束。
「ミリア、見て!」「わたしの、“お”の字、もう書けるんだよ」「今日のおやつ、蜂蜜パン二個!」
「食べすぎると太鼓より重くなるよ」
「重いのは太鼓、だよ!」
 笑い声が重なって、胸の中の空洞を埋めていく。

 広場の中央には、花で巻かれた柱が立ち、その周りをヒバの枝とリボンが取り囲んでいた。太鼓の音に合わせて、子どもたちが手をつなぎ、輪になって踊る。大人たちはその輪をほどよい距離で囲み、見守りながら屋台の列に目をやる。
 カイルは少し離れたところで立って、全体を見ていた。目が巡回する。柱、太鼓、屋台、路地の入口、馬留め。
 私はその視線の先を追い──そして気づく。
 市場の角、井戸のそば。黒い上衣を着た二人組がいる。鎧の手入れがよく、靴の先が無駄に光っている。言葉の切り方がこの村のものじゃない。
 王都訛り。
 耳に知っている、硬い母音。

「……来た」
 思わず小さく漏れた声に、カイルが目だけで応える。
 彼は動かない。すぐには。
 太鼓の打ち手が変わり、踊りの輪が一段と大きくなる。子どもたちが私の手を引いた。
「ミリア、真ん中! 先生も踊って!」
「先生って言わないってば」
 私は引かれるまま輪に入り、手をつないで一歩、二歩。足元の石がしっとりしている。太鼓の音が足先に伝わり、冠の花が視界の端で揺れる。
 笑っている子どもたちの肩越しに、黒い上衣の二人がこちらを横切るのが見えた。誰かと何かを短く確認し、すぐに散る。
 胸の奥の糸がぴんと張る。
 でも、私は手を離さない。
 今、離したら、子どもたちの踊りが乱れる。
 乱れは、すぐに伝染して、広場の空気を変える。
 それはダメだ。
 祭りに、罪はない。

 曲が一段落したところで、カイルが近づいてきた。
「冠、貸せ」
「え?」
「少し、直す」
 彼は私の冠を受け取り、柳の輪の内側に指を差し込んで形を整えた。飛び出した茎をすべらせ、葱の葉の端を反対方向へ返す。
「これで落ちない」
「落ちない?」
「うん」

 そう言って、彼は私の頭へ花冠をそっと戻した。
 重さは感じないのに、音が違って聞こえる。周囲のざわめきが少しだけ遠のき、太鼓の低音だけが近くなる。
 そして、広場の誰かが手を打った。
 ぱん。
 続いて、ぱらぱらと。
「似合ってるよ、ミリア!」「きれいだ!」
 笑い声と祝福の声が一緒に弾け、私は頬の内側が熱くなるのを止められなかった。
 子どもたちが口々に叫ぶ。
「花の先生!」「ミリア、花の女王!」
「やめて、その呼び方」
 言いながら笑ってしまう。
 カイルがわずかに目を細めた。
 その目に、優しさが宿るのを、私は確かに見た。
 彼の無口は、何も持っていない静けさじゃない。
 守るべきものを見極めてから言葉を置く、そういう静けさだ。

「約束しない?」
 気づけば、私の口が先に動いていた。
「何の」
「来年も、この冠。……来年も、花祭りに一緒に来よう。来られなかったら、どこかでそれぞれ花をひと輪摘んで、火のそばに置く。生きてる方が、もう一方の分も置く」
 カイルは答えず、私の冠の葵の花を一本、抜いて手のひらで回した。
「指切りじゃなくて?」
「指は、旅の約束には向かない。剣を握れなくなる」
「実用的だね」
「うん」
「じゃあ、花で約束。今、ここで」
 私は自分の冠から白い小花を一本抜き、彼に渡す。彼は私の葵と交換するように受け取り、小さな束にして紐で結んだ。
「結んだ」
「結んだ」

 二人だけの小さな儀式。
 掌の上の結び目は軽い。けれど、その軽さが、今の私にはいちばん信じられた。重い約束は、もう十分知っているから。

「ミリア、写真……じゃなくて、見て!」
 子どもが割って入り、私たちの足元に花びらをぱっと撒いた。
 その瞬間、広場の端で甲高い笛の音が鳴った。踊りの合図じゃない。
 兵士の呼集の音。
 黒い上衣の二人が、人混みの中から姿を現し、太鼓の台のそばで何かを読み上げ始めた。
 王都訛りの言葉が、花の匂いを鋭く裂いて広がる。
「王都より布告。昨今の騒擾に関し──」
 誰も“騒擾”なんて言葉をこの村で使わない。
 その異物感が、逆に耳を引きつける。
 子どもたちの手が、私の袖を探した。
「ミリア……」
「大丈夫。読んでるだけ」
 私は笑ってみせ、内側の心拍を手のひらで押さえた。
 カイルの肩の筋肉が、半拍だけ緊張するのがわかる。
 彼は動かない。まだ。

 布告の内容は、税の取り立て方法と、旅人の出入りの記録の厳格化、夜間の見回りの強化。
 “令嬢”という言葉は出なかった。
 偽名も、当然出ない。
 けれど、彼らがこの村に長くはいない訛りで話す間、私の背中を冷たい指が何度も撫でていった。
 目は合わない。合わないのに、探されている気配だけは確かにある。
 ――探す人は、探す顔をしていない。
 王都で学んだことが、こんな場所で役に立つとは思わなかった。

 読上げが終わると、周囲からぱらぱらと気のない拍手が起き、兵士たちは井戸の方角へ移動した。
 彼らの靴が、濡れた石でよく鳴る。
 私は呼吸を整え、子どもたちに声をかけた。
「さぁ、“お”の復習。板は持ってきた?」
「持ってる!」
 私は炭板を取り出し、広場の端の木箱に立てかけた。
「“お”は丸の中に尾っぽ。尾っぽは花の茎みたいに、無理に曲げない」
「こう?」
「そう。上手」

 子どもたちの声の向こうで、カイルが低く訊いた。
「帰りは回り道」
「うん」
「北の小径。畑の裏」
「わかった」
 短い打ち合わせ。
 歩幅を揃えるための、静かな準備。
 祭りを壊さないための、約束。

 午後、花冠は増え、太鼓は早くなり、笑いは高くなった。
 蜂蜜の匂いが濃く、酒の樽がいくつも空いた。
 私は何度も「先生」と呼ばれて「ミリア」と訂正して、結局「せんせいミリア」に落ち着いた。
 花で覆われた柱の下、子どもたちが最後の踊りを終えたころ、雲がゆっくりと厚みを取り戻し、風向きが変わった。

「帰ろう」
 カイルが言い、私はうなずく。
 庵に戻る道は一本じゃない。
 今日は北の小径。畑の裏。
 私たちは花の人混みを抜け、屋台の影を縫って歩く。
 その途中、乾物屋の老婆が杖で地面を二度、軽く叩いた。合図。
 視線だけでそちらを見ると、老婆が目を細めてほんの少し頷く。
 王都訛りの兵士が、さっきより一人増えていた。
 よそ者の増え方は、いつも不自然だ。

 畑の裏へ回る小径は、菜の花で背が黄色く、通るだけで袖に花粉がつく。
 風に押され、花の海が同じ方向へざわめく。
 遠くで太鼓が小さくなっていく。
 私は冠を押さえ、歩幅を短くした。
 カイルは私の半歩前を歩き、時々、後ろを見ないで言う。
「右、低い」「左、滑る」
「うん」
 泥の浅いところを選ぶ足運びは、彼の“迷わない”の延長だ。
 やがて、小径の先に庵の屋根が見えた。柳の影。洗った外套。
 門の木枠に手をかけ、胸の中で一度だけ大きく息をする。

 扉を閉め、閂を落とすと、庵の空気が私たちの温度に戻った。
 花の匂いが追いかけてきて、囲炉裏の上に薄く重なる。
 カイルは棚の上の木箱に目をやり、すぐに外した。
 私も見ない。
 代わりに、冠を外して台の上に置き、小さな結び目を掌で撫でる。
 花で結んだ約束。
 来年の、またはどこかそれぞれの火のそばの。

「……楽しかった」
 自分で驚くほど素直に声が出た。
「祭りは、みんなで持つから、強い」
「それ、好き」
「実用的だ」
「はいはい」
 笑う。心から。
 笑い終わったとき、外で靴の音がした。
 王都の靴が、石を叩く音。
 扉の前で止まり、軽く二度、叩く。
 カイルと目が合う。
 彼は扉へ歩き、私にだけ聞こえる声で言った。
「俺が出る。君は火のそば」
「うん」
「“誰もいない”と言う。君は、いない」
「……わかった」

 閂が上がり、扉が少しだけ開く。
 光の隙間に、黒い上衣の影が立つ。
「失礼。旅人の記録を」
 王都訛り。丁寧。硬い。
 カイルの声は低い。
「昨日からの旅人はいない。祭りだから、村の者だけだ」
「そうでありますか。──ああ、きれいな花の香りですね。どなたか、読み書きに長けた娘がいると聞きましたので」
 呼吸が止まる。
 香りは罪ではない。
 けれど、香りは、来る。
 カイルは半歩、扉をさらに閉め、言った。
「祭りでは、みんな字が読めるふりをする」
「はは。ごもっとも」
 兵士が笑う。笑いは唇だけで、目は笑わない。
「では、また明日も」
「明日は雨だ」
「雨なら雨で。失礼いたします」
 靴音が遠ざかる。
 閂が戻り、庵に静けさが帰ってくる。
 私は握っていた拳をほどき、膝の上で深呼吸した。
 冠の小花が、掌にひとつ落ちる。
 拾い上げ、火のそばに置いた。
 約束の、予行演習みたいに。

 夕暮れ。
 花の匂いはまだ濃く、太鼓の音はもう遠い。
 私はカイルの方へ向き直る。
「ねぇ、来年のこと、ほんとに覚えててよ」
「忘れない」
「ほんと?」
「忘れない。──忘れたら、君が思い出させる」
「どこで」
「火のそばで」
 それなら、迷わない。
 火の場所は、いつもここにある。
 私はうなずき、結んだ小さな花束を、木箱の前“ではない”場所にそっと置いた。
 問いの棘は、まだ柔らかい。
 その柔らかさごと、今はただ抱えていればいい。

 夜、庵の屋根を風が撫で、花の粉が少しだけ舞った。
 私は毛布にくるまり、天井の節穴の向こうの星を数えながら、静かに目を閉じる。
 花祭りは終わった。
 でも、花祭りで交わした約束は、ここに残る。
 微笑みの種に、雨音で測った距離に、薪のぬくもりに。
 明日、何が来ても。
 その上に、また今日を積む。
 それが、私の生き方になりつつある。
 胸の上の革袋に触れ、鍵の硬さを確かめる。
 そして、もう片方の手で、花の結び目を確かめた。
 柔らかくて、ほどけやすい。
 だからこそ、毎日結び直せる。
 その軽さが、今の私には、いちばん強い。

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