平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第8話 「偽りの名の重さ」

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 朝の市場は、花祭りの名残をまだ引きずっていた。旗は半分ほど巻き上げられ、柱に絡めた花は少し色を落としながらも甘い匂いを放っている。パン屋は“昨日より少しだけ安い”札を出して、樽屋は栓の数をかぞえ直し、子どもたちは冠の残骸を解いては、茎を剣に見立てて遊んだ。

「今日は、“め”と“む”ね」
 私は板に炭を塗り直しながら言う。
「境目のくるっと巻くところ、勢いをつけすぎないのがコツ」

「先生、“む”が怒った顔になっちゃう」
「“む”は怒りやすいの。角を丸めて、息を吐きながら――そう。やさしく」

 子どもたちの指が黒くなっていく。笑い声が重なり、炭の粉が光の中で舞う。私はその粉を払ってやりながら、袖口を一度、二度と折り返した。指先はもう荒れて、繕い跡のある包帯が薄くなっている。けれど、手の甲だけはやはり白く、骨の並びがはっきりしていた。

「ミリアちゃん」
 乾物屋の老婆が杖をついて近づいてきた。声は柔らかいけれど、目は強い。
「帳付け、ちょいと見ておくれ」

「はい」
 私は板を子どもたちに預け、帳場へ移る。老婆は帳簿を私の前へ押し、しわの刻まれた指でページの端を押さえた。
「この“七”と“九”がね、踊るんだよ。目が疲れていけない」
「じゃあ、ここに小さく印を。七は横にひと点、九は尻尾にちょい足し。見分けやすくなる」

「そうだねぇ」
 老婆は満足そうにうなずき、それから私の手に目を落とした。
「……ミリアちゃん」

「はい?」

「その手。皿も桶も持つ手だけど、“壊すな”って叩き込まれた手でもある。指の使い方が貴族のそれだよ。大事なものを扱う時の癖が、抜けてない」

 胸の奥で、古い鈴が鳴った気がした。
 私は反射的に袖を下ろし、手を膝へ引いた。笑顔は崩さない。崩したら、ここが揺れる。

「貴族の手なんて、見たことないでしょ」
「あるよ。昔、街の大店でね。あたしだって、長く生きてる」
 老婆は目を細めた。
「隠すのは、悪いことじゃない。名前は外套みたいなもんだ。天気で替えたって、誰も罰しちゃくれない。……ただ、風向きが変わったら、襟を立てるのを忘れないことだ」

 息が、少しだけ戻る。
「……ありがとうございます」

「礼はいい。あんたの板書き、ほんとに助かるからね。今日も“め”と“む”を頼むよ。花祭りの翌日は、みんな半分寝てるから」

 老婆は杖をとん、と地面に当て、子どもたちの方へ戻っていった。
 私は膝の上で指を組み直す。
 ――見抜かれた。
 でも、刺されなかった。
 言葉の先に棘を仕込むのは簡単だ。でも、彼女はそうしなかった。襟を立てろとだけ言った。
 胸がきゅっと痛む。私の“今”を尊重する声は、嬉しいほど痛い。

「ミリア」
 板を抱えたまま戻ると、カイルがすぐ近くにいた。荷車を押すふりをしながら、私の顔色だけを読む。
「顔、白い」

「だいじょうぶ。ちょっと、深呼吸しただけ」
「何か言われた?」
「……“襟を立てろ”って」
「賢い」

 それ以上、彼は詮索しない。
 けれど、私の袖口を一度だけ目で撫でて、板の端を持つ手をそっと支えた。支えたとわからない程度の、軽さで。

「授業の続き」
「うん。“む”の眉をなだめてくる」

 私は子どもたちの輪へ戻り、声を張った。
 手は震えない。震えないように、いつも通りの速度で、いつも通りの冗談を交え、いつも通りに褒める。
 ――偽り。
 偽りって、嘘と少し違う。
 それは“今ここで生き延びるための名乗り”で、呼吸を確保するための仮面だ。仮面は重い。けれど、素顔でいることの方が重い夜もある。

 昼。
 風が川を渡ってきて、市場の熱を撫でる。私は子どもたちを解散させ、井戸端で手を洗った。水が冷たい。手の甲の骨ばった形が、いっそうくっきりする。
 背中で、杖の音。
「ミリアちゃん」
 振り向くと、老婆が井戸端に腰を下ろしていた。
「さっきの言葉、怖がらせたかね」
「いえ」
「怖がりな。賢いよ。それにね、あんたの“偽り”は、人を騙すためじゃない。今日を続けるためだ。なら、胸を張りな」

 胸に手が伸びる。革袋の硬さが、布越しに当たった。
 胸を張る。名は“ミリア”。重さは、まだ測りかねている。
「……はい」

「よし」
 老婆は立ち上がり、去り際にひとこと付け足した。
「“襟を立てる”の苦手なら、あの放浪の騎士に頼るといい。あいつ、風向きを嗅ぐのが上手い」

     ◇

 夕方、小屋へ戻る道は、西日で白く焼けていた。
 庵に入ると、カイルは水を汲み、台の上に葱と玉ねぎと乾いたパンを置いた。
「夜の粥、作る。喉がざらつく。君は座れ」
「座るけど、切るくらいは――」
「包丁」
「握らない」
 私が先に言うと、カイルは目で笑った。
「学習が早い」
「先生だからね」
「花の先生」
「やめて、それはちょっと照れる」

 囲炉裏の火が、葱の香りをやわらかく広げる。鍋が静かに音を立て、木べらが底を撫でる。
 私は膝に布をかけ、今日の出来事を少しずつ話した。老婆の言葉、指の癖、襟のこと。
 カイルは木べらの手を止めず、合間に短く返す。

「見抜く人は、見抜く」
「うん」
「けど、言い方を選ぶ人は少ない」
「そう。……それが、怖かったのに、救われた」

「君は、誰であろうと、今の君を見てくれる人に出会った。大事にしろ」
 湯気の向こうで、彼の目がこちらを掠めた。
「俺は、誰であろうと、今の君を見ている」

 胸の奥で、何かが静かに跳ねた。
 花祭りのときに結んだ小さな約束の結び目が、体温を持ってきゅ、と締まる。
「……今の私、変かな」
「変じゃない。襟の立て方は下手だけど」
「もう、そこは練習する」
「うん。実用的だ」

 粥をよそい、椀を受け取る。温度が指の節に浸み込んで、さきほどの痛みが薄れる。
「ねぇ、カイル」
「ん」
「もし私の偽りが、誰かの頭上に“嘘”として降る日が来たら、教えて。走る方向、間違えないように」
「うん」
 答えが早い。迷いがない。
「約束する」
「ありがとう」

 少しの沈黙。火の音が言葉の隙間を埋めて、粥の香りがそれを固定する。
 私は椀を置き、指を組んだ。革袋の中の鍵が、指の下で硬い。

「――ねぇ、今度は私の番」
「何の」
「訊く番。……あなたの旅の目的、教えて」
 火がぱち、と跳ねる。
 カイルは木べらを鍋縁に置き、視線を落とした。
 沈黙は、敵じゃない。けれど、友達でもない。
 私は待つ。
 彼は口を開いた。
「旅は、歩くことだ」
「それは、知ってる」
「“目的”は、地面が決める」
「……それは、知らないふり」

 彼は笑わなかった。笑わない代わりに、私の椀に粥を少し足した。
「今は、ここにいる。それが答えでは足りないか」
「足りない、けど――足りる」
 本当は足りない。
 でも、今夜の火には、これでいい。
 彼の沈黙は、逃げる沈黙じゃない。言葉にすると誰かが傷つく種類の真実を、火が消えない温度まで冷ましている沈黙だ。
 私はうなずき、粥を口に運んだ。味は変わらない。けれど、胸の温度が少し上がった。

     ◇

 夜半。
 外は風が鳴り、庵の板が低くきしんだ。
 私は寝床に横になり、天井の節穴を見つめる。昼に言われた「貴族の手」という言葉が、まだ指先に残っている。
 ――アメリア、という名は、重い。
 アメリアと呼ばれると、あの夜の火が、家の階段の形が、母の声が、全部いっぺんに来る。
 ミリア、という名は、軽い。
 軽いのに、うそじゃない。“今の私”は、間違いなくミリアだ。
 偽りの名は、嘘ではなくて、道具なんだと思う。外套。襟。風の向き。
 重い名を内側で抱えたまま、軽い名で今日を続ける。
 その二重の重さに、私はやっと慣れはじめた。

 カイルの足音が扉の向こうで止まり、低い声が落ちる。
「眠れ」
「眠れる。……ねぇ、カイル」
「なに」
「さっきの言葉、もう一回言って」
「どれ」
「“誰であろうと、今の君を見ている”」
 短い沈黙。
「……言った」
「うん。ありがとう」

 言葉は、火に似ている。
 何度かぶせても、熱が残る。
 その熱のおかげで、偽りの名の重さが、少しだけ軽い。
 私は胸に手を当て、革袋の硬さと、花の結び目の柔らかさを交互に確かめる。
 どちらも、私だ。
 どちらも、私を明日へ押す。

 目を閉じる前、ふと問いが胸をかすめた。
 ――彼の旅の目的。
 沈黙の奥に、銀の輪がある。木箱の中の紋章。
 そこへ触れる日は、近いのか、遠いのか。
 わからない。
 でも、襟を立てることは、今日覚えた。
 風向きが変わっても、呼吸できる。

 火が小さく笑う。
 外の風は、夜を引きずりながら、次の日の匂いを少しだけ混ぜている。
 私はその匂いを吸い込み、眠りに身を預けた。
 偽りの名の重さも、私の重さも、ちゃんと抱えたまま。
 明日、また“今の私”を始めるために。

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