平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第9話 「沈黙の剣」

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 夜更けの庵は、呼吸の仕方を知っていた。
 囲炉裏の火は小さく丸くなり、薪の下で赤い核だけが静かに灯っている。外は風もなく、川の方角から遅れて届く水音が、布の端を揺らすみたいに微かに聞こえた。

 眠れない夜だった。
 市場での「王都訛り」の兵の影が、瞼の内側に薄い影を残している。襟は立てた。名前は守った。だけど、背中に細い枝のような不安が一本、刺さったままだった。

 喉が渇いて、私は毛布をそっと押しのけた。
 床板は昼の熱を手放して冷たく、指の腹に夜の温度が移る。音を出さないように、台所の水瓶まで歩いた。
 ……その途中で、足が止まった。

 庵の隅。
 棚の前に、ひとつの影があった。
 カイルが膝を折り、箱の前で動かない。火の赤が、輪郭を薄く縁取っている。肩の線はまっすぐで、しかしどこか遠くのものを抱えるみたいな固さ。

 木箱の蓋が、音もなく開いた。
 布がほどかれ、月の欠片みたいな銀が現れる。
 指輪。
 あの紋章の輪が、静かに空気をつかむ。

 カイルはそれを掌に乗せ、親指で彫りを一度だけなぞった。
 光を浴びすぎない古い銀。細密な陰影。二頭の獣が盾を支え、その上に小さな王冠。
 ――アルフォード家。

 喉が、ひとつ鳴った。
 自分の音なのに、自分のものじゃないみたいに遠い。
 王族の印。
 王都の中心、石の階段を何段も上った先。公の場では絹の手袋の内側に隠される、血統のしるし。

 私の中で、点が線になった。
 彼の剣の呼吸。
 庭を測る歩幅。
 「やめておけ」の声の落ち方。
 ――放浪の騎士。けれど、旅にだけ育つ筋ではない。
 かすかに、胸の奥の糸がきしむ。
 呼び名は軽くても、背負っているものは軽くないのだと、今さら思い知る。

 私は、水瓶の影に身を寄せた。
 見てはいけない。
 でも、目は、離れない。

 カイルは指輪を胸元の高さまで持ち上げ、しばらく見つめた。
 視線はやさしくも厳しくもなく、ただ事実だけを受け止める眼差し。火の赤に銀がわずかに応えて、紋章の獣が息を吹き返したように見える。
 彼は小さく息を吐き、指輪を再び布に包む――かと思った瞬間、動きを止めた。
 そして、指輪を握った掌を、静かに膝へ置く。
 沈黙。
 火の音もしない。庵そのものが、耳を澄ませている。

「……戻らない」
 低い声が、火の赤に擦れた。
 誰に言うでもなく、独り言のように。
「戻る場所を、まだ作ってない」

 胸が痛んだ。
 戻る場所。
 私にはもうない。彼には、あるはず。
 だけど、彼は「まだ」と言った。過去形でも未来形でもない、宙吊りの現在。

 私は一歩、引いた。
 気づかれてはいけない。
 でも、身体は逆にわずかに踏み出そうとしていた。
 ――声をかける?
 「それをはめるの?」
 「あなたは誰なの?」
 どの言葉も、刃の先みたいに尖って、彼の沈黙に近づく前に自分の手の中で血をにじませそうだった。

 カイルがゆっくり立ち上がった。
 指輪を布で包み、木箱へ戻す。その仕草は、置く、というより返す、に近い。
 蓋を閉め、留め具を回す。
 それから、棚の前に立ったまま、しばらく動かない。
 闇に目が慣れてきて、彼の横顔の線がはっきりする。
 眠らない騎士。
 いや、眠れない男。

 彼は剣を手に取った。
 鞘からは抜かない。柄に手を添え、足を半歩引く。
 呼吸が、変わる。
 夜の静けさに合わせるように、わずかに長く、深く。
 剣は抜かれていないのに、剣の周囲だけ空気が違って見えた。音のない稽古。見えない相手と、見えない一手をやりとりする沈黙の型。
 肩は上がらない。肘は閉じる。
 踏み替えのたび、床が鳴らない。
 ――王城の庭。
 記憶の向こうで、石畳の白が月光を返す。
 同じ均整。同じ沈黙。

 私は、やっと気づく。
 あの沈黙は、逃げるためのものじゃない。
 守るために、必要なだけ言葉を削った結果の沈黙だ。
 だから、私はその沈黙の外で、音を立ててはいけない。

 水杯を満たさぬまま、私は踵を返した。
 毛布の影へ戻る。
 浅い呼吸を深くし、目を閉じ、耳だけを開けておく。
 剣の気配が庵の中で一巡し、やがて収束した。鞘口が小さく鳴り、革が擦れる音が止む。
 足音が近づく。
 扉のほうへ行くのかと思ったら、違った。
 彼は囲炉裏のそばに腰を下ろし、火に手を翳しただけだった。

「……起きてるのか」

 声が、闇のこちら側へ落ちた。
 見つかった。と思ったけれど、彼の声には詰問の棘がない。
 私は毛布の中で、正直に答える。
「……喉が渇いて、起きた」
「水は、そこだ」
「うん。ありがとう」

 立ち上がって水を飲み、戻ってくると、彼は火を見ていた。
 私は迷って、結局、火の向かい側に腰を下ろす。
 火は眠たげで、けれど、こちらの顔色を確かめるくらいの明るさは残している。

「さっき、剣の音がしなかった」
「させてない」
「“音を立てない剣”って、なんだか卑怯」
「卑怯は、助かる人間がいるときだけ、正しくなる」
「あなたはいつも、そういう言い方をする」
「実用的だ」

 笑えた。
 笑えたけれど、胸の中心はまだ硬い。
 言わない言葉が、胸の裏側で膨らんで、皮膚の内側から叩く。
 ――誰なの。
 ――どこへ行くの。
 ――いつ、いなくなるの。

「ねぇ、カイル」
 名前を呼ぶ声が、少し震えた。
「もし、あなたが……どこかに戻らなきゃいけない人だとしても、今夜はここにいて」
「いる」
「明日も」
「いる」
「来週も」
 返事が、遅れた。
 私は慌てて笑ってみせる。
「冗談。縛らない。花で結んだ約束で十分」
「……うん」

 火が「ぱち」と跳ね、銀の影が一瞬、棚の方へ伸びた。
 私は視線を落とし、手のひらを太ももの上でぎゅっと握る。
 言ったら、戻れない。
 言わなければ、いつか、もっと戻れない場所で折れるかもしれない。
 どちらが正しいのか、火は教えてくれない。

「ミリア」
「なに」
「君がいなくなるほうが、俺は困る」
「……私?」
「君が、明日も“お”の尾っぽを教えること。パンの端を子どもに分けること。火を育てること。俺は、それに助けられてる」
 思わず、呼吸が乱れた。
「助けて、る?」
「火は、分けるほど消えにくい。君が分けるから、俺の火は消えにくい」

 胸の中で、硬くなっていた部分が少しだけ融ける。
 それでも、言葉は止まらない。
「でも、私はあなたを、助けられないかもしれない。あなたが本当に困る時、私には、あの銀の輪に抗う力がない」
 言って、はっとする。
 銀。輪。
 口に出してはいけない輪郭が、今にも空気を掴もうとしている。
 私は唇を噛み、言葉を割った。
「……私の手は、まだ“桶の手”だから」

 カイルは火から目を離し、私を見た。
 長くは見ない。だが、逃げもしない。
「桶の手は、壊すなと叩き込まれた手だ。壊さない手が必要な場面は多い」
「……うん」
「剣は、沈黙で人を遠ざける。君の手は、音で人を近づける」
「音?」
「子どもの笑いとか、鍋の匂いとか、紙に“む”が生まれる音とか」
 言葉が胸に落ちるたび、硬さと温度が押し合い、均衡を探す。
 私はやっと、うなずけた。

 沈黙。
 その沈黙は、さっきの稽古の沈黙とは違う。
 こちら側に座るための、椅子をひとつ多く用意する種類の静けさ。

「……ねぇ、もし私が、いつか本当の名前を言ったら」
 声が糸みたいに細くなる。
「そのとき、あなたはどうする?」
 火の赤が、彼の瞳に小さく宿る。
 答えは来ない。
 来ないけれど、逃げる足音もしない。
 彼は短く息をして、火へ目を戻した。
「そのとき、君が“どう呼ばれたいか”で、呼ぶ」
「アメ――」
 喉で、名が喧嘩した。
 言い切れなくて、笑う。
「……いつか、ね」
「いつかでいい」

 庵の外、遠くで犬が二度ほど吠え、すぐに静かになった。
 夜は深い。
 火は低い。
 私は毛布を肩に引き寄せ、立ち上がる。
「もう寝る」
「ああ」

 寝床に戻る前、棚の前で一瞬だけ立ち止まった。
 木箱は、ただの木箱に見える。
 中身の重さは、外からはわからない。
 私も、そうありたい。
 偽りの名の外套に、襟を立てる。
 風向きが変わっても、呼吸できるように。

 毛布に潜り、耳を澄ます。
 火が小さく笑い、その笑いはすぐに眠たげな寝息に変わった。
 やがて、反対側から、もうひとつの寝息。
 彼は眠った。
 沈黙の剣は鞘に納まり、夜は夜の持ち場へ戻る。

 ――怖い。
 正直に言えば、怖い。
 あの輪が彼を連れていく未来。
 “また失う”予感が、胸の内側で芽を出している。指で摘もうとすると、柔らかいのに、抜けない。
 けれど、芽の上に布をかけて、今夜は眠る。
 芽は、光に当てすぎると、余計に伸びる。

 目を閉じる直前、胸の上の革袋に触れる。
 鍵はここにある。
 真実へ開ける扉は、まだ先だ。
 でも、火を絶やさなければ、夜は渡れる。
 花で結んだ約束は、台の上で小さく乾き、ほどけやすい結び目を守っている。毎日結び直せるように。

 沈黙は、味方にもなる。
 今夜は、そう信じる。
 火が最後に「ぱち」と笑い、私は静かに眠りへ落ちた。
 剣も、名も、今は音を立てない。
 それでいい。
 それで、しか、今は守れない。

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