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第10話 「微笑みの裏に」
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花祭りの夜は、遅くまで笑いを抱えていた。
けれど、笑いの種が土に沈んで眠りはじめた頃――靴音が、村の石を乱暴に叩いた。
最初に気づいたのは、太鼓の皮を外していた若者の叫びだった。
「誰だ――!」
返ってきたのは、冷えた号令。
「王都より来訪。門を開けよ。――王子暗殺未遂事件につき、全戸捜索を行う!」
空気が一枚きしんだ。
庵の囲炉裏に火を足していた私は、薪を持つ手を止めた。火の舌が、不安に舐めるように揺れる。
カイルが扉へ歩き、閂に手をかける。
「俺が行く。君は、火のそば」
「うん」
細い隙間から、夜の湿り気と、鉄の匂いが流れ込む。
黒い上衣の兵が三人。背後に灯りの列。村の入口から、さらに影が増えてくる。
「この村に、王都訛りは似合わない」
カイルは低く言う。
「用件だけ述べろ」
「王子暗殺未遂事件に関する――」
兵士の口上は、磨かれた金属みたいに滑っている。
「関係者の潜伏が疑われる。読み書きに長け、身を偽ることに長けた若い女。名を――」
喉の奥が熱くなった。
私は思わず、胸に縫い付けた革袋を押さえる。鍵が指先に固く当たる。
言うな。
言うな。
――言われる。
「アメリア=レオンハルト」
空気から、音がひとつ抜けた。
そして、戻ってきた。強く。
誰かの息、誰かの靴のきしみ、誰かの祈り。
私は立ち上がろうとして、膝がかすかに笑った。笑うな、今は。
乾物屋の老婆の杖の音が、どこかで二度、静かに鳴る。合図。
広場へ集められる人々。尋問。名前。出身。指先の荒れ具合。――襟を立てろ、とあの声が耳で囁く。
カイルは扉の外へ半歩出た。
兵が灯りを持ち上げ、彼の顔を覗く。
「お前は」
「旅の騎士。ここで火を守っている」
「ならば協力しろ。怪しい女を出せ」
庵の内側で、私は息を止めた。
怪しい女。
偽りの名。
微笑みの裏。
積み重ねた今日が、薄紙の束みたいに乱暴にめくられる音がした。
カイルの声は、静かだった。
「この村で、誰も“怪しく”ない夜はない」
「戯言を」
「祭りの残り香がある。酒がある。笑いがある。冠の欠片が足元に落ちている。――それら全部を“怪しい”と言うなら、王都は花を知らない」
兵が舌打ちし、二人が庵へ踏み込もうとした瞬間、カイルの腕が水平に伸びた。
肩は上がらない。肘は閉じる。
ただ、入れない線を夜に引いた。
「退け。命令だ」
「見せろ。命令を」
兵が懐から布を取り出す。黒い封蝋。宰相印。
私は指の中の鍵がいっそう硬くなるのを感じた。
あの赤い封蝋の手紙。――“明朝に弁明を”。そして夜の兵。
別の舌で書かれた命令。
今夜も、同じ。
「王子暗殺未遂――」
「どの王子だ」
カイルが問う。
兵は短く言った。
「第一王子殿下」
火がひとつ跳ねた。
カイルの目の奥で、何かが小さく結び直されたのがわかる。
第一王子。宰相。あの庭。
私は唇の内側を噛む。血の味。
彼が誰かが、こちら側に向かってくる。
「暗殺“未遂”だな」
「そうだ」
「なら、暗殺は失敗し、王子は生きている」
「当たり前だ」
「ならば、恐怖で村を縛る理由はない」
兵は苛立ったように灯りを揺らした。火が風を食べ、庵の壁に影が伸びる。その影が、木箱の位置を撫でていく。
私は視線を落とす。
そこには銀の輪がある。紋章。――アルフォード家。
今は、まだ箱の中。
「繰り返す。アメリア=レオンハルト。匿っていれば――」
言葉が、庵の外で割れた。
乾いた布が裂ける音。
市場の端で、誰かが倒れたような鈍い音。
人々のざわめき。
兵の視線が一瞬そちらへ向く。
その瞬間、カイルが半歩だけ前へ出た。
「広場でやれ。火のそばで人を脅すな」
「命令するな!」
剣の柄に手がかかる。
私の指は、革袋をもっと強く握っていた。
――やめて。
――でも、止められない。
私の声は、今夜、火より弱い。
広場は灯りで満ちていた。
太鼓は外されて片隅に転がり、柱の花は半分ほど落ちて、地面に色が散っている。
子どもたちは家へ押し戻され、女たちは戸口で腕を抱き、男たちは口を結ぶ。
乾物屋の老婆が杖をつき、私に見えない合図をひとつ送る。――襟を立てろ。
兵士の隊長格が布告を読み上げる。
「王都にて、第一王子殿下の行幸の途上、刃を向ける者あり。未遂に終わり、下手人は逃走。関係者は――」
「未遂なら、殿下は無事だね」
と、誰かが言った。酔いの残った若者の声。
兵が鋭く睨む。
「口を挟むな」
「口、挟むさ。祭りの夜に、村全部を敵に回すつもりなら」
隊長が顎を上げ、私たちの列をじろじろと舐めるように見た。
「読み書きに長け、身のこなしが良い女。年は――」
「やめて」
自分の声が、思ったより遠くへ飛んだ。
私が前に出たからだ。
足が動いた。
止められなかった。
止めたら、誰か別の人の名前がここに刻まれる気がした。
「ミリア!」と誰かが呼んだ。子どもの声。
私は振り返らない。襟を立てる。外套の中の心臓を抱えるように。
「書くのは私。教えたのも私。……でも、私はこの村で生まれてない。だから、村を責めないで」
兵の目が細くなる。
「名は」
喉が硬くなった。
偽りの名は、軽い。
でも今夜、その軽さで誰かを守れるなら。
「ミリア」
「姓は」
空気が固まる。
吐息の形まで目に見える。
――アメリア。
喉で、名が喧嘩した。
言えば、全部が、変わる。
言わなければ、誰かが、傷つく。
「名乗る必要は――」
カイルの声が、私の背中の骨を支えた。
彼は列から半歩出て、兵士と向かい合う。
「彼女は今、この村の“ミリア”だ。それ以上でも、以下でもない」
「法は――」
「法? 誰の法だ。誰の舌で書かれた」
彼の瞳が、冷えた星みたいに硬くなる。
「“明朝に弁明を”と書いて、夜に扉を破る舌の法か」
宰相の印。
第一王子。
王都の庭。
すべてが、今夜ここに重なって、カイルの肩に載る。
隊長が痺れを切らし、合図をした。
兵が二人、前へ出る。
剣が半歩、鞘から滑った。
刃は、まだ出ていない。
けれど、出るつもりの音が、夜の骨を鳴らす。
「やめて――」
私の声は、火より弱い。
だが、次の瞬間、火が“ぱちん”と大きく笑った気がした。
カイルが、剣を抜いたからだ。
月を吸う刃ではない。火を映す、夜のための線。
肩は上がらない。肘は閉じる。
踏み込まないのに、距離が変わる。
兵の刃が抜けきる前に、視界から目的地を奪われ、手首の角度が少し狂う。
金属が短く鳴り、火花は散らない。
カイルは打たない。崩す。
膝が勝手に折れ、足が地面の“低いほう”に吸われる。
一人、二人――倒れない。倒れる“前”で止まる。剣の線が、もう一歩を許さない。
村の人々が息を呑む音が、ひとつになって夜に浮いた。
隊長が歯を食いしばる。
「何者だ。命は――」
「命は、火のそばにしか置かない」
カイルは刃を寝かせ、私の前へわずかに斜めに立つ。
盾ではなく、風よけのような位置。
その背中は大きくないのに、風向きが変わった。
彼は短く言った。
「この人を傷つける者は、俺が許さない」
許さない。
その言葉が、夜の板に釘のように打ち込まれる。
私は喉の奥で、名の不一致が音を立ててほどけていくのを感じた。
ミリア。アメリア。
――今は、守られている人。
それで十分だ、と、はじめて思えた。
隊長が合図をしかけ、止めた。
彼は見たのだ。
カイルの左手が、鞘口からわずかに離れ、胸元へ上がるのを。
そして、衣の内から、小さな布に包まれた物が、夜の灯りに一瞬だけ銀を返したのを。
紋章。
二頭の獣が盾を支え、上に小さな王冠。
アルフォード家の指輪。
王族の印。
村に、低い波が走った。
兵たちの目が、ものの数拍で“命令を待つ兵”の目から、“誰の命令を待つべきか測る兵”の目に変わる。
隊長の喉仏が上下する。
「貴殿は――」
カイルは剣をわずかに下げ、はっきりと名を名乗った。
「第二王子、カイル・アルフォード」
時間が、薄く伸びた。
村の犬が一度だけ吠え、また黙る。
乾物屋の老婆が杖を握り直し、「やっぱりね」と唇が動いた気がした。
私の胸の中で、何かが静かに砕け、同時に、別の何かが静かに立ち上がる。
「……殿下」
隊長の膝が、浅く折れた。
兵の列がざわめき、すぐに沈む。
宰相の印と、王子の名。
どちらの舌が正しいか――兵にもわかる。彼らは“今夜、自分の首を守る舌”に従う。
「命令を」
カイルは指輪を布に戻し、胸にしまった。
剣はまだ手にある。けれど、刃の上に言葉が降りたから、鋼の温度が少しだけ下がった。
「この村を荒らすな。布告は広場で読んだ。もう十分だ。帰れ」
「しかし、関係者の女――」
「連れて行く先はどこだ。宰相の執務室か。第一王子の寝所か。あるいは、夜のどこかか」
言葉に、薄い刃があった。
「“明朝に弁明を”と書いて、夜に扉を破る舌の先へ、俺の見ている人間を渡すと思うのか」
隊長は沈黙した。
その沈黙は、初めて彼の味方になった。
彼は深く息を吸い、吐く。
「……了解いたしました。今夜は引き上げます。だが、王都の目は長い」
「目だけなら、怖くない」
兵たちが灯りを引いて退き、靴音が遠ざかっていく。
村人たちの肩から、音にならない息が一斉に外にこぼれた。
太鼓の皮が風で少し鳴った。
花の柱から、最後の花びらが一枚、静かに落ちる。
私は、いつの間にか、膝が少し震えていた。
立っているのが不思議なくらい、体の芯が空っぽになっていた。
それでも、倒れなかったのは――背中に、熱があったからだ。
カイルの視線。
剣の線。
「許さない」の音。
「……殿下」
誰かが、そう呼んだ。
私ではない。
村の誰か。あるいは、夜そのもの。
カイルがわずかに首を振った。
「“殿下”は、王都の石の上に置いてきた」
私は一歩、二歩、彼へ近づいた。
口の中の名が、また喧嘩をはじめる。
ミリア。アメリア。
どちらで呼ぶべきか。
どちらで呼んでも、今夜はきっと割れてしまう。
「……カイル」
やっと出せたのは、いちばん短い名前。
彼は目で応えた。
剣を鞘に収める。
金属が静かに、夜に戻る。
「怖かった」
やっと出てきた私の声は、小さかった。
「うん」
「でも、ありがとう」
「うん」
それだけ。
それだけで、胸の奥の何かが、ようやく体温を取り戻す。
乾物屋の老婆が近づいてきて、私の袖をちょいと引いた。
「襟、立ってたよ。よくやった」
私は笑って、涙が一粒、頬を転がるのを許した。
花祭りの約束の結び目は、まだ台の上にある。
その上に、今夜の言葉を、もう一つ結ぶ。
庵に戻る途中、村人たちが小さく頭を下げた。
誰も“殿下”とは呼ばない。
「騎士さん」
「カイル」
「ミリア先生」
名前は、今夜も村の温度で、生きている。
扉を閉め、閂を落とす。
囲炉裏に火を足すと、炎がほっと息をした。
私は台の前で立ち止まり、木箱に目をやる。
カイルは先に外套を壁へかけ、剣を所定の位置に置いた。
そして、箱の前に来ると、留め具に触れ――手を離した。
「見せたな」
「見せた」
「出したら、戻せる?」
「戻す」
私はうなずいて、囲炉裏のそばに座った。
膝を抱える。
胸の中で、芽が暴れている。
“再び失う”予感。
柔らかいくせに、抜けない。
でも、その芽に布をかける方法を、私は知り始めている。
火。
言葉。
約束。
軽い結び目。毎日結び直せる結び目。
「カイル」
「なに」
「あなたが“殿下”で、私が“レオンハルトの娘”でも――今夜の“ありがとう”は、変わらない」
「うん」
「それと、明日も“お”の尾っぽ、教える」
「うん」
「渡し板、探す。流れたやつ」
「君は、靴」
「干す。忘れない」
火が「ぱち」と笑い、庵の板が夜を受け止める。
外では、兵の灯りが完全に消えて、星が戻ってきた。
私は毛布を肩に引き寄せ、深く息を吸う。
花の匂いは薄くなった。
代わりに、薪の匂いが濃い。
――微笑みの裏に、刃があった夜。
それでも、ここに微笑みは残る。
軽くて、ほどけやすい。
だから、明日も結べる。
目を閉じる前、胸の革袋に触れる。鍵は確かだ。
いつか、扉を開ける。
でも今夜は、火を守る。
眠る前、彼の方から言葉が落ちた。
「もう一度、言う。――この人を傷つける者は、俺が許さない」
私は頷いた。
それが、私の“今”を支える最短の文だ。
火が応えるように、静かに揺れた。
夜は、ようやく、眠りの形を思い出した。
笑いは土に戻り、刃は鞘に戻り、名は胸の中に戻る。
そして、明日へ。
微笑みを、表へ連れていくために。
けれど、笑いの種が土に沈んで眠りはじめた頃――靴音が、村の石を乱暴に叩いた。
最初に気づいたのは、太鼓の皮を外していた若者の叫びだった。
「誰だ――!」
返ってきたのは、冷えた号令。
「王都より来訪。門を開けよ。――王子暗殺未遂事件につき、全戸捜索を行う!」
空気が一枚きしんだ。
庵の囲炉裏に火を足していた私は、薪を持つ手を止めた。火の舌が、不安に舐めるように揺れる。
カイルが扉へ歩き、閂に手をかける。
「俺が行く。君は、火のそば」
「うん」
細い隙間から、夜の湿り気と、鉄の匂いが流れ込む。
黒い上衣の兵が三人。背後に灯りの列。村の入口から、さらに影が増えてくる。
「この村に、王都訛りは似合わない」
カイルは低く言う。
「用件だけ述べろ」
「王子暗殺未遂事件に関する――」
兵士の口上は、磨かれた金属みたいに滑っている。
「関係者の潜伏が疑われる。読み書きに長け、身を偽ることに長けた若い女。名を――」
喉の奥が熱くなった。
私は思わず、胸に縫い付けた革袋を押さえる。鍵が指先に固く当たる。
言うな。
言うな。
――言われる。
「アメリア=レオンハルト」
空気から、音がひとつ抜けた。
そして、戻ってきた。強く。
誰かの息、誰かの靴のきしみ、誰かの祈り。
私は立ち上がろうとして、膝がかすかに笑った。笑うな、今は。
乾物屋の老婆の杖の音が、どこかで二度、静かに鳴る。合図。
広場へ集められる人々。尋問。名前。出身。指先の荒れ具合。――襟を立てろ、とあの声が耳で囁く。
カイルは扉の外へ半歩出た。
兵が灯りを持ち上げ、彼の顔を覗く。
「お前は」
「旅の騎士。ここで火を守っている」
「ならば協力しろ。怪しい女を出せ」
庵の内側で、私は息を止めた。
怪しい女。
偽りの名。
微笑みの裏。
積み重ねた今日が、薄紙の束みたいに乱暴にめくられる音がした。
カイルの声は、静かだった。
「この村で、誰も“怪しく”ない夜はない」
「戯言を」
「祭りの残り香がある。酒がある。笑いがある。冠の欠片が足元に落ちている。――それら全部を“怪しい”と言うなら、王都は花を知らない」
兵が舌打ちし、二人が庵へ踏み込もうとした瞬間、カイルの腕が水平に伸びた。
肩は上がらない。肘は閉じる。
ただ、入れない線を夜に引いた。
「退け。命令だ」
「見せろ。命令を」
兵が懐から布を取り出す。黒い封蝋。宰相印。
私は指の中の鍵がいっそう硬くなるのを感じた。
あの赤い封蝋の手紙。――“明朝に弁明を”。そして夜の兵。
別の舌で書かれた命令。
今夜も、同じ。
「王子暗殺未遂――」
「どの王子だ」
カイルが問う。
兵は短く言った。
「第一王子殿下」
火がひとつ跳ねた。
カイルの目の奥で、何かが小さく結び直されたのがわかる。
第一王子。宰相。あの庭。
私は唇の内側を噛む。血の味。
彼が誰かが、こちら側に向かってくる。
「暗殺“未遂”だな」
「そうだ」
「なら、暗殺は失敗し、王子は生きている」
「当たり前だ」
「ならば、恐怖で村を縛る理由はない」
兵は苛立ったように灯りを揺らした。火が風を食べ、庵の壁に影が伸びる。その影が、木箱の位置を撫でていく。
私は視線を落とす。
そこには銀の輪がある。紋章。――アルフォード家。
今は、まだ箱の中。
「繰り返す。アメリア=レオンハルト。匿っていれば――」
言葉が、庵の外で割れた。
乾いた布が裂ける音。
市場の端で、誰かが倒れたような鈍い音。
人々のざわめき。
兵の視線が一瞬そちらへ向く。
その瞬間、カイルが半歩だけ前へ出た。
「広場でやれ。火のそばで人を脅すな」
「命令するな!」
剣の柄に手がかかる。
私の指は、革袋をもっと強く握っていた。
――やめて。
――でも、止められない。
私の声は、今夜、火より弱い。
広場は灯りで満ちていた。
太鼓は外されて片隅に転がり、柱の花は半分ほど落ちて、地面に色が散っている。
子どもたちは家へ押し戻され、女たちは戸口で腕を抱き、男たちは口を結ぶ。
乾物屋の老婆が杖をつき、私に見えない合図をひとつ送る。――襟を立てろ。
兵士の隊長格が布告を読み上げる。
「王都にて、第一王子殿下の行幸の途上、刃を向ける者あり。未遂に終わり、下手人は逃走。関係者は――」
「未遂なら、殿下は無事だね」
と、誰かが言った。酔いの残った若者の声。
兵が鋭く睨む。
「口を挟むな」
「口、挟むさ。祭りの夜に、村全部を敵に回すつもりなら」
隊長が顎を上げ、私たちの列をじろじろと舐めるように見た。
「読み書きに長け、身のこなしが良い女。年は――」
「やめて」
自分の声が、思ったより遠くへ飛んだ。
私が前に出たからだ。
足が動いた。
止められなかった。
止めたら、誰か別の人の名前がここに刻まれる気がした。
「ミリア!」と誰かが呼んだ。子どもの声。
私は振り返らない。襟を立てる。外套の中の心臓を抱えるように。
「書くのは私。教えたのも私。……でも、私はこの村で生まれてない。だから、村を責めないで」
兵の目が細くなる。
「名は」
喉が硬くなった。
偽りの名は、軽い。
でも今夜、その軽さで誰かを守れるなら。
「ミリア」
「姓は」
空気が固まる。
吐息の形まで目に見える。
――アメリア。
喉で、名が喧嘩した。
言えば、全部が、変わる。
言わなければ、誰かが、傷つく。
「名乗る必要は――」
カイルの声が、私の背中の骨を支えた。
彼は列から半歩出て、兵士と向かい合う。
「彼女は今、この村の“ミリア”だ。それ以上でも、以下でもない」
「法は――」
「法? 誰の法だ。誰の舌で書かれた」
彼の瞳が、冷えた星みたいに硬くなる。
「“明朝に弁明を”と書いて、夜に扉を破る舌の法か」
宰相の印。
第一王子。
王都の庭。
すべてが、今夜ここに重なって、カイルの肩に載る。
隊長が痺れを切らし、合図をした。
兵が二人、前へ出る。
剣が半歩、鞘から滑った。
刃は、まだ出ていない。
けれど、出るつもりの音が、夜の骨を鳴らす。
「やめて――」
私の声は、火より弱い。
だが、次の瞬間、火が“ぱちん”と大きく笑った気がした。
カイルが、剣を抜いたからだ。
月を吸う刃ではない。火を映す、夜のための線。
肩は上がらない。肘は閉じる。
踏み込まないのに、距離が変わる。
兵の刃が抜けきる前に、視界から目的地を奪われ、手首の角度が少し狂う。
金属が短く鳴り、火花は散らない。
カイルは打たない。崩す。
膝が勝手に折れ、足が地面の“低いほう”に吸われる。
一人、二人――倒れない。倒れる“前”で止まる。剣の線が、もう一歩を許さない。
村の人々が息を呑む音が、ひとつになって夜に浮いた。
隊長が歯を食いしばる。
「何者だ。命は――」
「命は、火のそばにしか置かない」
カイルは刃を寝かせ、私の前へわずかに斜めに立つ。
盾ではなく、風よけのような位置。
その背中は大きくないのに、風向きが変わった。
彼は短く言った。
「この人を傷つける者は、俺が許さない」
許さない。
その言葉が、夜の板に釘のように打ち込まれる。
私は喉の奥で、名の不一致が音を立ててほどけていくのを感じた。
ミリア。アメリア。
――今は、守られている人。
それで十分だ、と、はじめて思えた。
隊長が合図をしかけ、止めた。
彼は見たのだ。
カイルの左手が、鞘口からわずかに離れ、胸元へ上がるのを。
そして、衣の内から、小さな布に包まれた物が、夜の灯りに一瞬だけ銀を返したのを。
紋章。
二頭の獣が盾を支え、上に小さな王冠。
アルフォード家の指輪。
王族の印。
村に、低い波が走った。
兵たちの目が、ものの数拍で“命令を待つ兵”の目から、“誰の命令を待つべきか測る兵”の目に変わる。
隊長の喉仏が上下する。
「貴殿は――」
カイルは剣をわずかに下げ、はっきりと名を名乗った。
「第二王子、カイル・アルフォード」
時間が、薄く伸びた。
村の犬が一度だけ吠え、また黙る。
乾物屋の老婆が杖を握り直し、「やっぱりね」と唇が動いた気がした。
私の胸の中で、何かが静かに砕け、同時に、別の何かが静かに立ち上がる。
「……殿下」
隊長の膝が、浅く折れた。
兵の列がざわめき、すぐに沈む。
宰相の印と、王子の名。
どちらの舌が正しいか――兵にもわかる。彼らは“今夜、自分の首を守る舌”に従う。
「命令を」
カイルは指輪を布に戻し、胸にしまった。
剣はまだ手にある。けれど、刃の上に言葉が降りたから、鋼の温度が少しだけ下がった。
「この村を荒らすな。布告は広場で読んだ。もう十分だ。帰れ」
「しかし、関係者の女――」
「連れて行く先はどこだ。宰相の執務室か。第一王子の寝所か。あるいは、夜のどこかか」
言葉に、薄い刃があった。
「“明朝に弁明を”と書いて、夜に扉を破る舌の先へ、俺の見ている人間を渡すと思うのか」
隊長は沈黙した。
その沈黙は、初めて彼の味方になった。
彼は深く息を吸い、吐く。
「……了解いたしました。今夜は引き上げます。だが、王都の目は長い」
「目だけなら、怖くない」
兵たちが灯りを引いて退き、靴音が遠ざかっていく。
村人たちの肩から、音にならない息が一斉に外にこぼれた。
太鼓の皮が風で少し鳴った。
花の柱から、最後の花びらが一枚、静かに落ちる。
私は、いつの間にか、膝が少し震えていた。
立っているのが不思議なくらい、体の芯が空っぽになっていた。
それでも、倒れなかったのは――背中に、熱があったからだ。
カイルの視線。
剣の線。
「許さない」の音。
「……殿下」
誰かが、そう呼んだ。
私ではない。
村の誰か。あるいは、夜そのもの。
カイルがわずかに首を振った。
「“殿下”は、王都の石の上に置いてきた」
私は一歩、二歩、彼へ近づいた。
口の中の名が、また喧嘩をはじめる。
ミリア。アメリア。
どちらで呼ぶべきか。
どちらで呼んでも、今夜はきっと割れてしまう。
「……カイル」
やっと出せたのは、いちばん短い名前。
彼は目で応えた。
剣を鞘に収める。
金属が静かに、夜に戻る。
「怖かった」
やっと出てきた私の声は、小さかった。
「うん」
「でも、ありがとう」
「うん」
それだけ。
それだけで、胸の奥の何かが、ようやく体温を取り戻す。
乾物屋の老婆が近づいてきて、私の袖をちょいと引いた。
「襟、立ってたよ。よくやった」
私は笑って、涙が一粒、頬を転がるのを許した。
花祭りの約束の結び目は、まだ台の上にある。
その上に、今夜の言葉を、もう一つ結ぶ。
庵に戻る途中、村人たちが小さく頭を下げた。
誰も“殿下”とは呼ばない。
「騎士さん」
「カイル」
「ミリア先生」
名前は、今夜も村の温度で、生きている。
扉を閉め、閂を落とす。
囲炉裏に火を足すと、炎がほっと息をした。
私は台の前で立ち止まり、木箱に目をやる。
カイルは先に外套を壁へかけ、剣を所定の位置に置いた。
そして、箱の前に来ると、留め具に触れ――手を離した。
「見せたな」
「見せた」
「出したら、戻せる?」
「戻す」
私はうなずいて、囲炉裏のそばに座った。
膝を抱える。
胸の中で、芽が暴れている。
“再び失う”予感。
柔らかいくせに、抜けない。
でも、その芽に布をかける方法を、私は知り始めている。
火。
言葉。
約束。
軽い結び目。毎日結び直せる結び目。
「カイル」
「なに」
「あなたが“殿下”で、私が“レオンハルトの娘”でも――今夜の“ありがとう”は、変わらない」
「うん」
「それと、明日も“お”の尾っぽ、教える」
「うん」
「渡し板、探す。流れたやつ」
「君は、靴」
「干す。忘れない」
火が「ぱち」と笑い、庵の板が夜を受け止める。
外では、兵の灯りが完全に消えて、星が戻ってきた。
私は毛布を肩に引き寄せ、深く息を吸う。
花の匂いは薄くなった。
代わりに、薪の匂いが濃い。
――微笑みの裏に、刃があった夜。
それでも、ここに微笑みは残る。
軽くて、ほどけやすい。
だから、明日も結べる。
目を閉じる前、胸の革袋に触れる。鍵は確かだ。
いつか、扉を開ける。
でも今夜は、火を守る。
眠る前、彼の方から言葉が落ちた。
「もう一度、言う。――この人を傷つける者は、俺が許さない」
私は頷いた。
それが、私の“今”を支える最短の文だ。
火が応えるように、静かに揺れた。
夜は、ようやく、眠りの形を思い出した。
笑いは土に戻り、刃は鞘に戻り、名は胸の中に戻る。
そして、明日へ。
微笑みを、表へ連れていくために。
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一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
『追放令嬢は薬草(ハーブ)に夢中 ~前世の知識でポーションを作っていたら、聖女様より崇められ、私を捨てた王太子が泣きついてきました~』
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追放悪役令嬢の薬学スローライフ ~断罪されたら、そこは未知の薬草宝庫(ランクS)でした。知識チートでポーション作ってたら、王都のパンデミックを救う羽目に~
-第二部(11章~20章)追加しました-
【あらすじ】
「貴様を追放する! 魔物の巣窟『霧深き森』で、朽ち果てるがいい!」
王太子の婚約者ソフィアは、卒業パーティーで断罪された。 しかし、その顔に絶望はなかった。なぜなら、その「断罪劇」こそが、彼女の完璧な計画だったからだ。
彼女の魂は、前世で薬学研究に没頭し過労死した、日本の研究者。 王妃の座も権力闘争も、彼女には退屈な枷でしかない。 彼女が求めたのはただ一つ——誰にも邪魔されず、未知の植物を研究できる「アトリエ」だった。
追放先『霧深き森』は「死の土地」。 だが、チート能力【植物図鑑インターフェイス】を持つソフィアにとって、そこは未知の薬草が群生する、最高の「研究フィールド(ランクS)」だった!
石造りの廃屋を「アトリエ」に改造し、ガラクタから蒸留器を自作。村人を救い、薬師様と慕われ、理想のスローライフ(研究生活)が始まる。 だが、その平穏は長く続かない。 王都では、王宮薬師長の陰謀により、聖女の奇跡すら効かないパンデミック『紫死病』が発生していた。 ソフィアが開発した『特製回復ポーション』の噂が王都に届くとき、彼女の「研究成果」を巡る、新たな戦いが幕を開ける——。
【主な登場人物】
ソフィア・フォン・クライネルト 本作の主人公。元・侯爵令嬢。魂は日本の薬学研究者。 合理的かつ冷徹な思考で、スローライフ(研究)を妨げる障害を「薬学」で排除する。未知の薬草の解析が至上の喜び。
ギルバート・ヴァイス 王宮魔術師団・研究室所属の魔術師。 ソフィアの「科学(薬学)」に魅了され、助手(兼・共同研究者)としてアトリエに入り浸る知的な理解者。
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ロイド・バルトロメウス 『天秤と剣(スケイル&ソード)商会』の会頭。ソフィアに命を救われ、彼女の「薬学」の価値を見抜くビジネスパートナー。
【読みどころ】
「悪役令嬢追放」から始まる、痛快な「ざまぁ」展開! そして、知識チートを駆使した本格的な「薬学(ものづくり)」と、理想の「アトリエ」開拓。 科学と魔法が融合し、パンデミックというシリアスな災厄に立ち向かう、読み応え抜群の薬学ファンタジーをお楽しみください。
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「黙れ!」
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「よって、貴様との婚約は破棄。さらに──」
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